がむしゃらに夜の道を走り息を切らしながら本屋へと戻ってきた太一は、一度呼吸を整えるよう数回深呼吸をし、それからガチャリと裏口の扉を開けた。


 暗がりに慣れていた目に刺さる、蛍光灯の明かり。
 その眩しさにうっと目を細めた太一だったが、太一の帰りを待っていてくれた店長がゆるりと目を細めながら、お帰り。と言ってくれた言葉に、なんだか久しぶりに誰かからそんな事を言われた気がする。なんてふにゃりと破顔しつつ、……す。と照れ臭くて何と返していいか分からぬまま、へらりと笑った。


「よし、じゃあ行こうか」

 そう言いながら立ち上がる店長に、太一は椅子の上に置いていたスポーツバッグを取って、お願いします! と頭を下げる。
 そんな太一に、そんなにかしこまらなくて良いから。と微笑み、よし、出ようか。と店長が店の電気を落としては、二人して店先へと出た。

 ガチャリ。と裏口の鍵を閉める音を聞きながら、ぶるりと身を刺す寒さに首元を竦めた太一。
 寒々と手を擦り合わせ、はぁ。と息を吹きかけている太一を見ては、

「あれ、太一くんいつものマフラー忘れちゃったのかい?」

 なんて問いかけながらしゅるりと自分の首に巻いていたマフラーを外し差し出してくる店長に、太一はぎゅっと鞄の紐を握った。


「ありがとうございます。でも俺は全然大丈夫なんで。俺、けっこう頑丈なんすよ」

 むしろしょっちゅう体調崩すのは店長なんすから、店長こそマフラーするべきです。と少しだけ意地悪い顔で笑ってはそのマフラーを丁重にお断りして、話題を変えるよう、家、どこら辺なんですか? なんて辺りをきょろきょろと見回した。





 それから店長に連れられ知らない道を歩き、しかしそんなに店から遠くない閑静な住宅街の一軒家の前で、ここだよ。と店長が笑った。

「はい、入って」

 ガチャ、と鍵を回し扉を開いた店長の声におずおずと隣に並び立ち、お邪魔します。と小さく呟く。
 玄関に一歩足を踏み入れればふわりと店長の匂いが鼻腔を擽り、なんだか癒されるなぁ、なんて太一は目尻をふわりと弛めた。


「ここがトイレで、ここがお風呂場だよ。リビングはこの廊下の先ね。二階は寝室になってて、太一くんには息子の部屋を使ってもらおうかなと思ってるんだけど、いいかな?」
「っはい、あの、店長息子さん居たんですね」
「うん。もう独り立ちしちゃってこの家にはあまり帰ってこないけどね。それとうちの人は年中出張に行っててあまり帰ってこないから、自分の家だと思って気兼ねなく寛いでくれていいからね。むしろ家で誰も話す人居なくて寂しかったから太一くんが来てくれて嬉しいよ」

 寂しい。と言う店長の、それでも幸せそうな柔らかい笑顔に太一はまたしてもキュッと鞄の紐を握ったあと、はい。と笑い返した。


 それから息子さんの部屋に案内してもらって鞄を置きリビングへと向かったあと、座ってていいよ。という店長を押し切り二人並んで料理をして、夕食を食べた。
 それが本当に久しく感じていなかった家庭の温かさを思い出させてくれ、バクバクとご飯を掻き込んでいる自分の姿を見ては嬉しそうに目を細めている店長に、なんだか面映ゆいような、無性に泣きたくなるような気分になってしまった太一は、慌てて米を口一杯に詰め込んだのだった。



 そうして和やかな遅めの夕食を終え風呂を借り、軽い談笑をしたあと子どもはもう寝なさいと急かされるよう息子さんの部屋へと押し込まれた太一は、母にもいつもそう言われていた気がする。と目尻を弛めつつ、出してもらった良い匂いのするパジャマでふかふかのベッドへと潜り込んだ。
 ぬくぬくとしたベッドのなかで、滅多に帰ってこないけど一応ちゃんとシーツも毛布も洗濯したりして綺麗にしてあるから安心して。だなんて先ほど笑っていた店長の顔を思い出す。

