チュンチュン、と耳に響く朝鳥の鳴き声。
 その声にぴくりと体を揺らした亮はゆるりと目を開けた。
 未だ微睡みに揺れる頭でぼうっと宙を見たが、しかしそれから数分後覚醒したのかバッと背もたれから上体を離してベッドを見た亮。
 けれどもそこに太一は居らず、ヒュッと息を飲んで立ち上がった亮は慌ててベッドの方へ駆け寄った。

 しかしそこにはやはりまるで太一の存在なんてなかったかのよう綺麗にメイキングされたベッドだけが佇んでいて、途端心臓がバクバクと鳴り拭えない不安が喉を狭め、亮はまたしてもヒュッと喉を鳴らした。


「……た、いち、」

 呟いた声は掠れみっともなく、冷や汗がじわりと吹き出すのが分かる。
 そのまま体をぐらりと揺らす亮だったが、持ち直すよう慌てて足を踏ん張り、それから机の上に放置していた携帯がピカッと光っているのを目の端で捉え、バッと手を伸ばした。

 逸る気持ちで画面を見れば太一からのメールが届いていて、それにやはりドクドクと心臓を鳴らしたまま、それでも、

『ごめん。急用が出来たからちょっと出てる。戻ってくるから待ってて』

 という文面に亮は一瞬息を飲んだあと、脱力しずるずるとベッドの脇に座り込んだ。


 ……良かった。本当に、良かった。

 そう心のなかで呟き、はぁ。と重いため息を吐いた亮。


 ……太一が気丈に振る舞えば振る舞うほど、太一が平気だと笑えば笑うほど、亮は怖かった。
 いつかふっとどこかへ消えていってしまうのではないか。そう思ってしまうほどのその儚さが、怖かった。

 そんな不安がいつも腹の中で燻っていて、目を覚ました時に太一が居ないことに物凄く焦りを感じていた亮はもう一度深く息を吐き、とりあえず連絡があって本当に良かった。と安堵しつつも、送られてきたメールの時間帯を見れば朝とも呼べぬほどの時間な事にやはり胸騒ぎを覚えてしまった。
 それでもその疑念を、いや、自分がどうこう言える立場ではない。それに、待ってて。と言ってくれている。と振り払い、

『分かった。待ってる。遅くなるようなら迎えに行くから、連絡して』

 だなんて物分かりの良いフリをした。



 しかしそれから程なくしてまたしてもピロン。と通知の音がし、亮は慌てて手元の携帯を開いた。
 差出人はやはり太一からで、しかし、

『ありがと。でもやっぱお前の家には戻れない。話したい事あるから今日の夜十時にあの展望台の上で待ってる』

 と書かれている文字に亮は瞬時に立ち上がりすぐさま太一に電話を掛けた。
 けれども返ってきたのは、

『お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていない為、掛かりません』

 というアナウンスだけで、その音を聞いた途端電源を切っているのだろうと悟った亮は呆然と立ち尽くし、それから髪の毛を一度ぐしゃりと掻き毟っては、……落ち着け。落ち着け。とバクバク鳴る心臓を抑えたあと、上着も羽織らず部屋を飛び出した。



 ガチャン。と門を揺らし道に出て辺りを見回したが手を繋いで歩く親子や犬を散歩させている老人しか居らず、まさに休日の穏やかな朝に相応しい光景しかそこには広がっていなくて、まるで太一だけを隠し何事もなかったかのように回る世界に亮はハッと息を乱し、心臓がぎゅっと締め付けられるような痛みに小さく鼻を啜っては居ても経ってもいられなくて太一の行きそうな場所へと探しに行こうと足を踏み出したが、そこでぴたりと動きを止めてしまった。

 太一が、何を考えているのか。
 太一が、今何をしているのか。

 そのどれひとつだって亮は知らず、ましてや太一の行くあてすらも分からない自分が情けなくて不甲斐なくてたまらず泣いてしまいそうになるのを必死に堪えた亮は、まだまだ時間はあるのにそれでも展望台にしかすがる場所がないと、白い息を揺蕩わせながら自身の気持ちとは裏腹なほどの爽やかな朝の道を駆けていった。





 ハァ、ハァ、と上がる息のまま三階までのぼりきり、眼下に広がる街を見下ろした亮は汗でしっとりと濡れる額を冷たい風が撫でていく事にフゥと深呼吸を一度した。

 電線の上で身を寄せ合う小鳥。
 陽の光に照らされ、キラリと光る家々の屋根。
 元気に駆けてゆく子ども達の声。

 それはとても美しくキラキラと輝いている筈なのにどこか色も現実味もなくて、見方一つ、心持ち一つで世界がこんなにも表情を変える事をきっと太一に出会わなかったら自分は知らなかった。なんて長い睫毛を震わせながら目を伏せた亮は、けれど今はそれがひどく悲しい。と鼻を啜った。


