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「新年、明けましておめでとう太一くん」
たった今テレビでカウントダウンを終え新年になった瞬間に向かいに座っている店長がにこやかな顔で言ったので、その言葉に太一も、明けましておめでとうございます。と笑い返した。
窓から見える夜にはらはらと舞う雪。
それをぼうやりと眺めながら、手元に置いていた携帯がピロンと音を立てたのを聞いた太一は小さく息を飲んでから携帯を開いた。
新着メール一件。の文字。
その文字にまたしても小さく息を飲み、開く太一。
差出人は亮で、
『明けましておめでとう。今年も宜しくね。風邪引かないように気をつけてね』
という文に、太一は目を細めながらすりっと画面を一撫でした。
クリスマスの時に貰ったメールにも風邪引かないようにと書かれていたっけ。
だなんて太一はゆるりと口元を弛めながら、明けましておめでとう。お前の方こそ風邪引かないよう気を付けろよ。とだけ書いて送信ボタンを押す。
それと同時にピロンピロンとまたしても通知の音が響き、龍之介と優吾、明から届く明けましておめでとうメールに太一はふっと微笑み、一つ一つに丁寧に返事をした。
それから太一は、ちょっと出てきます。と友人たちと初詣に行くと嘘をついて、店長の家を出た。
本来なら未成年の深夜徘徊など許してはくれなさそうな店長だが、こんな時ばかりは良いだろう。と大目に見てくれていると分かっていて、その優しさに太一はほわりと胸に灯る面映ゆさに、マフラーに鼻を埋めながら夜の道を歩いた。
ぽつぽつと連なる街灯に照らされたアスファルト。
雪は止んだようだったが露に濡れ光る地面は美しく、新年という事もあってか家々の灯りはついたままで、いつもは静かな夜が今夜はどことなく浮き足立っている。
そんな夜のなかを歩きながら太一が向かった場所は、亮の家だった。
ハァ。と太一の口から溢れる息が、白く揺蕩っていく。
寒々とした空の下、相も変わらず大きな門と聳え立つようなお屋敷を眺めた太一は、亮の部屋に灯りが点いているのを門の外で少しだけ眺めたあとダウンジャケットのなかで握っていたお守りを取り出した。
それは今日のお昼に、まだ新年じゃないけど。と一足早く一人で参拝した時に買った合格祈願のお守りで、あいつにはファンがいっぱい居るから俺からだって分かんないだろ。と亮の学校での人気ぶりにそっと亮の家のポストにそのお守りを押し込めた太一は一度深呼吸をし念じるよう祈りながら、にんまりと満足げに微笑んでポストを一撫でした。
まぁ、ぜってぇ合格するに決まってるけどな。
だなんて心のなかで呟き、きっと受験勉強しているのであろう亮の部屋の灯りを眩しげに眺める太一。
その瞳にはゆらゆらと遠い亮の部屋の灯りだけが煌めいているように見えた。
それから太一は店長の家にお世話になるようになってから中々行けなくなってしまったあの展望台へ行こうと踵を返し、またしても暗い夜の道を歩いた。
程なくし辿り着いた展望台の一番上まで登った太一はここで自分が亮に突き付けた台詞を思い出しヒュッと息を飲んだあとかぶりを振っては腕を組み、手すりに凭れ遠くの方で闇に浮かぶ神社の灯りを眺めて去年までの楽しかった年越しを思い出すよう努めた。
除夜の鐘なんて聞かず喋り続けていた亮の声。
参拝した時の真剣に祈っている凛とした横顔。
暖かいねと微笑みながら甘酒を飲んでいた唇。
はぐれないようにと差し出された、大きな掌。
そのどれもがなんだか遠い過去のように愛しくて恋しくて、ずびっと鼻を啜りながら鼻先をマフラーに埋めた太一の睫毛にまたしても舞い始めた雪が降り積もっていく。
それでも微動だにせずただ街を見続ける太一は、はらはらと視界を遮る純白が綺麗だと闇に吸い込まれ溶けていく雪をとても美しい瞳で眺めては、しんしんと沈む夜のなかひっそりと佇んでいた。
◇◆◇◆◇◆
新年が明け、それからもう数日が過ぎたがしかし変わらずバイトに精を出す太一は今日も一日、店に立ち続けていた。
店内に響く、有線から流れる今流行りらしい音楽。
それを聞き流しながら、
「ありがとうございました」
とお客さんの会計を終え、しっかりと愛想笑いを浮かべながらお辞儀をした太一は、ブゥン。と自動ドアが閉まる音を聞きながら蛍光灯を反射させるリノリウムの床を眺めた。
