「太一」

 下からのぼってきたのが太一だと分かった瞬間亮の瞳が柔らかく揺らぎ、嬉しそうに太一の名前を呼ぶ。
 しかし太一の驚きに満ちた表情と、持ち歩くには大きすぎる鞄を見た亮は途端に表情を険しくさせ、太一をじっと見た。

 そんな亮の視線をひしひしと感じ、けれども予期せぬ事態に太一は動く事も声を出す事も出来ず、呆けたまま。


「……その荷物、なに?」

 亮から向けられた瞳も声も疑心に溢れていて、その見たこともない鋭さに太一はヒュッと息を飲んで思わず後ずさってしまった。


 しかしその瞬間すぐ後ろが階段だったためぐらりと体が揺れ、あ、やば、と目を見開いた太一。
 まるでスローモーションのように感じるそのなかで亮もまた同じように目を見開いているのが見え、落ちる。と太一が覚悟したその時。

 ぐっと伸びてきた亮の腕が太一の腕を掴み、そのまま太一は力強く引っ張られるがままに亮の腕の中に収まっていた。

 ぐらりと揺らいだ瞬間に太一の肩から外れたのか、ドサッ。と重たい鞄がアスファルトに落ちる音が展望台に響く。


「っ、……なに、してんの」

 自身へと引き寄せてはハァと呆れが混じった安堵の息を吐いた亮の声が耳元で揺れ、太一は抱き締められている腕の力強さと鼻を擽る亮の匂いに途端に身体中からぶわりと汗が吹き出てしまいそうになりながら、ご、ごめん。と呟いた。

 心臓が痛いくらいに高鳴り、耳鳴りがする。
 喉が狭まる感覚がし呼吸が乱れてしまいそうで、慌てて顔を赤くしながら亮の腕から逃れようとしたが亮は太一の腕を掴み、

「その荷物、なに」

 とまたしても同じ言葉を呟く。
 痛いくらいに力を込められていて、腕の骨が軋む音を体のなかで聞いた太一が思わず顔をしかめれば、それにハッとしたように腕を離し、ごめん。と呟いた亮。

 二人の間に、沈黙が落ちてゆく。


 その荷物、何。だなんて聞いたところで答えは明白なのだがそれでも問わずにはいられないのだと無表情で太一を見下ろした亮は、けれど俯き何を言えばいいのか考えあぐねている太一の気配に、

「……もしかして、店長さんと何かあったの?」

 と伺うよう腰を下げ太一の顔を覗き込もうとしたがふいと顔を背けられてしまい、眉を下げた。

 太一の重たい前髪が表情を隠し、まるでお前に話す事などないと言わんばかりの太一の姿に亮はひどく傷付いた顔をしながらも、もう一度、けれど今度は怖がらせないよう慎重に太一の腕を掴み、

「太一、何か言って」

 と優しく問いかける。
 その声にぐっと太一が唇を噛み締めたのが見えて、ああ、傷付いちゃう。と亮は場違いな事を考えてしまった。


「……別に、店長とは何も、」

 そう呟く太一の声は震え掠れていて、そんな太一の言葉に、そんな態度で言われて信じられるわけないでしょ。と太一を見つめた亮。


「太一、ほんとのこと言って」
「本当だって」
「たいち、」
「本当に店長とは何もないんだって。むしろめちゃくちゃ世話になったし」
「じゃあ、」


 じゃあなんでいきなり、そう言いかけた亮はそれから表情を固くし、

「……じゃあ、俺の、せい?」

 と呟く。

 こんな卒業式を明日に控えたタイミングで、何も告げずまるで夜逃げするよう黙ってどこかに消えるつもりだったのだろう太一に、その原因が自分なのでは。と顔を青ざめさせた亮は、ピクッと体を揺らした太一を見て全身から血が抜けていく感覚に陥ってしまった。


