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「……さっき、俺のせいかって聞いたよな。そうだよ。お前のせいだよ。お前が居るから、俺はこの街から逃げ出そうと思ってた。店長が好きだって言ったのも嘘だよ。ただお前の側から離れられればと思ってついた、嘘だ」
そう言った途端亮が息を飲んだのが見てとれ、それでも太一は何も言うな。と目で制し、
「……お前に出会わなきゃ、ただひっそり死んでく人生だった。でもそれで良かった。むしろ俺にとってはそれが、一番良い人生だと思ってた」
そうじっと亮を見つめては、泣き出しそうな顔をしながら呟いた。
その告白があまりにも悲しく衝撃的だったのか亮がまたしても小さく息を飲み、そんな亮を見ながら、もうどう足掻いたって元の関係には戻れないのなら全部ぶちまけて消えてしまおう。と太一は腹を括って、言葉を吐き出した。
「……母さんが死んでから、俺の世界も死んだと思った。オメガとして生まれてきたせいで理不尽な事ばっかで、苦しかった。それでも母さんがいたから、俺はなんとか生きていけた。……でも、その最後の光だった母さんが死んで、馬鹿な俺はその時ようやく悟ったんだ。結局最後は、みんな俺の側からいなくなっちゃうって。死んだ父さんも、掌を返して蔑んできた友達も、俺を残して逝った母さんも、もう俺の元には帰ってこない。それが俺の人生なんだって悟った時、これからはもう楽しい事も、嬉しい事も、俺の人生には要らないって思った。……その度にまた、心を砕かれたくなかった。だから、ずっと一人で生きて、最後はそっと死のうって思ってた。俺はいつ死んでもいいって、出来るだけ早く死にたいって、ずっと思ってた。そうすれば父さんと母さんの所に行けるから、それを俺の人生の目標にして、生きてきたんだ」
……話す声は震えみっともなくて、こんな話をわざわざ亮にした所で何も変わらないとは分かっていたが、それでも、もう止められなかった。
「だから別に叔母さん達や他の人らにこき使われようが蔑まれようが、平気だった。ただ雑音のように流せば何も感じなかったし、むしろその方が楽だった。でも高校に進学して、龍之介たちと、お前と出会って友達になってから、おかしくなったんだ。……気付いたら毎日すげー楽しくて、普通に毎日幸せで。……だから、欲が出た。一人で生きてくって決めてたのに、少しなら、あとちょっとだけならって自分を騙して、人並みの幸せ欲張ってた。……そんで、欲張った結果、取り返しが付かなくなった」
そうくしゃりと笑いながら、目を伏せた太一。
龍之介達と友達になって、亮に出会って、太一の世界は変わった。
種が地に落ち、芽が芽吹き、そしてやがて花が咲くように、愛しさや綺麗なもので溢れていった世界。
笑って、悩んで、まるで普通の、どこにでもいる高校生みたいに素のままで居られる事への喜びを取り戻した。
しかしそれは同時に、太一を人間たらしめる事でもあった。
今までは流すことが出来た蔑みの視線も声も、酷く憤りにも似た侘しさを覚えるようになり、そしてそんな自分と何も望まぬまま死ぬべく姿の自分との狭間で太一は揺れ動き、だがやはり自分を守るために作った殻から抜け出して足を踏み出す勇気は、出なかった。
「……気付いたら俺の手の中には友達だとか、店長みたいな優しい人だとか、……お前とか、失いたくない大事なもので一杯になってた……。でもふと我に返ったら途端に怖くなった。龍之介達が、そして何よりお前が俺から離れていったらどうしようって、そう考えたら怖くて辛くて堪んなくて、だから、俺から手放そうって、まだ離れられるうちに全部終わりにしようって、思ってた」
太一が時々言葉を詰まらせながらも話す言葉を亮は遮ることなく、しかし、聞いてるよ。と言いたげに腕を握る手に力を込めながら、じっと見つめてくる。
