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前夜

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混ざり合い──"彼"へと融け合うその瞬間。
深い深い水底へと降りてゆく全身に、気泡がぶつかり弾ける淡い心地。
気泡のひとつひとつが彼の思いであり俺の思いだった。
悔恨、怒り、絶望、切望、渇欲、期待、すべてが懐かしく、やっと在るべき場所へ還って来られたのだと心の底から歓喜した──。
…ただ一つ。
か細い指で服の端を引かれたような、小さな意識の乱れが"俺"を微かに引き留めた。
バージルに。これからの俺に。もしも出逢うことがあるならば、お前はどんな顔をするだろう──。
「──…、」
想いは浮かびあがり、光のもやのように溶けた。


真正面から久方ぶりの兄弟喧嘩をし、殺気に釣られてやってきた悪魔共は斬り刻んで血の海に、ようやく飽きが来た頃にバージルとダンテは魔界を後にした。
抜け出すためにまた一悶着あったような気もしたが…細かいことはいい。
満点の星空のもと清涼な夜風が荒涼とした地平を渡る。そこに血生臭さなどは微塵もなく、人間の住む世界に戻ってきたのだと実感した。
聞いたこともない地名が書かれた標識を見あげてバージルは目を細める。
田舎の国道に放り出されてコンクリートに座り込んだまま「どこだよ、ここ…」と、かったるそうに頭を掻くダンテを尻目に歩き出す。
「あ?おい、道分かってんのかよ」
「知らん」
「はぁーーーっ…。じっとしてても始まらねぇか」
前へ行くか、後ろへ進むか、どちらが街に近いのかも不明だが、ここにいるよりはマシだろうとダンテも立ち上がりついてくる。
「酒とシャワーは遠そうだ。バージル、お前は?」
「俺は行く場所がある」
「へぇ?」
「後はお前も好きにしろ」
言うや否や閻魔刀を抜き放つと虚空を十字に切り裂いた。
荒涼とした風景が蒼く黒い焔に焼かれ、曝された空間の向こう側には魔界に似た暗色の空気が揺らめく。
"それ"が何処へ通じているのか、果たして"何処へ"辿り着けるのか、空間を裂いたバージルにしかわからない。
「て、おいッ!閻魔刀はずりぃだろ、俺も連れてけ!」
「心配するな。目指す町は恐らく魔界で歩いた道程より近い」
「遠くてたまるかっ…じゃなくて──」
ダンテの罵倒をそよ風程度にも気にせずバージルは空間の裂け目に消えた。
同時に、蒼黒い焔はぴたりと繋ぎ合わさって糸のような太刀筋を一瞬だけ残し、一瞬ののちに夜風が吹き抜ける荒野へと姿を戻した。
「くっそー…、便利かよ」
ダンテはちょっとだけ閻魔刀が羨ましいと思った。


取り零してしまいそうなほどに小さな気配を辿る。
元々は自分のものでありながら、僅かに異なる気配。
半人半魔のバージルが棄てた肉体と心が紡いだ、弱々しくも抗い、戦い続けた痕跡。
空間の狭間を抜け出た先、肌を撫でるのが夜風であることに違いはないが、バージルの目の前に広がる風景は一変していた。
住宅街を思わせる落ち着いた雰囲気の建物が並び、看板やネオンがない代わりに街灯と家々の窓から零れる室内灯の柔らかな光が道路に落ちる。
バージルがこの街を訪れたことはない。しかし眼前の風景を記憶は確かに留めている。
それはVがレッドグレイブへ到着する少し前のこと。
──行き倒れることのない安全な旅を約束するわ──
ウイユヴェールが車のドアを開ける姿が景色と重なった。
「この辺りか…?」
足を止めて見あげるとバージルの視線は石造りのアパートの窓を捉え、まだ明かりの灯らないその部屋は家主が不在であることを予想させる。
思えばウイユヴェールがVを拾ったのも夜だった。
あの日、酔っていたウイユヴェールはグリフォンを半ば幻覚扱いをしてあしらい、適当に運ばせたVもソファーに寝かせて自身もすぐに眠ってしまったらしい。
そして翌朝、目を覚ましグリフォンを見るなり恐怖や怯えよりも胡乱な眼差しを向けたというのだから、実に愉快であり、その様子を見られなかったことを純粋に惜しかったと思う。