 この寒空の下で、それでも太一は今ちゃんと笑えているだろうか。

 なんて糞みたいな気持ち悪い事を考えながら太一の笑顔を思い出そうとしたが、最後に見たあの苦しくて苦しくて堪らない。と泣きじゃくる顔と悲痛にまみれた泣き声だけしか思い出せなくて、亮は冷たい手すりをぎゅっと握った。

 そのどうしようもないやるせなさと骨にしみる冷たさだけが、やけに鮮明だった。




 ◇◆◇◆◇◆



 ポツリ、ポツリ、と段々灯っていた明かりが消える頃。
 空は星さえ光らせず街はもう闇に包まれていて、夜になり更にぐっと気温が下がった展望台の上で亮はそれでもただひたすらに太一を待ち続けていた。

 はぁ、と吐く息だけが宙を揺蕩い、先程から何度も何度も携帯を出してはしまい出してはしまいと時間を確認していた亮は画面の数字がぱっと変わり夜の十時になったその瞬間に祈るような気持ちでぎゅっと携帯を握りしめた。


 それから数分後。

 たん、たん。と階段を上がってくる音がして、亮はそれだけで泣きそうになりながら階段の方を向き逸る気持ちを必死に抑え、太一の頭がひょっこりと見えた途端、へにゃりと表情を弛ませた。


「……良かった、来てくれた」

 もう既に来ていたのかと驚きつつ、よう。と手をあげた太一に向けてぽつりと呟いた声は寒さでくぐもり、ほっとしたのか途端にカタカタと震えだす自身の体を情けないと思いながらも太一に気付かれぬようにと奮い立たせ、亮はふわりと微笑んだ。


「……来てくれたって、俺が呼び出したんだろうが。ていうか、こんな時間に呼び出して、ごめん」

 そうばつが悪そうに謝る太一に、そんな事気にしなくていいよ。と笑いながら亮が言う。

 けれどもその後に続く言葉が出てこなくて、どうして俺の家は駄目なの。なんでわざわざここに呼び出したの。だなんだと聞きたい事は沢山あるのにその答えを聞くのがなんだか怖くて、ずっと喉の奧に張り付いたまま。
 そんな情けなさに亮がぎゅっと掌を握った、その時。


「今までずっと優しくしてくれてほんとありがとな。家に居て良いって言ってくれたのも、すげー嬉しかった。……ほんとに、お前と友達になれて良かったと思ってる」


 ふわりと、本当に穏やかな顔で、声で、太一が言った。

 その柔らかな笑みは今まで見てきた太一のどの笑顔よりも綺麗で美しかったのに、それがいっそう儚く消えそうで、亮がヒュッと息を飲む。
 ゆっくりと紡いできた時間があっという間になくなり一気に距離が離れてしまったような、そんな喪失感がツキンと心臓を突き刺し、堪らず亮が太一に腕を伸ばしかけたがそれを意に介さぬよう、

「でもバイト先の店長がさ、家においでって言ってくれたんだ。だから、その言葉に甘えてしばらくは店長の家でお世話になろうかと思ってさ」

 なんてさらりと、太一が言った。

 その言葉にまたしても亮は息を飲み、頭のなかで警戒音が鳴り響くまま、

「……あ、そ、そうなんだ。でも別に俺の家でも、」

 とそれでも平静を装って呟いたが、


「無理だよ。お前とは一緒には居られない」


 なんて真っ直ぐ、突き刺すような眼差しで太一が見つめて放った一言が、亮から全てを奪っていった。


 ズキン、ズキン、と痛む胸。
 呼吸すらままならない。
 目眩がしてしまいそうで苦しく、それでも、どこかでこうなるとも思っていて、亮はぐっと拳を握った。


「俺とお前は魂の番いだから、このまま一緒に居たらいつか本能に抗えなくなる。……お前もほんとは分かってんだろ。 だから、もうお前とは一緒に居られない。友達としていられる今のうちに、距離を置きたい。……じゃないと、お互い後悔する」

 最後の方はなんとも頼りなく風に掻き消されてしまうほど小さな声で太一が呟き、俯く。
 吹き荒れる冬風が太一の前髪を乱し更に表情を分からなくさせ、そのまま太一をどこか遠くへ連れ去って行ってしまいそうな錯覚に陥りながらも、けれども亮は黙ったまま、更にきつく拳を握りしめた。