鼻を擽る本の匂い。
それがいつしか心地よく、店内を見回した太一は、ここで働けて良かったなぁ。なんてひとりごちる。
それから壁に掛けてある時計を見た太一はもう少しで閉店の時間だと知り慌ててまだ設営し終わっていない明日入ってくる新刊スペースの平棚の作成をしようとカウンターから出ては、売り場へと戻っていった。
あいにく店長は冬の寒さにやられてしまったのか風邪を引いて寝込んでしまっているので今日は太一だけしか居らず、閉店間際のためお客さんも居ない本屋は有線だけが静かに流れている。
そんな人の気配のない店内で暫し作業に没頭していた太一だったが、ヴゥン、と自動ドアが開いた音がしたので顔を上げ、しかしお客さんだと思っていたのにそこに居たのは久しく会っていなかった明だったことに目を丸くしてしまった。
「えっ、明さん!?」
「久しぶりだな太一。明けましておめでとう」
「あ、明けましておめでと。てかほんとに全然会ってなかったからめちゃくちゃ変な感じすんね。久しぶり。元気してた?」
「ああ。太一はどうだ」
「俺も元気にしてたよ」
「そうか」
「参考書探しに来たの?」
「いや、ただ太一がどうしてるのかと覗きに来ただけだ」
え、俺に会いに来たん? とまたしても目を丸くした太一が、ほんと心配性な兄ちゃんって明さんみたいな感じなんだろうな。なんて目尻を弛める。
そんな太一の表情に明もまた少しだけ表情を和らげた。
「お客さん居ないな。もしかして、もう閉店の時間なのか」
「え、あ、むしろ過ぎてる」
「そうなのか。そんな時間に来てしまってすまない」
「ははっ、そんなん気にしなくて良いって」
「いや、すまなかったな。お詫びといってはなんだが、どこか飯でも行かないか? 奢るぞ」
「あー……、嬉しいんだけど、飯は行けないかも。俺今このお店の店長の家にお世話になっててさ、その店長今風邪引いちゃってて。心配だから早く帰ってあげたいんだよね」
そう気まずそうに頬を掻きながら太一が言ったので、いや、飯は別にいつでも良いがどうしてそうなってるんだ。と明は少しだけ太一の近況に困ったような顔を見せ、そんな明の心情が見て分かる顔に太一は小さく笑った。
「飯は無理だけど十分くらいで良いなら久々に明さんと話したいから、待っててくれると嬉しい」
「あ、あぁ、それは全然構わない」
「ほんと? ありがと。じゃあソッコーで店閉めるから待っててよ」
ニカッと笑顔を浮かべる太一の言葉に明はやはりまだ少しだけ呆けた表情をしたが、それから眼鏡をクイッと手で押し上げ小さく笑みを浮かべては、じゃあ待ってる。と店の外へと向かって行く。
その真っ直ぐにピンと伸びた背中が実に凛々しく男らしくて、変わんねぇなぁ。なんて太一はまたしてもふっと笑い、それから閉店作業をするべく、よし! と気合いを入れたのだった。
裏口の鍵をしっかりと閉め前の方に回れば、明はシャッター横の壁に凭れ持参していたのか参考書を見ていた。
「明さんお待たせ。寒いのに長い事待たせてごめん」
「いや、大丈夫だ。お疲れ様」
パタンと本を閉じ、少しだけ表情を和らげる明。
それから鞄に本をしまっては財布を取り出したかと思うと横の自販機にお金を入れ、
「どれにする」
だなんて当たり前のように聞いてくるので、太一は小さく目を瞬かせたあとふっと微笑み、じゃあお言葉に甘えて。とホットココアを頼んだ。
ガゴンッ。と辺りに響く、缶が落ちる音。
それが夜の静けさを裂くのを聞いた太一は、はい。と手渡してくる明に、ありがと。と素直に受け取り、それから温かなお茶を買った明と共に暫く無言で喉を温めるよう、ちびちびと啜った。
大体の店のシャッターが閉まったアーケード街はしんと静まり、天井の連なる電球だけが侘しく床板を照らしている。
寒々と風が吹き荒れるそのなかで少しだけ言い淀んだあと、明がゆっくりと口を開いた。
「……その、なんだ。このお店の人の家にお世話になっていると言っていたが、親戚と何かあったのか」
いつもは物怖じせず言いたいことをはっきりと告げてくる明がこの時ばかりは気まずげに問いかけてくるので、太一は思わず目を見開いた。
「あ、いや、すまない。言いたくないなら、」
「え、あ、ぜ、全然平気だから! 別に何にもないよ。ただちょっと店長の家にお世話になってるだけで……」
