×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



(6)

.
狭く長い通路を、埃と黴混じりの空気が抜ける。
くすんだ発色の蛍光灯が割れたコンクリートの壁を照らし、時おり通過する地下鉄の振動を伝える。
コツコツと鳴る靴音はウイユヴェールのものだけだ。
他の誰かが通路を歩いてきたなら、遠くからでも必ず音を響かせるだろう。
それがわかっていながらも、狭く長く、古びた通路は通る者の心細さを煽る。
「(…こんなに遅くなるなんて思ってなかったし…)」
仕事に熱が入ったとはいえ、予定よりも遥かにオーバーした時刻は、間もなく日付を変える。
構内の壁にまで続く、混沌と荒廃を連想させるグラフィティアート。それらに見られているような錯覚すら覚えて、ウイユヴェールの足運びは自然と早くなる。
できるだけ早く階段を上りたい。
その一心で通路の曲り角を通り過ぎようとした時。
蛍光灯の切れた脇道に、蹲る人影を見た。
薄汚れた身なりの男がウイユヴェールへじっとりとした眼差しを向ける。
こんな場所でついてない。
座り込むその姿から体調不良で休んでいる人間と考えるのは、あまりにも楽天的すぎる。
すぐさまウイユヴェールは視線を逸らすも、通り過ぎた背後で衣擦れの音が聴こえた。
「(あぁ、…うそよね……?)」
ウイユヴェールの靴音に合わせて男の足音がついてくる。
早足になれば、後ろのそれも同じように。
小走りになると、後ろの足音も強く地面を踏んだ。
前触れなく腕が掴まれて、強引に後ろへ引っ張られる。
悲鳴を堪えて「離して…!」と抵抗すると、「大人しくしろッ!」と襟元を掴まれた。
頭の中が恐怖で満たされ、助けを求める言葉が引き攣って唇から漏れる。
突如──胸を押す痛みが消えた。
男の身体が壁に叩きつけられ、呆然とするウイユヴェールの前には長い金髪の女が現れていた。
「は…、…え…?」
「一人でどうにかできないのなら、こんな場所を歩くべきじゃないわね。怪我は無い?」
訊ねるその足元で男が呻いている。
冷たく見下ろした女は、行きましょ、とウイユヴェールを促した。
あまりにも一瞬すぎる出来事で、何が起こったのか整理もできていなかったが、このままでは置いていかれてしまう。
慌てて追いかけて横に並ぶ。
女が長身でスタイルが抜群だということがわかった。
ロングブーツにローライズパンツ、上は素肌にビスチェを身につけており、大きく開いた胸元の合わせには雷のようなカットが入っている。
色を黒で統一し、身体のラインを惜しげなく見せる格好だ。
そして暴漢を"どうにかできる"腕がある──…。
「助けてくれてありがとう。とても強いのね。さっきのキック…?速すぎて見えなかった」
ウイユヴェールが気づいた瞬間には女の金髪が優雅に肩へと流れ、男を蹴り倒した長い脚が床を踏んでいた。
女は前を向いたまま、ちらりと向けた瞳を笑みに細める。
「力を振り翳す男の鼻は根本から折ってやらないとね」
冬空のような薄い水色の瞳だ。
女のブーツとウイユヴェールのヒールが音を重ねる。
恐怖で脈打つ心臓の鼓動は通路に響く足音のように忙しない。しかし、今はこの場から離れるほうが重要だ。
「後ろを…歩いてたのよね?…足音が聞こえなかったから……私以外にこの通路に人がいたなんて…。全然気がつかなかったわ」
通路の雰囲気に気圧されて緊張していたのかもしれない。
もしも彼女に助けられなかったらどうなっていたか。想像したウイユヴェールはバッグを胸に抱いた。
「ひと気のない場所だもの。気をつけないと、か弱い女の子は食べられてしまうわよ」
「ええ…。この街に慣れていなくて…もっと注意するべきだったって、反省…」
ウイユヴェールは困った顔をしながら小さく笑う。
つられるように女の表情も柔らかくなる。
女の横顔は美しく、高い鼻梁は臆することなく通路の先へと向けられた。
その顔立ちがふと誰かと重なって見え、ウイユヴェールはしばし魅入った。
「私の顔が気に入ったのかしら」
「あっ、ごめんなさい。なんだか…あなたに会ったことがあるような気がして…?」
「ナンパにしてはありきたりね」
「じゃなくてですね…」
記憶に指がかかる前に面影は散って女の微笑に霞んだ。
あれほど心細かった地下鉄の通路も、彼女と一緒ならば微塵も不安は感じない。
少し歩き、地上へ繋がる階段の案内板が目に入る。
くすんだ蛍光灯が微弱に明滅する。
パチッと音が弾け、
一瞬で通路が闇に包まれた。
「やだ…今度は停電──…?」
「──…、」
ウイユヴェールの隣で微かに空気が動く。
振り向いても闇しかない。
息苦しく、鼻先すらも見えない黒い世界に、爆ぜるように紫の雷光が生まれ、軌跡を描いた。
「なに…?」
隣の女へ、無事を確かめるためウイユヴェールが手を伸ばした時、遠く──あるいはすぐ近く、鉄が割れるような鋭い高音が響き、耳元を掠めた。
「きゃぁ──っ!?」
一体何が起こったのか──。
ウイユヴェールはただ身を竦めるしかない。
暗闇の中で女を探すため、震える脚を叱咤した。
「ね、ねぇ…っ!無事なの──!?」
返事はないが、しかし一人で逃げるわけにはいかない。
こわごわと近くを探り、触れた柔らかな感触をウイユヴェールはしっかりと掴まえた。
何事も無かったように蛍光灯が光を取り戻したのと同じタイミングだった。
「積極的ね。けど、相手は男の子の方が嬉しいかしら」
ウイユヴェールが掴むのは女の二の腕だ。
それを見下ろして、停電が起こる前と変わらない様子で、女は艶然と答える。
「い、今…何が──…」
問いたげなウイユヴェールの視線を、しかし女は受け流して形の良い顎を前方へと向けた。
「配線が旧かったんでしょ。さ、出口よ」
漏電の名残りか、女の傍らで紫の光がパチリと弾けたような気がした。