その琥珀色の綺麗な瞳が暗がりのせいで良く見えなくて、ああ、これがきっと最後なのに勿体ない。だなんて太一は場違いな事を考えながらも、
「友達として、お前が綺麗だって言ってくれてる俺でいられるうちに、いっそお前と出会わなきゃ良かったって思う前に俺の方から消えちゃおうって、そう思ったのに、……なんでこんな所に居るんだよお前」
そう眉を下げ、唇の端をひしゃげ、
「……なんで、いっつもお前は俺を一人にさせてくれないんだよ。……なんでお前はいっつも、俺を惨めな奴にさせるんだよ」
なんて呟いた。
胸が痛くて、苦しくて、鼻の奥がツン、と痛くなっていく感覚に太一がずびっと鼻を啜る。
目の前には驚いたような、傷付いたような表情をした亮。
その顔ですら愛しくて、でも腹立たしくて、
「……最初は本当にただ友達になれて嬉しかったのに、お前がばかみたいに優しいから、お前がばかみたいに俺を大切な存在みたいに扱うから、俺は俺でいられなくなって、気付いたら、もっと、もっとって欲張ってた。お前に優しくされたいとか、大事にされたいとか、……生きたいって、幸せになりたいって思っちまった。挙げ句の果てに、おまえに、……あ、あいして、ほしいなんて、ばかみたいなことをおもうように、なっ……」
そう最後は声にならず、堪えきれなかった涙を一粒、ぽろりと落とした太一。
それを皮切りに涙は決壊したかのように制御が効かずぽたぽたと流れ落ちてはアスファルトを濡らしてゆき、その情けなさにまたしても、ちくしょう、と心のなかで呟いた太一が、ぐすっと鼻を啜る。
……最初亮を好きだと自覚した時。
叶わない恋だと分かりきっていたが、だがそれでも良かった。
いや、むしろその方が幸せだと思っていた。
ただひっそりと胸の奥で抱え温めるような、そんな優しい恋を出来た事。
それが嬉しかった。
だが泣き崩れて亮の腕にすがってしまったあの日。
あの日自身の恋は醜い欲を潜めたものだと、気付きたくはなかったが気付いてしまった。
亮が欲しい。
亮のものになりたい。
亮と、人生を生きていけたら。
そう強く強く、願ってしまった。
そしてその願いが呆れるほど馬鹿げていて不可能な事だと分かっていたからこそ、翌日逃げるよう亮の側を離れたのだ。
それなのに。
そうぐだぐだと心のなかでくだを巻きながら太一がまた鼻を啜れば、そんな太一の告白に息を飲んでいた亮がしかしぼろぼろと泣く太一を見てぎゅっと腕を握る掌の力を強め、
「た、たいち、」
と顔を覗き込んでは、泣かないで。と眉を下げる。
お互い冷たい風にさらされて身も凍るほど冷えているというのに、腕を強く握ってくる亮の掌はどこか温かいようにも感じて、太一はまた一粒、ぽたりと涙を落としてしまった。
「……太一、やっぱり俺太一が何考えてるのか分かんないよ。太一も俺が好きなら、なんで俺から逃げようとするの……。なんで、そんな悲しい顔で泣くの……」
そう困惑しながら呟く亮にぎゅっと唇を噛み締める、太一。
……亮が自分を好きだという事を、太一はずっと否定し続けて、友人だから優しくしてくれるのだと、魂の番いのせいだと自分に言い聞かせてきたが、だがしかし本当は、どこかで分かっていた。
亮が自分を見る瞳の柔らかさ。
亮が自分の名を呼ぶ声の甘さ。
亮が自分に触れる指の温かさ。
それら全てから、愛しいと、大切にしたいと思われている気がして、それでもその事に見ない振り気付かない振りを繰り返し、自分の心を騙してまで亮と生きる未来を選ばないのは、選べないのは、
「……だからお前は何も分かってねぇって、言っただろ。……お前は俺を好きだって言ってくれたけど、俺は、俺にはお前に優しくしてもらう権利も、愛してもらう価値もないんだよ。俺にはお前と一緒に生きてく、資格なんかないんだ」