 リビングに飾られた、家族写真。
 いつ息子さんが帰ってきても良いようにと綺麗に掃除されている部屋。

 そんな温かさ溢れる家のなかに、幸せなんだろうなぁ。なんて太一はゆっくりと目を閉じながら、……いいなぁ。と心のなかで呟いた。

 自分には、一生縁のないモノ。
 それが眩しくてキラキラ綺麗で、それでも太一はそんな事を考えている場合ではないと、親戚の家に返すお金はいくらぐらいになるのかと必死に計算をした。

 高校に入って本屋のバイトをし始めたお陰で毎月一応は三万円ほど生活費として渡していた為生活費は中学生の間の一年間だけしか払うつもりはないが、入学費用やこの間の入院費などその他諸々を合わせるとやはり大体百万近くになるだろう。
 そう考えれば考えるほどその金額の大きさに心が折れかけながらも、亮にも返さないといけないんだからしっかり生きて働かなきゃだろ、俺。と太一は自身を奮い立たせつつ、先ほどの亮とのやり取りを思い出した。

 散々迷惑をかけて、突っぱねて、それでも亮は友達でいたいと言ってくれた。
 その言葉が、たとえどんな人生を歩んだとしてもこれから先ずっと俺の支えになってくれる。
 そう心のなかで思いながら泣きそうになってしまった太一は堪らず一度パジャマの袖口で目尻を乱暴に拭い、それから起き上がってベッドの横に置いてあった鞄を掴んだ。

 中から取り出したのは、あの日貰った黒猫のぬいぐるみとマフラー、そして、カーディガン。
 それを抱えて、マフラーとカーディガンは同じものを絶対買って返すからこれは俺にくれ。と申し訳なく思いながらも、太一はぎゅっと腕の中に閉じ込めた。

 本当は今日、亮に全て返そうと思っていた。
 けれど、恋しくて恋しくて堪らなくなった時にどうしてもこうして持っておきたくて、いけないと分かっていながらも手放す事が出来なかったのだ。
 そんな思い出の、しかしもう亮の匂いはしないそれらがそれでも愛しくて、腕に抱えたまま太一はごろんと寝転んだ。

 ……目まぐるしく過ぎた二日間。
 まるで全て夢だったのではないかと思えるほどの時間だったが、自分は今こうして親戚の家から逃げ出し亮の優しさを踏みにじってまで店長の家にお世話になっている事が夢なんかではないと痛切に思い知らせてくるばかりで、それに一度ずびっと鼻を啜りながらも、ふわふわの猫のぬいぐるみにマフラーを巻いて頬擦りをし、いそいそとカーディガンを羽織ってから太一はこれで幸せな気持ちのまま寝れる。と目を閉じた。


 これからこうして夜を過ごせば、この先どれだけ苦しい未来があったとしても、もう平気だと思えた。




 ◇◆◇◆◇◆



 太一が店長の家にお世話になりながら本屋で朝から晩まで働くようになって、季節はあっという間に過ぎもう今年が終わりを告げる師走となっている。
 そんな年の暮れにしかし太一は二日だけ休みを貰って、一人夜行バスに揺られていた。


 長時間バスに乗り続け、うとうととしていた太一が目を覚ましたのは未だ明けきらない空がそれでも闇の隙間から強烈な赤を光らせている、早朝。
 その鋭い刃の切っ先のような美しさに太一は小さく感嘆の息を吐き、絶えず揺れる振動に身を任せながらコツンと窓に頭をつけた。

 道路に連なる街灯が風のように後ろへ、後ろへと流れてゆく。

 鼻まで覆ったブランケットと厚手のパーカーのお陰で早朝でもそこまで寒さは感じず、車内に響く知らぬ人のイビキの声がBGMとして流れるバスの中、ただ静かに過ぎていく寝静まった街並みを眺めた太一はゆっくりと目を閉じ、また穏やかな振動に身を任せた。

 それから一時間後、夜行バスに揺られ辿り着いた先のバス停でまたしても乗り継ぎをしてはその二時間後に、ようやく太一はすっかり昇った太陽にきらりきらりと照らされる地へと足を下ろした。