 心臓がズキズキと痛み、目の前が暗くなっていく気がして、思わず腕を離して後ずさった亮。

 俯いたままの太一は、未だ顔を上げない。

 その態度はまさに火を見るよりも明らかで、

「…俺、なんだ」

 とやっとの事で絞り出した声は掠れ震えていて、情けないと思いながらも、亮はもう自分を誤魔化して笑う事など、出来そうもなかった。



「……ちげぇよ、別に誰のせいでもねぇ。何言ってんだよ」
「…………」
「ほんとになんでもないんだって。ただ就職が決まったから引っ越すだけで」
「……ただって何だよ。そんな重大な事を誰にも言わずいきなり引っ越すわけ?」
「……っ、じゅ、重大って大げさすぎんだろ」

 そう太一は俯きながら誤魔化すよう笑ったが、しかし亮は依然として表情を変えることなくじっと太一を見つめてくるだけで、二人の間にまたしても沈黙が落ちてゆく。

 その息苦しさに太一がハッと息を乱したその時、

「……太一の言う友達って、なに?」

 だなんてぽつりと亮が呟いた。


「な、にって……」
「太一は俺と友達でいたいって言ってくれたけど、太一の言う友達ってこんな風に突然なんの連絡もなく消えようとしたりとか、そうされても笑って気にしないよって言えるような関係の事なの?」

 抑揚のない声で問い詰めてくる亮の言葉にまたしても太一が押し黙り、唇を噛む。
 もう心臓は先程から張り裂けんばかりにドクドクと鳴り、太一は自身の汚れた靴の先を見つめながらギュッと拳を握った。


「……そんなんじゃ、ねぇけど、」

 やっとの事で絞り出した声は情けないほど震えていて、……ああ、これじゃあなんのために。と太一は弛みそうになる涙腺を叱咤しながら、

「……俺はお前と友達でいたいから離れたいって、少し距離置きたいって、この間言ったじゃん」

 と呟く。
 しかしその精一杯の言い訳も、

「それはいつまで?」

 だなんて返されてしまえば、やはり口をつぐんでしまう他なかった。


「魂の番いに惑わされたくないからって太一が俺から離れて、でもそれって会わなくなれば、距離を置けば変わるの?」
「……っ、」
「ねぇ太一、じゃあ俺はいつまで待ってればいい? 俺が待ってれば、太一は俺の所に戻ってきてくれるの?」

 そう真っ直ぐに落とされた、声。

 その言葉にヒュッと太一が息を飲む。
 じわじわとせり上がる感情が息苦しさに拍車をかけ、それでもじっと自分を見つめてくる亮の視線をひしひしと感じた太一は、

「……ほ、ほんとさっきからお前何言ってんだよ。変だぞ。ていうかそれにあの時お前だって分かったって言ったじゃん」

 とまたしても作り笑いをしようと努力したが、もはやただ口の端を歪めただけの、なんとも不細工な表情しか出来なかった。


「……うん。太一に距離を置こうって言われた時、確かにうんって言ったよ。でも太一の言う友達がこれなら、俺は太一の友達ではいられない」

 太一の言葉に一度深呼吸をした亮が、そのあと発した言葉。


 友達ではいられない。

 そうハッキリと切り捨てるよう言った亮の言葉がぐさりと胸に刺さり太一が思わずバッと顔をあげて亮を見やれば、亮の美しい琥珀色の瞳は悲しみと怒りと、そしてどことなく決意の色が揺れているように見えた。

 ようやく絡まった、視線。
 小さく息を飲んだ太一を未だにじっと見つめる亮もまた小さく深呼吸をしてから、しかしそっと太一の腕を取った。


 ふわりと優しく腕を掴み、けれど真っ直ぐ太一を見つめたまま、

「あのあと色々考えたんだ。俺は太一にとってどういう立場でいれば一番良いんだろうって、めちゃくちゃ考えた。太一が友達でいたいって思ってるのは分かってたから、だからこれからもずっと友達でいようって、……俺のこの気持ちはずっと伝えないままでいようって、決意もした」