とぼたぼた壊れた蛇口のように涙で頬を濡らしながら、……この事は亮には死んでも言いたくなかったのに。と目を伏せ、
「……俺、オメガのくせに妊娠しにくい体なんだ」
と、ずっとずっと自分の気持ちを圧し殺してきた本当の理由を、亮に吐き出した。
またしても亮が息を飲んだ音がし、それでも亮は太一の腕を掴んだまま離そうとはせず、じっと太一を見下ろしている。
しかし太一はもう、亮の顔を見れなかった。
……亮がどんな表情をしているのかを、見るのが怖かった。
「……しにくいっていうか、ほぼ無理だって、言われてて……。だから、俺とお前がもし仮に番いになったとしても、無意味なんだよ。俺がお前を好きでも、お前が俺を好いてくれてても、未来なんてない。俺じゃ、お前の子を産んでやれない。こんなんでオメガだとか魂の番いだとか、ほんと情けない話だろ」
そう自嘲した太一がそれでも唇の端をひしゃげ、
「……こんな出来損ないが魂の番いだなんて、お前に申し訳ねぇって、ずっと思ってた。……ごめんな、りょう……」
と呟く。
だがごめんなと伝えたその声がやはりあまりにも頼りなく情けなく聞こえて、……本当に、どうしようもなく惨めだ。と太一は唇を噛み締めた。
太一の、幼い頃の夢。
いつか父と母のように心から好きだと言える人と結婚をして、子どもを授かって、温かな家庭を築きたい。
それが、太一の夢だった。
しかし自分がオメガだと分かったその時、その夢は儚くも散った。
オメガ男性は無精子症であるが故に、女性とセックスをしても子どもは作れない。
そして、薬が体質に合うかどうかという様々な検査を受けて自分が妊娠しにくい体質だと発覚した時、やはり自分には温かな家庭を築く事は無理なのだと、太一は無情にも突き付けられてしまった。
オメガのせいで友人を失い、オメガのせいで常に蔑まれ、そのくせオメガの性に抗えない自分の浅ましさに泣く。
そんな、オメガとして生まれたって何一つ良いことなんてなかった人生だった。
それなのにオメガとして生まれてきた事の意味である、自身の体で子どもを身籠るという事さえ、妊娠しにくい体だと、子どもは諦めた方がいいね。と産婦人科の先生に言われた時。
太一は自分は生きていても価値のない人間なのだと、思ってしまった。
それでも死ななかったのは、支えてくれる、こんな出来損ないでも無償の愛を注いでくれる母の存在があったからだった。
孫の顔を見せることができないのならばせめて、母が息を引き取るその最後まで、ずっとずっと、側に居てあげよう。母の為に生きよう。
そう誓っていた太一の決意はしかし、あの夏の日に、全て呆気なく奪い去られてしまった。
夢も、希望も、ひっそりと決意した誓いさえも、ままならない。
それを痛切に思い知らされたからこそ太一は父と母の軌跡をせめて無駄にせぬよう、しっかりと一人で生き、そして一人でひっそりと死んでいくと決めたのだ。
それなのに、そんな想いですら亮と出会って揺らいでしまった。
その事が、たまらなく、惨めだった。
「……俺がせめて真っ当なオメガとして生まれてれば少しは俺にもお前と生きる未来が持てる資格なんてあったのかなとか、お前と生きられる未来はなくても一度だけで良いから抱いて欲しいって、言えたのかなとか、そうすれば母さんと父さんの遺伝子を未来に繋げられたのかなとか、お前との子どもを育てられたのかなって、……そうやってお前を好きになって俺はどんどん弱くなって、欲深くなって、でも、どうしようもない現実に打ちのめされてばっかで、お前と居ると苦しいんだ、お前と出会ってからずっと、くるしい……。だからもう放っておいてくれ。俺をこれ以上、惨めにしないでくれ……」
喉をひきつらせ、苦しさに息を乱し、そうぼたぼたと泣いた太一。