 ……今、自分が言えることはない。
 俺は太一が好きで好きで、どうしようもないくらい好きだから後悔なんてする筈もないけれど、太一は違う。
 後悔と口にされた事で明白に突き付けられた、初めて会話をした時と変わらない自分へとは絶対に向かない太一の気持ち。
 それでも俺と友達でいたいからと、運命なんかに負けたくないからと必死にもがいて考え出した結論だろうと分かっているからこそ、俺は何も言えない。

 そう心のなかで太一の気持ちを慮った亮は、分かった。と言ってあげたかったが、けれど今何か口にすれば泣いてしまいそうで、太一が好きなんだと叫んでしまいそうで、そっと目を伏せる事しか出来なかった。


 そんな亮の仕草に、

「別にお前が嫌いなわけじゃねぇよ? 本当に感謝してるし、ずっと友達でいたいと思ってる。……ただ、俺が駄目なんだ。俺、実はずっと前から店長が好きでさ。だから、ただ俺が店長の側に居たいってだけだし、その気持ちを大事にしたいだけなんだ」

 なんて困ったように笑ったあと、なんかごめんな。と呟いた太一。

 その太一の言葉にバッと顔をあげ、……好きな、人……。全然知らなかった。と驚きに目を見開いたが、え、でもあの人、たしかオメガじゃ……。と亮が太一を見つめ返せばその視線の意図を汲んだのか、まぁ、うん、だなんて太一が目を伏せる。

「……あの人にはちゃんとパートナーが居るし、絶対俺を好きにならないのは分かってる」

 ふっと微笑んだ太一の表情は穏やかで、とても苦しい恋をしている素振りはない。
 しかし、

「それでも、俺には初めて痛みを共有できた人だった」

 なんてぽつりとそう呟いた太一にまたしても目を見開き、亮は唇の端を小さくひしゃげてしまった。

 切ないまでの、太一の呟き。

 その言葉が胸に迫り、ヒュッと小さく喉を鳴らした亮はやはり何も言えず、……そっか。と弱々しく呟くだけで精一杯だった。



「……だから、お前の家には行けない」
「……うん、分かった。……話してくれて、ありがと」
「……ん。……今までありがとう。本当に感謝してる」
「っ、ちょ、やめてよ。まるでこれが最後みたいな事言うじゃん」

 ズキンズキンと痛む胸の疼きを無視し、どこか張り詰めている空気を拭うよう亮がへにゃりと笑えば、太一も何故だか泣きそうな顔で、へにゃりと笑う。

 その顔が本当に消えてしまいそうなほど切なくて、思わず腕を伸ばしかけた亮がしかしその衝動を抑え込み、

「……俺たち、これからも友達でいられるよね?」

 と呟けば、一瞬だけ目を見開いたあと、

「……お前が、まだ俺と友達でいたいと思ってくれるなら」

 なんてやはり今にも泣き出してしまいそうに太一が声を震わせ笑う。
 そんな無防備な太一を見ればこれで良いのだと、俺は太一の気の置ける友人としてずっと側に居たいのだと思う事すら放り投げて抱き締めてしまいそうで、……そんな顔しないでよ。と亮は堪らずやはり泣きそうになってしまいながら、

「当たり前じゃん。ずっと友達でいたいに決まってるでしょ」

 だなんて精一杯の強がりで笑い返した。


「……うん、ありがと」

 ぽつりと呟いた太一の顔が吹き荒れる風に揺れ踊る髪のせいで隠れやはりよく見えず、じゃあ、俺店長待たせてるからもう行くな。なんて踵を返そうとした太一に、

「そ、卒業式! 卒業式には来るよね!?」

 と慌てて問いかければ、ぴたりと止んだ風でようやく見れた太一の顔が一瞬ぽかんとしたあとくしゃりと綻び、当たり前だろ。だなんて笑ったので、亮はほっと胸を撫で下ろしては、だよね。と笑い返した。


「……じゃあ、また卒業式に」
「……ん、受験頑張れよ」
「うっ、が、頑張るよ……」
「あははっ、お前なら大丈夫だよ。じゃあな!」


 眩しいほどの笑顔で、ひらりと手を振った太一がたんたんと軽やかに階段を降りていく。
 その後ろ姿をじっと見つめたあと、亮はそのまま太一が下から出てくるのを手摺に寄り眺めては、一度も振り返る事なく夜の道を歩く太一の真っ直ぐな背を、角を曲がって見えなくなるまで眺めていた。


 それから暫くし太一の背が見えなくなってしんとした夜の気配しか広がっていない闇を見下ろした亮は、そのままずるずると座り込んでは、ハッと息を吐いた。

 じっと足元のコンクリートにこびりついている灰色の汚れを訳もなく見つめ、必死に堪えていたがもう駄目だ。とずびっと鼻を啜った亮は、……太一が幸せになってくれれば良いと思ってたけど、俺が太一を幸せにしたかったみたいだ。だなんて浅ましい自分を痛切に自覚しつつ、ああ、心臓が痛くて痛くて、苦しい。と項垂れる。