胸の鼓動が治まらないウイユヴェールだったが、女はあっさり「気をつけて帰りなさい」と言うと軽い足取りで静まり返った街へ去ってしまった。
名前を訊ねる隙もなかった。
「一人残されても…」
怖いんですけど、と肩を落として、仕方なくホテルへ向かって歩きだす。
「ウイユヴェール」
「ひっ…!ふっ、…んむーっ…!?」
「大声はやめてくれ。夜中だ」
歩きはじめた矢先、声をかけてきた男──Vの手により口を塞がれた。
「今の女は……お前の知り合いか?」
Vは昨日の夜にウイユヴェールの部屋にやってきた。しかし朝起きた時には部屋から姿を消していた。
それでこの不意打ちとは一体どういうことか…。
窓から訪ねてくるような男なので、もう諦めの境地としてウイユヴェールはVの手を剥がす。
「んむっ…、ちょっとV!?…何でここに…っ」
「部屋に入れないから迎えに来た。…あの女と何かあったのか」
「彼女は追い剥ぎから私を助けてくれたのっ。あと地下道も停電になったから、それで…」
「停電……女の他には?誰もいなかったか」
「彼女が一人で男を蹴り倒したのよ。しかも一撃。…すごく気にしてるけど、その……もしかして好みとか?」
「………。俺のではない」
「?」
女の立ち去った方向をしばらく見つめていたVは背中を向けて歩き出す。
先ほどの美人といい、美形はマイペースなのだろうかと思いつつウイユヴェールも後に続いた。
並んで歩く既視感とともに首を傾げていると、Vが独り言のような言葉を漏らす。
「…場の空気に充てられたか」
「うん?」
「体調のことだ。顔色が悪い」
「……ずっと緊張してたから…。さっきの怖いのが残ってるのかも」
「ひと気のない場所は通らないことだ。夜でも…昼でも」
「さっきの彼女にも言われたわ。でも──」
さすがに昼なら大丈夫、とウイユヴェールは言おうとした。
「明日の仕事には俺もついていく」
「今なんて?」


190510
("22 加筆修正)
[ 187/225 ]
[もどる]