亮の腕にすがってみっともなく泣いたあの日に言った、オメガになんて生まれたくなかったという言葉。
それは紛れもなく太一の本心だった。
だがそれと相反する気持ちがぐらぐらと足元を危うくさせ、何も感じない俺でいたいのに、どうにもならない事に一喜一憂して惨めになる自分が嫌だ。とさめざめ泣く太一は、こんな話をしながら放っておいてくれだなんて自分でも矛盾していると知りながら、それでも、これが今の太一の正直な気持ち全てだった。
苦しくて切なくて、虚しくて寂しい。
頭のなかでそう泣きわめく言葉が口のなかでまごつき、ぐるぐると体内を巡る血液が沸騰するよう良く分からない感情で戦慄く体。
もうまともに息すら吸えず、ヒュッヒュッと喉を鳴らしながら空気を吸い込むたびに肺に冷たさが満ちていく。
アスファルトにぽたぽたと痕を付けていく涙を、こんな風にみっともなく泣く自分を見られたくなくて、太一がお願いだからもう離してくれ。と腕を揺らせばするりと離れた亮の掌。
触れられていた所が風に吹かれ急激に冷えていく感覚にずびっと鼻を啜りながらも、……これで、もう本当に何もかも終わった。とまたしても太一は涙を落としてしまった。
いつだって逃げ出せたのに卒業を控えた今日まで粘って街から立ち去れなかったのも、上手く誤魔化し本音を包み隠して立ち去れば良かったのにそれすらも出来なかった事も何もかもやはり惨めで、……それでもずっとずっとお前が好きだよ、亮。と太一が心のなかで呟いた、その時。
「……太一、好きだよ」
だなんて亮が、ぽつりと呟いた。
太一が心の中で溜め込んでいたモノ全てを吐き出すまでじっと、口を出さず耐えて聞いていた亮。
しかしそんな太一の告白を静かに聞き終えたあと亮が発した一言は太一の涙ながらの哀願全て投げ捨てるような、言葉だった。
太一を見つめる亮と、亮を見つめる太一の目が、かちりと合う。
瞬間息を飲んだ太一の涙できらきらと揺らめく漆黒の瞳が綺麗で、頬に走る涙が愛しくて、亮はそっと太一の顔を両の掌で包み、……こつん。と額を合わせた。
「好きだよ。大好き。出来損ないなんてそんな事、絶対ない。二度とそんな事言わないで。それに俺は太一が俺の側に居てくれれば、それだけで良いよ」
亮の唇から零れ落ちる言葉が、白く揺蕩う息と共に宙へ舞い上がっていく。
その言葉にヒュッと息を飲んだ太一だったが、ぐっと一度口を真一文字に結んだあとわなわなと口の端を震わせながら、……何、言ってんだよ。と呟いた
「……おまえ、俺の話、聞いてなかったのかよ……そんな、簡単な、話じゃねぇんだよっ……お前の未来も、お前の生まれてくる筈だった子どもも、全部全部俺が取り上げて、それでいいわけっ、ねぇ、だろ……」
「太一が俺を選んでくれるなら、俺は全部を捨てたって構わない」
「……っ、ふざ、けんな。お前は奪われる側に立った事がないから、んな事が言えんだよ……。失う悲しさも、虚しさも、絶望も、味わった事がないから、そんな事が言えるんだ。……俺は、お前の両親から、許嫁って人から、お前を奪えない。誰にも、傷付いてほしくないんだよ……」
そうぼろぼろと泣きながらぎゅっと目を瞑った太一の睫毛が、まるで宝石を乗せたかのようにきらきらと暗がりで輝いている。
その煌めきに亮も我慢出来ず鼻を啜りながらも、
「……誰にも傷付いて欲しくないのに、太一は俺が傷付くのはいいんだね……」
と苦しそうに呟いては、太一の頬を包む掌に力を込めた。
「っ、それ、は……」
「俺はもう我慢しないよ。太一も俺が好きだって、こんな風に泣くほど俺を好きなんだって知っちゃったから、我慢しない」
そう言いながら亮が太一の顔から手を離し、一歩、後ろへと下がる。
はっ、と息を乱した二人の吐息が間に落ち、しかし太一はその白く霞む向こうで自分を真っ直ぐ、射抜くような瞳で見てくる亮と目が合い、またしてもヒュッと喉を鳴らした。