 ……太一に好きな人が居たなんて、全然知らなかった。

 そう心のなかでぼやいた亮は初めて知った新事実に目を伏せたまま、それどころか太一は誰のことも好きにならないだろうなんてどこかで思っていた節があって、その自分の無礼さと能天気さをやはり痛切に想い知らされたが、それでも唇をきつく噛み締めた。

 ……太一は、店長が好きだと言った。
 けれど太一とあの人が結ばれる事は一生ないだろう。
 あの人は倍ほど年上で、しかもオメガで、それに太一はちゃんとパートナーが居ると言っていた。
 それはつまりアルファと番いになっているという事で、そんな一ミリだって叶うはずのない恋を、それでも太一は幸せだと、あの人が居るだけで良いと思っているんだろうと分かり、それがなんだか悔しいというよりも、ひどく悲しかった。

 痛みを初めて共有できた人、だと太一は言った。

 それは自分が例え望んだとしても絶対に手に入れられない、理解出来ない痛みで、それが太一と寄り添える条件だったとしたなら俺は初めからやっぱりまるで望みなんてなかったんだ。と亮は未だぼうやりとコンクリートを眺めつつ、……初恋は叶わないって本当なんだなぁ。ていうか、やっぱり都市伝説なんて糞ほども当てになんかなんねぇじゃん。なんて小さく笑っては、今さら自分が好きだと告げれば困らせてしまうと、友人だと思っていたのに。とむしろ傷付けてしまうと分かっているからこそ、……この想いは墓場まで持っていくから、だからどうか、太一の行き場のない、けれどきっと太一にとっては人生を変えてしまうほどの重要な恋がどうか太一をいつか幸せだと、オメガに生まれて良かった。と思わせてくれますように。と願う事しか出来なかった。

 そう願いながらも項垂れ、ずびっと何度も何度も鼻を啜り足元のコンクリートの灰色の上に新たな染みを作っていく亮を、冬の冷たい風だけが包んでいた。





 ーーーーー



 ひしひしと、背中に亮の視線を感じる。
 それでも太一は振り返る事なく真っ直ぐ前だけを見て、歩いた。

 吐く息が乱れてきたが、この距離では亮に気付かれはしないだろう。
 骨身に染みる冷たさが首筋を撫で、ぎゅっと拳を握った太一は曲がり角を曲がって数歩行った先でぴたりと足を止め、……もういいだろう。もう無理だ。と側の塀にもたれ徐に夜を見上げた。

 ……そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。


 亮に言った事は嘘ではない。
 出会えた事も何もかも、本当に良かったと思っている。
 店長だって大好きだ。
 ……ただ、好きの種類が違うだけ。
 それでもわざわざ店長がそういう意味で好きなんだと誤解をさせるよう言ったのはその方が亮もちゃんと納得してくれると思ったからで、自分の事でいっぱいいっぱいの俺とは違って亮はきちんと相手の気持ちを汲んでくれる奴だと知っているからこそああ言えば分かったと言ってくれると念には念を入れただけだった。

 そして、無事に全部、終わった。


 そう安堵なのか何なのか良く分からない吐息を吐き塀にもたれたままの太一は、……俺は、きちんと真っ直ぐ亮を見れていただろうか。と、数分前の事なのにその時自分がどんな顔をしていたのか、そして亮がどんな顔をしていたのか、もう思い出せない。と目を瞑った。

 ただただ必死に準備した台詞を吐いて自分を誤魔化すので精一杯だった、そんな卑怯で弱い自分にハッと短く息を吐いた太一はゆるりと目を開け名残惜しげに一度自身の腹をすりっと撫でながら、……もし、もしも、と考えかけたが、そんなもしもの話なんてなんの救いにもならない。と腑抜けた脳を一蹴し、パシッと顔を強く叩いては、この胸の痛みもこのどうしようもない苦しさも、全部全部、もう誰にも漏らさず誰にも知られずひっそりと抱えて生きていくって決めただろ。と意気込み、泣いてしまいそうになるのを、泣く権利すらねぇ。と奮い立たせた。

 それから太一は、店長を待たせてるんだから急がねぇと。と塀から背中を離しては足をひたすら前へ、前へ、とがむしゃらに動かし、真っ暗な夜を駆けた。


 月さえも眠る街の静けさを裂くよう、太一の一人ぼっちの足音だけがただ物悲しく響いては溶けていく、そんな夜だった。





 to be continued……






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