「胆が据わっているのかいないのか。よくわからんな」
そんな出会いをしたお陰で、
悪魔への認識が恐怖より好奇心が先立つという妙な順序になってしまったのだろう。
悪魔との戦いも含め、常識に当てはめられない光景を幾度も目にしながらも、ウイユヴェールはVに守られ繋いだ手を最後まで離そうとはしなかった。
「…しかし、こんな夜道で見ず知らずの男に呼び止められれば警戒心を抱かれそうだな」
見ず知らずの、と自分で口にしながらも釈然としないものを覚えたバージルは小さく舌打ちを響かせた。
鮮明な記憶のせいで混同しそうになるが、ウイユヴェールが見知っているのはバージルではなくVなのだ。
「………」
時間を改め出直すためにバージルは踵を返す。
自分の意思を通したいだけなら、ここに留まり仕事帰りのウイユヴェールを捕まえれば良い。だがそれを行うことが今の自分にとっての得策だとは思えなかった。
威圧したいわけでも説き伏せたいわけでもない。
ただ会って話をする。
そのためにウイユヴェールの不興を買うような行動は避け、少しでもマシな選択をしようとしている。
「フン…過保護なことだ」
これまで生きてきてバージルが他人の事情を気に掛けることなど滅多になかった。考えたとしても廻って己の利となるか否かで判断を下してきた。
そんな性格に変化が現れたのは別たれていた人間の部分であるVが戻ったからだ。
Vが体験し、感じたものの全てをバージルは取り込んだ。そこにバージルの好む好まざるなどは関係無く、自身が元々持っていた人間としての性質を、Vが生まれたことにより改めてカタチをはっきりとさせられた。更には自覚していなかった細やかな感情を育てあげてバージルへ還ってきたのだ。
今まで感じなかった、または捨て去り忘れていた感傷やら情緒やらの影響が多少なりとも現れていることを認めざるを得ない。
今一度バージルは深く溜め息を吐くと明かりの灯らない窓辺を仰ぐ。
何故、自分は態々このような手間をかけているのか。
何のためにウイユヴェールの元へやって来たのか。
魔界から戻ったら何をしたいか…ダンテに言われるまでもなくバージルも考えた。
そして何かを思いつくよりも先に漠然とこの場所が脳裡に浮かび、自然と閻魔刀を抜き放っていた。
これは──自分の中で眠るVの願いだ。
「…ごちゃごちゃ考えても仕方あるまい。まずは時間を潰すか」
見知らぬ街で土地勘もないがバージルは楽観的に捉えてネオンを求めて歩き出す。
宿が見つからなければ酒場でも構わない。どちらにせよ荒野に置き去りにしたダンテよりは先にシャワーか酒に辿り着けるだろう。
そう考えると回り道も悪くはないという気持ちになりながらバージルは住宅街を後にした。

翌日。
結論から言えばバージルはウイユヴェールに不審者を見る目つきを向けられたし、ギャンではないにしろ結構泣かれた。
酒盛りの場で適当に巻き上げた金で滞在するホテルの一室で、渡された名刺を眺めながらバージルはグラスに氷を放り込んで酒を注ぐ。
ウイユヴェールとは望んだ形で話ができた…はずだ。
あの場に魔獣たちが揃っていたことには驚いたが、Vと同じく彼らにとってもウイユヴェールの存在は気がかりだったということだろう。
お陰でVがどういう存在かも一から説明をしなくて済んだ。
「この街に留まる理由もなくなった…が──」
手に馴染む触り心地の名刺には店名が美しく印字され、落ち着いた雰囲気を漂わせている。当人が胸を張っていたように、静かに本を選び過ごせる場所なのだろう。
Vが気に入りそうな店だからバージルもきっと気に入るだろう、と。
グラスを一口傾け、バージルはコートの懐に納めていた詩集の存在を思い出す。
あれは魔界に行く前に預けてきた。幼かった自分が、そしてVが幾度も読み返したあの詩集はページを捲らずとも諳じることができる。
「…新しい読み物でも探すか?」
微睡むような呟きに応えるものはない。
しかしその言葉は然るべき相手にもちろん届いているとバージルは確信している。