 辺鄙で長閑な場所に降り立ち、朝露の名残で濡れ光る緑が美しい草や錆びて煤けた茶色いバス停の看板に、なんだか懐かしい気持ちになるなぁ。なんて一人ごちた太一はそのどこか胸がざわめく想いに、これは幼い頃にいつぞや体験した思い出せない記憶のせいなのか、はたまた人間が元来持ち合わせている感性なのかも知らぬまま、ただぼうやりと美しく晴れた青空を眺めては歩き出した。

 それから住宅街から逸れた道へと入る手前の花屋で小さな花を買った太一は、 余り人も車も通らないような山道の奥へと向かった。

 暫く進めば小さなお寺に行き着き、その鳥居の前で太一は一度深呼吸をしてから、鳥居をくぐる。
 太一が店に休みを貰い夜行バスに揺られてまで来た場所。そこは、太一の父と母が眠る場所だった。



 差し込む陽が光のカーテンとなって身へと降り注ぐ道。
 冬の荒ぶ風にカラカラと音を立て揺れる枯れ木。
 その侘しさと慎ましさに深呼吸をしてから本堂のご本尊へとお参りして、太一は住職の元へと挨拶に行った。


「おや、太一くん。久しぶりだね。元気にしていたかい」

 遠出をするお金を工面出来なかったため母の納骨式以来の来訪で、約三年ぶりにひょっこりと現れた太一に驚きつつそう微笑む住職に、太一は曖昧に返事をしながら軽く二三言葉を交わした後、手桶と柄杓を借り水を張ってから墓へと向かった。

 苔生した石段を降り、ひっそりと佇むその墓石の前に座った太一は一度合掌して脇に生えていた雑草をむしる。
 けれども普段から住職が綺麗にしてくれているのが見て分かる程その場所は綺麗で、ズボンのポケットに突っ込んでいた小さなタオルを取り出し墓石を拭けばあっという間に掃除は終わってしまった。

 献花し線香へと火を点ければ、ゆぅらりと昇ってゆく煙。

 漂う匂いが過去の記憶を呼び覚まし、懐かしいあの鈴のような母の美しい声が耳の奥で響いては消える。
 それから線香を濡らさぬようゆっくりと気を付けながら水を掛ければ、濃い灰色に変わってゆく御影石。
 その石に刻まれた二人の名前を見つめても昔のように胸が裂かれるような痛みはなく、だが、小さな刺にチクリと刺されるような感覚は未だに変わらなかった。

「……父さん、母さん、全然来れなくてごめんね。……けど俺、無事に香南高校を卒業出来そうだよ」

 そう小さく呟いた太一の声が、ひっそりと消える。
 少しだけ口元を弛めながら目を伏せたあとそっと手を合わせて目を閉じた太一の顔の横を枯れ葉が舞い踊りながらかさりと土に落ちてゆき、そんな太一を包む風の音と揺らぐ木々だけが、辺りを静かに裂いていくばかりだった。


 五分はそうしていただろうか。

 ゆっくりと目を開けた太一は寒空に昇ってゆく線香の煙を追うように顔を上に向けたまま、またしても微動だにしなかった。

 不意に頭上に掛かる影。

 鳥がバタバタと羽音を立てて飛び立ってゆく姿が目に入り、太陽を背に輝くその姿が眩しくて太一は目の前に手を翳した。

 命の躍動と木々の息吹。
 肌の上からでもまざまざと感じる生に、深呼吸をして墓石に刻まれた字を震える指でなぞった太一は、

「……母さん、父さん、俺、俺さ……、」

 と俯いて呟いたが、繋がる言葉は喉で引っ掛かったまま出てはこなかった。

 太一の晒されたうなじの白さがただただ頼りなく、墓石の前で俯く太一の姿は何かを懺悔しているようにも、祈りを捧げているようにも見えた。



 それから暫くしスゥと息を吐い太一は徐に立ち上がり、

「……長生き出来るよう頑張るよ俺。それと卒業したらここら辺に住もうかと思ってるんだ。そしたらいつでも会いに来れるから。……それじゃあ、またくるね」

 そう小さく呟いて桶を手にし去ってゆく。

 その力強くも儚い背中に降り注ぐ陽と、一瞬だけ吹いた強い風に混じる匂い。
 それに振り返った太一は暫く墓石を見たあと、小さく微笑んではひらりと手を振った。






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