「太一、選んで。ここで俺から全て捨てさせて俺と一緒に生きていく人生を選ぶか、俺から逃げ続ける人生で終わるのか、選んで」
じっと見つめてくる亮の琥珀色の瞳。
その力強さに、それでも残酷な事を言っては腕を広げ待っている亮に、太一ははくはくと口を開け息を乱し、……うぅっ、と泣き声を漏らしながら、ぎゅっと自身の腹辺りの服を握る。
「……さっきから、なん、なんだよ、それ……えらべえらべって……うっせぇよ……おまえはえらばないって、おまえとはいきてけないって、いってん、のにっ、……」
ばかなのかよ。
そう鼻を啜りながら太一が目を逸らそうとしたが、
「ちゃんとこっち見てよ太一」
だなんて亮がそれを制した。
「俺から逃げる人生を選ぶ? それでもいいよ。でも俺はもう遠慮しないから、太一がどこに逃げようと、どこかに消えようと必ず探し出して何回でもこのやり取り繰り返すよ。何度太一が俺の手から逃げようとしても、最後は絶対捕まえる」
「っ、なに、いって……、」
「俺と太一の立場が反対でもし太一に許嫁がいても、太一のご両親が生きてて、でも俺達の仲を祝福してくれなくても、俺は太一が俺を好きだって言ってくれるなら関係ない。容赦なく俺はその人達から太一を奪うよ」
そう真っ直ぐ、見つめてくる亮。
その瞳から、その言葉から逃れられず、全身が戦慄いていく。
そんな太一の戸惑いも緊張も、何もかも全て意に介さないとばかりに亮は尚も、
「好きだよ。大好きだ。この世で一番、誰よりも俺が太一の事、大好きだ。今の太一の話聞いて、俺が分かったって身を引くとでも思った? 俺はそんなに優しくないし、むしろ熱烈な告白にしか聞こえなかったよ。太一が愛しい。そんな風に俺との未来を真剣に考えて、がんじがらめになって俺から逃げ出そうとする太一が、可愛くて堪らない。だからごめんね。絶対逃がしてあげない。太一の丸ごと愛してるんだ」
と告げ、ふっと表情を和らげた。
「……太一はさっき資格だとか権利だとか言ってたけど、何も難しく考える必要なんてないよ。だって太一が俺を好きで、俺も太一を愛してるって、それさえあれば良い事だもん」
そう笑う亮の顔はとても穏やかで、
「っ、……んな、かんたんな、はなしじゃねぇって、いって…… 」
なんて突き放してみても、
「簡単だよ。例え俺らが魂の番いじゃなくても、太一がオメガじゃなくてベータやアルファだったとしても、俺は絶対太一を見つけて、好きになってた。坂本太一を、俺は愛してるんだ」
とやはり穏やかに、瞳のなかに愛しさを散りばめた目で見つめてくる亮に、太一はぐしゃりと口の端をひしゃげ、嗚咽を漏らしてしまった。
選んでなどと言うくせ逃げても必ず捕まえると退路を断ち、そのくせひどく穏やかに、まるで俺といれば全てが上手くいくと言わんばかりに微笑む亮。
けれどその顔がもう涙で見えなくて、夜と混ざりぐにゃぐにゃと揺らめくその姿がまるで光みたいで、ああ、苦しい。と息すらも奪うような衝動にぎゅっと自身の腹辺りを握っていた掌を一度強く握った太一は、何一つだとて解決していないというのに。と思いつつ、掌の力をふっと抜いてしまった。
ヒュッヒュッと鳴る喉は痛くて、泣きすぎて目の前は見えなくて、それでも高鳴る心臓の鼓動に突き動かされるよう、
「おれに、せんたくし、ねぇじゃん……おもすぎなんだよ、おまえ……っ、あ、あいしてるとか、……ばかじゃねぇのおまえ、おまえこそなんでわざわざおれをえらぶんだよ、ばかかよ……」
と太一は息も絶え絶えに言葉を紡ぎ、鼻をぐすぐすと鳴らす。
「……ほんとばかだよ、おまえ……」
ぽたぽたとアスファルトに落ちていく、涙。
「太一を俺が幸せにできるなら、ばかでいいよ」
静かに優しく包むような亮の、温かい声。