溶けた氷がぶつかり合う音。
秒針が刻む無機質な音。
遠くに響く車のエンジン。
いつの間にか全てが遠ざかり、眠りのような、夢のような、不確かな意識の狭間で語り掛けていた。どうせ聞こえているのだろう?と。
あの女に…ウイユヴェールに今一度会うのなら自分ではなくVであるべきだと思い浮かべる。
「…会う必要が?別れなら…とうに済ませた──」
意識の闇から染み出したその"声"はVと名乗ったバージルの一部だ。
続いてゆっくりと輪郭が現れる。
痩身で杖をつく銀髪の青年だ。
今なら杖に頼らずとも容易に動けるだろうに、その存在が手に馴染んでしまったのだろう。
「必要がない。とか言う割には呼び掛けにすぐに応じるな。未練と表す以外に何がある?」
バージルの言葉にVは緑の瞳を向ける。
銀色の髪以外に似通った特徴のないその容姿は、バージルが求めた力とは異なるものの象徴かもしれない。人間らしさという不安定で不確定な、道理では計ることの及ばない未知の力だ。
「…長く離れていたんだ。同化するまでに時間がかかる」
「かけたところで完全には馴染むまい。お前は俺を元にしてはいるが、新たな人格だ」
「また棄てるか?」
「それでは俺の方もまた欠ける」
自分に語りかけるというのも奇妙な心持ちだとバージルは内心に浮かべながら答える。返される言葉も大体の予想がつく。何せ自分の一部なのだから。
記憶は共有され、Vが抱く迷いや、わだかまる感情が澱となってバージルの中に沈み込んでいる。
「他人へ向ける感情など、その者が役に立つのかそうでないかの値踏み以外、必要ないと思っていたがな」
「…自分でそう思っていても、気づかない程度にはお前も情とやらを持っていたんだろう。それのお陰で今回の騒動も歯止めが効いたんだ」
「フン…」
「臍を曲げるなよ。放任されて、ついでに腕を切り落とされても父親と叔父の仲裁をしに飛んできたんだ。見事な活躍だったと褒めてやるべきじゃないのか?」
先ほどの仕返しとばかりにVが笑う。
閻魔刀を取り戻した時には気づいていなかった血縁の存在を持ち出されて、今度はバージルが口を閉じた。
ネロから閻魔刀を奪った時、バージルは限界を迎えた身体を保つことしか頭になく、なぜあの場所に閻魔刀があったのか…なぜネロが閻魔刀を使っていたのか気を回す余裕もなかった。
「こちらに戻って来たのなら、ついでに顔くらい見せに行っても罰は当たらないだろうに。親として」
「責任、とでも言うつもりか」
「言葉は知っているらしい」
「はっ………それで?」
「それで、とは?」
「その"責任"とやらを持つことは、俺たちにとって必要か?」
「………さあ。…酷く顰蹙を買うであろう答えだがな」
Vの思いがバージルに何となくわかるように、バージルのそれも伝わっているのだろう。
Vは呆れたものだと言いたげにため息をつく。
「──俺の話はいい。今はV、お前の話だ」
Vの小言を終わらせたバージルは、先ほどまで部屋で眺めていた名刺をここでも手の中に納めるとVに向かって指で弾く。
話は逸れてしまったがVを呼び出したのには理由がある。
「あの女がこれを渡す相手に困っていたのでな」
「……。俺の役目は終わったはずだ」
名刺を受け取ったVはわずかに眉根を寄せてバージルを睨む。
「ウイユヴェールは…ただの庇護対象だ。レッドグレイブに到着してから、俺にすることはなかった。出来ることも…。ユリゼンが現れるまで無為に時間を過ごしたくなかった」
「本心ではあるな。だが本当にそれだけか?」
バージルがウイユヴェールと話をしたのは一度きりだ。
しかしウイユヴェールと言葉を交わす間にも、バージルの瞳が映すその姿には蜃気楼でも見るかのようにVの記憶が重なっては立ち消えていった。
胸中に浮かんだ懐かしさはバージルの手を伸ばさせ、Vがそうしたようにウイユヴェールに触れていた。
「あの女を慰めるのは俺の役回りではない」
「別たれた存在に宛てる役だって無いだろう。"V"はもう…"バージル"に還ったのだから」