 なんて亮が話し出し、でも、と言葉を切って射抜くような瞳で太一を見つめる。


 その視線に、そのあとに続くであろう言葉にひくりと喉が鳴り、これ以上は駄目だ。と頭の中で警告音が鳴り響くのを聞いた太一は、

「言うな!!」

 と声を荒げ離せよと腕を振り回したが、

「……ごめんね、太一。でも俺、太一が好きなんだ」

 なんて全く太一の抵抗を意に介さず、けれども悲しそうな顔で亮が呟いた。


 その言葉に声を詰まらせた太一がよろりと一歩後ずさり、何かを言おうとしたがへにゃりと口の端をひしゃげただけで、またしても黙り込む。
 そんな太一を見下ろした亮は心のなかでもう一度ごめんと呟いては、でももう無理だよ。ときつく手に力を込めた。


「太一が好きなんだ。だからこんな風にいきなり音信不通にされる友達の一人ではいられない。……ごめんね。俺も太一の友達でいたかったよ。でも多分、遅かれ早かれこうなってた気もする。ごめんね、太一。優しいアルファでいられなくて、ごめん」
「っ、そんな冗談、いま笑えねぇって、」
「冗談じゃないよ。本当に太一が好きなんだ」
「……やめろ、軽々しく好きだとか言うな」
「軽くないよ。ずっと太一が好きだった。出会ってからずっと、太一が好きだよ」
「うるせぇ、もう聞きたくない、離せよ」
「逃げないで太一。俺から、もう逃げないで」


 またしても振りほどこうと身を捩ったがやはり力の差は歴然で、逃げないで。だなんて言葉を吐く亮に太一は目の前がぐらぐらと揺らいでいくのを感じながら、……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ふざけんな。と喉を狭める感情にはくはくと息を乱す。

「太一が誰を好きでも、もう良い。店長さんの事好きでも良いよ。でもいつか絶対、俺が振り向かせてみせるから、俺を選んで」

 そう真っ直ぐ告げてくる亮の言葉はいっそ鋭利で、……心が壊れそうだ。と太一は唇を噛み締めた。


「……もうやめろ。何も言うな」
「やめてあげられない。ごめんね太一。でも今ここで、太一が決めて。俺を受け入れるか、それともここできちんと俺を振るか、太一が決めて。曖昧なまま消えないで。じゃないと俺ずっと太一を追いかけるよ。だから今、ちゃんと俺を振るか、俺を受け入れるか、太一が決めて」
「……な、んだよそれ、なに言ってんだよ。意味分かんねぇよお前。簡単に、そんな、」

 俯いたまま、そう声を震わせる太一。

 ……受け入れるか、突き放すか、どっちかきちんと決めろなんて簡単に言うなよ。好きだなんて、簡単に言ってくれるなよ。と太一は泣きそうになりながらも好き勝手言いやがって。と腹の底から怒りにも似た悲しみが溢れてしまいそうで口をつぐんだが、それでも亮はじっと太一を見つめては決めろ。と決断を迫らせてくるばかりで、

「……なんで、そんな事言うんだよ。なんでそんな事ばっかり……、俺はお前と、友達でいたかったのに」

 と太一は堪らずぽつりと呟いた。

 その姿が、その呟きがなんとも頼りなく痛々しくて、太一にとって酷な選択を強いていると分かっていたが、それでも、亮はもうどうしようもないのだ。と太一を見つめた。


「……簡単じゃないよ。俺だって太一の友達として側にいられるならそれで良いと思ってた。……太一、俺ね、太一が俺の前で泣いてくれたあの時、俺、嬉しかったんだ。少しでも太一が俺を信頼してくれてる気がして、俺に本当の太一を見せてくれた気がして、不謹慎すぎるけど、嬉しかった。なのに太一はやっぱりあのあと何にもなかったみたいに呆気なく俺の前からじゃあなって笑っていなくなっちゃって、俺じゃあ太一を幸せにしてあげられないんだって、思い知らされた。でもそれで太一が自分なりの幸せを見つけて、もう、……もうオメガになんて生まれなきゃ良かったなんて思わないよう幸せになってく姿を見られるなら、それで良いって、本当に思ってたんだ」