その雪崩のような愛の言葉の数々に、とうとう太一は、もう無理だ。と目を細め、唇を噛み締めた。
「……ひっう、……うぅ、」
「好きだよ、太一。……俺は絶対太一を一人でなんて死なせない。太一がおじさんになっても、おじぃちゃんになっても、寿命を迎えるその最後の最後まで、俺が側にいる。ずっと手を握って、笑って、愛してるって伝える。だから、俺と生きる未来を選んでよ」
そう涙の向こうで柔らかく微笑む亮がいて、その姿が愛しくて恋しくて、……胸がいっぱいで苦しい。と太一は目を伏せた。
亮との未来を選ぶ事なんて、俺達以外誰も幸せにはならない。
亮を望んで手に入れて、それでもまた母の時のよう残酷に唐突に、神様に奪われてしまうかもしれない。
未来の保証なんて、どこにもない。
それなのに亮があんまりにも穏やかに笑うから、あんまりにも愛しそうに自分の名前を呼んで何度も好きだと言うから。
そう心のなかで呟き伏せていた目をあげて亮を見つめた太一は、……もう絶対オメガになんて生まれたくなかったなんて言わないから。死にたいなんて思わないから。この世界の誰にも亮を渡さないから。……だから、お願いだから神様、亮だけは奪わないで。と唇を震わせ、
「っ、ふっ、うぅ……、ひっく、……おまえと、りょうと、い、……いきて、いきたい」
なんて涙と鼻水を垂らしたぐしゃぐしゃな顔のまま、震える足を、震える体をそれでも叱咤し地面を蹴飛ばして、腕を広げている亮に手を伸ばした。
精一杯背伸びをして亮の首に腕を回した瞬間息が止まるほど痛いくらいに抱きすくめられ、……ああ、今分かった。これこそが、死ぬほど嬉しいって事なんだ。なんて思いながら、泣きすぎて火照る体に染みる冷えた亮の体温が、とてもとても心地好かった。
「……たいち、ありがとう……」
耳元で涙声の亮が囁き、抱きすくめてくる腕が震えている事に気付いた太一は、こいつだって怖かったんだ。なんて今更な事を思いながら、ぎゅっと抱き締め返す。
二人を包む夜はしんしんと深さを増し、手摺の向こうの闇は目の前を暗く塗り潰すよう広がっているのに涙で滲んだ世界はビロードのように黒を煌めかせ、その光景を見た太一は、生まれて初めて、夜を綺麗だと思った。
「たいち、だいすき」
「っ、……おれも、おまえがすき」
「……嬉しくて死にそう……」
「……ふっ、さっそく約束破ろうとすんなよばぁか」
俺より先に死なないって、俺の手を握って愛してるって言いながら看取るって、言っただろ。
そう太一がぼろぼろと泣きながらも笑えば、……そうだった。なんて亮も笑いを含んだ声で返す。
亮の匂いを肺一杯に吸い込んで、ああ、好きだな。と太一がまたしても一筋の涙を流していれば、
「……太一の気持ちも、辛い事も、悩んでた事も、全部教えてくれて、ありがとう」
なんてぎゅっと抱き締め、すりすりと太一の肩に頭を押し付ける亮。
身長が違いすぎるからか覆い被さられるよう抱きすくめられていて、背が反りすぎていてぇ。と亮の首にしがみつき背伸びをしながらも、首筋に濡れた睫毛を押し付け返す太一がまたしても笑う。
「……ん。……俺を、ずっと一人にしないでくれて……あり、がと……」
消えようと思っていた俺を、惨めだと泣く俺を、放っておいてくれと喚く俺を、ずっと繋ぎ止めてくれてありがとう。
そう心のなかで呟き、たとえ誰に嫌われようと、たとえ亮の両親に恨まれようと、もう絶対離さない。と胸に走る痛みに目を伏せながらコイツは俺のだ。と抱き締め返せば、
「……っ、うん、ぐすっ……」
なんて亮も感極まったのか泣き出し、その声に太一は、今このタイミングで号泣すんのかよ。と声をあげて笑った。
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