「思うのは勝手だがな。さっきも言ったようにお前はもうVとして生まれた。ゼロには戻れん。あの女の記憶からも」
バージルが胸の奥で燻るものを取り除こうとしても、原因であるVが納得をしない限り消えるものではない。
抱えた想いは本人にしか扱えない。
「Vという存在を、自分を見て欲しい。そんなものは子供でも持っている立派な欲だ。その感情はお前が一番理解しているだろうが」
一度は手放した人間の心というものを再び受け取り、つくづく面倒なものだとバージルは思う。
生きていくことに他人を愛することも愛されることも必要ではないと、Vを迎えた今でもやはりそう考えている。
しかし脆弱な人間の身体で放り出されたVがその身をもって感じ、経験してきた現実の中では、自分の存在を認めてもらうことが、その相手に自分の名を呼んでもらうことが、どのような意義を持つかを認識させられた。
Vが過ごす間に芽生えたその感情はいつの間にかバージルの思考にも馴染み、行動に現れるようになっていた。人間の変化として言葉を当てるなら、円くなった、とでも言うのだろうか。
「口で役割は終わったと言い張っても、思い残したものが纏わりついてきて敵わん」
「それはすまないことだ」
「理解したならさっさと行け。お前の気が済むまで、話でも何でもしてこい」
腰の重たい様子のVに、もともと気の長い方でもないバージルはとっとと行けと言葉を投げる。
必要が不要かの判断に時間をかける性格ではないのに、Vという自分の一部は何故こうも勿体つけるように挙動が遅いのか。
この夢の狭間のような空間では移動をせずとも現実へ戻ることができるだろうに、Vは踵を返すと杖をコツリコツリと鳴らしながらゆっくりと立ち去る。
しかし不意に何かを思い出して立ち止まると、わざとらしく人差し指を立てた。
「俺が簡単に出歩いて、バージル、お前の負担には──」
「ならん。お前一人が出入りしようが大した労力ではない」
半ば食い気味に返答をする。
「それに俺はお前を手放すこともない。よって閉め出される心配もしなくていい。…質問はこれで全てか?」
「安心できそうだ」
棄てられたことをVは恨んではいないはずだが、話のネタ程度には持ち出すつもりらしい。
これまで無い振りをして忘れ去った細かな感情にバージル本人も知らぬ間に底意地の悪い人格がついて、今になってちくちくと復讐をされている…そんな気分になる。
「──ああ、それから」
「今度は何だ」
いよいよ苛々を募らせるバージルに、Vは分かっているだろうに悪びれる様子もなく「そう怒らないでくれ」と宥める。
「ウイユヴェールと会話が弾んだら、しばらくは帰ってこないかもしれない」
「…責任とかいう言葉を使ったのはどこの誰だ」
「満足するまで、と許可を貰ったからな」
「気が済むまで、と言ったつもりだが」
僅かな差異ではあろうとも都合の良い捉え方をするVに一々答えるのも面倒になってきた。
バージルは、このVという男が自分の一部だという事実に徒労を感じ、ウイユヴェールもまた好意を抱いていることに頭痛を覚える。
「好きにするがいい。心ここに有らずの状態で俺の中に居られても鬱陶しいだけだ」
姿を形づくることができてもVは人間にはなれない。
バージルの一部である事実は変わらないし、ウイユヴェールと再会を果たしても二人が同じ時間を過ごすことはできない。
そんな影のように不確かな存在でありながら顔を合わせたところで互いに未練が募るばかりではないのか。
思考は堂々巡りをした。
それでも、会わない選択よりも会うことを、問題の解決にならないこの行動を、バージルは無意味だと切り捨てる気にはならなかった。
以前を知る者からすれば余りにもらしからぬ斟酌にVは微笑む。
「…半魔のお前に"心"の有り様を説教される日が来るとはな」
どこか満足そうに口角を持ちあげると、バージルに背を向けそのまま闇に溶けるように姿を消した。
「………まったく、手のかかる」


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