 優しく、けれどとても悲しい声で亮が今までの気持ちを吐露し、くしゃりと笑う。
 しかしまた表情を強めたかと思うと、

「……でも、太一に会えなかった三ヶ月間、苦しくて会いたくて、おかしくなりそうで、ずっと太一の事考えてた。このままじゃ明日の卒業式で太一に会った時、なりふり構わず太一が好きだってすがっちゃいそうで、太一の事を傷付けちゃうんじゃないかって思うと怖くて、ちゃんと太一にとって良い友達でいられるようにって今日ここに来たんだ。太一に友達でいたいって言われたこの場所で頭を冷やせば、少しは冷静になれるんじゃないかと思って。……それなのに太一は何も言わずに俺の前から消えるつもりだったって事が物凄く悲しいし、今にも泣きそうな顔してて全然ちっとも幸せそうじゃないのも、物凄く嫌だ」

 だなんて言ってきた亮に、太一は息を飲んだ。

 それから太一はじっと自分を見下ろしてくる亮の好きだという言葉も、ちっとも幸せそうじゃないなんて言葉も、お前にだけは言われたくなかった。と体を震わせ、

「……お前に、何が分かんだよ。俺の事何も知らねぇくせに、好き勝手言うなよ!!」

 と叫んでいた。

 今までみたいに笑って誤魔化して、何でもないような態度を取って亮の言う通り逃げれば良かったのに、もうそれすらも、出来なかった。


「お前は、何も知らないくせに……、」

 そう溢した言葉と共に涙が落ちそうで、必死に堪えながらまたしても心のなかで、ちくしょう。と呟き、ズビッと鼻を啜りながらはぁと息を吐き出した太一。

 そんな太一を見下ろす亮と、太一の吐く息が、寒空に白く揺蕩っていく。


 それでも亮は未だじっと太一を見つめたまま、

「……うん。何も知らないよ」

 と腕を握る手に力を込め、

「だって太一、何も俺に言ってくれないじゃん。分からないよ。太一が何を考えてるのか、何がしたいのか、俺には分からない。今の太一を見てると苦しいよ俺。生き急いでるみたいで、幸せに生きる方法も探さず逃げて自分ひとりで生きていこうって決めつけてるみたいで、悲しい。ねぇ太一、お願いだからもっと自分を大切にして。やっぱり俺と友達でいられないって、俺が嫌になったんなら嫌だって、もう会わないって言ったって良いんだよ。それなのにわざわざ黙って消えるなんて、馬鹿げてる。そんなの、俺だけじゃなくて龍之介達とも縁を切るみたいじゃん。それに店長さんとも離れなくちゃいけなくなるのに。店長さんのこと本当に好きなんでしょ? なのに俺のせいで全部捨てるなんて本当に意味が分からない。それで本当にいいの? そうやって全部捨てて一人で自己完結してる太一、俺は嫌だよ」

 だなんて言ってくるので、太一はぐっと強く拳を握りながら、うるさいうるさいうるさい、と頭を振った。


「……お前の言うように、例え俺が生き急いで、幸せなんか要らないって逃げてたとして、何がいけないんだよ。別に俺の人生だろ。お前には関係ない」
「っ、関係なくない!!」
「関係ねぇよ!!!」

 亮の張り上げた声に被せるよう太一も怒鳴り声をあげ、亮を睨みつける。

「……好きだとか、悲しいだとか、そんな言葉要らねぇよ。俺はこれからも一人で生きて、一人で死んでくって、もう決めてんだよ。俺はもう、何も要らないんだ。母さんが死んだあの日から、俺はもう、ずっと死んでんだから……」

 最後の方は掠れ消えそうになってしまい、それがやはりとても惨めで悔しくて、太一は盛大にずずっと鼻を啜りながら、深い息を吐いた。


 そんな太一の悲痛な本音が宙に溶け、

「……なに、言って、」

 と亮が表情を強ばらせ、太一を見つめる。
 その視線に太一は、もういい。もう全部終わってしまえ。と自暴自棄になりながら亮を睨み付けた。

 その瞳はまるで出会った時と同じ、深く暗く、底知れぬ陰りに満ちた瞳だった。






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