そう慌てて言ったあと尻すぼみになり、寒さで赤くなっている鼻の頭を掻いては、人に迷惑ばっか掛けて情けないよな、俺。と俯いて笑う太一。
そんな太一を見つめた明は一度また何かを言いかけたが、それを飲み込むようお茶が入ったペットボトルを煽り、それから小さく、そうか。とだけ呟いた。
「……情けないか情けなくないかは俺には知らないが、後悔しない選択をしたのならそれが太一にとっての最善だったんだろう。それに、決断出来る勇気に尊敬すら感じるよ」
ぽつりと、低く、だがいつもよりとても穏やかな口調でそう言った明の声が静かに響く。
その言葉に不覚にも泣きそうになってしまって、太一は誤魔化すようまたしても鼻の頭を掻き、なんだよそれ。と笑った。
「まぁなんだ、太一が無事に平和に過ごしてるなら、お店の人の家に行って良かったな」
「……ん。心配してくれてありがとね」
「……」
太一が眉を下げながら笑っていれば不意に明が押し黙りじっと見つめてくるので、その視線に太一は、どうかした? と見つめ返した。
「太一は素直だよな……お前と居ると癒されるよ……」
「……へ?」
「それに勤勉で努力家で真面目だ」
「あ、明さん? いきなりなに、」
「……本当にあの馬鹿に太一の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいだ……」
はぁ。と眼鏡をずらし目頭を手で押さえ渋い顔をした明に一瞬だけポカンとした表情をした太一だったが、あの馬鹿とは誰の事を指しているのか瞬時に悟り、ふはっと笑い声をあげてしまった。
「試験まであと少ししかないというのに本当にあの馬鹿は大丈夫だからだなんだと抜かして呑気にダラダラダラダラ、」
「ぶはっ!」
「いや、笑い事じゃないんだが」
「ご、ごめん、でも明さんが本気で愚痴ってんの初めて聞いた」
そう笑う太一に少しだけばつが悪そうな顔をした明が、す、すまない、と謝り、そんな明に太一は珍しくて面白いからどんどん愚痴ってよ。とまたしても笑った。
それから暫く明の龍之介に対する面白おかしい愚痴を聞いたあと、
「明さんにとって、龍之介って家族みたいなもんなん?」
なんて太一はずっと気になっていた事を聞き、その問いにしばし考える素振りをしたあと、明はふっと小さく笑った。
「……家族という枠ですら括れない腐れ縁みたいなもんだ。甚だ遺憾だが、俺の生き甲斐はあの馬鹿だからなぁ」
遺憾、だなんて使うくせにその口ぶりは実に穏やかで、明の纏う空気がふわりと緩むのが分かる。
その言葉では言い表せない二人の繋がりがやはり太一にはどこか眩しくて羨ましくて、カシリ。と缶の口を噛みながら、……そっか。と呟いた。
「……あ、俺もうそろそろ行かないと。ごめんね、時間取れなくて」
「ああ、いや。こちらこそこんな時間にすまないな。今度は皆で遊びにでも行こう」
「……うん。それじゃあ、」
すっかり冷めてしまったココアを飲み干し、横の缶捨てにポイッと放り込んだ太一が、またね。と歩き出したその時。
「太一!」
そう後ろから明に声を掛けられ、太一がくるりと振り返る。
「……その、太一も忙しいとは思うがたまには亮と会ってやってくれないか?」
吹き荒れる風で綺麗に分けられた七三の髪の毛がぐしゃぐしゃになったまま、それでも気にせず太一を眼鏡越しに見つめる明。
その真っ直ぐな瞳に、太一は呆けたまま見つめ返した。
「……」
「あいつは龍之介と正反対で根を詰めすぎるきらいがあるからな。太一と喋るだけでも息抜きになると思うし、すまないが少し気に掛けてやってくれ。それじゃあ、わざわざ引き留めてすまなかったな。もう遅いから気を付けて帰れよ」
そう困ったように笑った明は当たり前だが太一と亮との間にあった事も太一の気持ちも知る訳はなく、純粋に友達として亮を心配し仲の良かった太一にこうして話を持ちかけていると分かっているからこそ、太一は少しだけ押し黙ったあと、眉を下げながら笑っては踵を返しまた歩き始めた。
寒々と風が吹き荒れ、太一は小さくずびっと鼻を啜りながら一人、夜の道をただひたすらに歩く。
先ほどの明の言葉がぐるぐると頭のなかで巡り、あの時何か言えば良かっただろうか。とは思ったが、だが考えども考えども、分かった。とはやはり言えそうにはなかった。
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