「お風呂の場所覚えてる?」

 亮の家へと着き、玄関の扉を開け開口一番そう聞いてきた亮。
 それに、多分大丈夫。と頷き、ありがとな。と笑ってはとりあえず風呂だけ借りよう。と太一がお屋敷と呼ぶに相応しい亮の家へと足を踏み入れれば慌てて出迎えてくれたのか斎藤さんが亮にお早いお帰りで。と目を丸くしたのが見えた。
 その斎藤さんが亮の後ろに居る太一に気が付いたのか微笑んだが、しかしその顔が腫れ、そしてボロボロの状態になっている事に気付き途端に顔を引き締め、亮を見る。

「斎藤さん、太一の家の物置小屋に虫が一匹踞ってると思うので、申し訳ないんだけど病院に連れて行ってもらえる?」

 そう亮が言えば、いつもとは違う、仕事人といった顔をした斎藤さんが何があったのかを瞬時に察したのか、かしこまりました。と一礼し、家を出ていった。


 そんな二人のやり取りに呆気に取られたまま見ている事しか出来なかった太一にくるりと振り返り、

「服とタオルは出しておくから、太一はお風呂に入っておいで」

 なんて何事もなかったかのような顔で微笑む亮に、な、なんだかなぁ。と気まずい思いを抱え、しかしどうすれば良いのか分からず太一が困惑したまま見上げれば、大丈夫だよ。と優しく微笑まれ、その顔をされると本当に全て大丈夫な気がしてくるんだよなぁ。なんて太一もふにゃりと表情を弛めた。


 それから以前教えてもらった風呂場へと向かい、汚れを洗い流したあと亮が用意してくれたらしい新品の下着と着替えに袖を通し廊下へと出た太一。
 薄暗い廊下は相変わらずしんとした空間が広がっており、その無機質さに心許ない様子で太一がうろうろとしていればリビングから出てきた亮が手に救急箱を持ちながら、

「二階のゲストルームで手当てしよっか」

 と笑い、その笑顔にまたふにゃりと表情を弛めてしまった太一が後をついていく。
 そして二階のゲストルームのベッドへと座らされ、痛む? だなんてなぜか亮の方が痛そうな顔をしながら殴られて切れてしまった唇の端や目の下にチョンチョンと消毒液を付けてくるので、じわぁと広がる痛みに顔をしかめつつ、平気だって。と太一が笑った。

「……」
「いやほんとに、大丈夫だから」

 そうへらりと笑った太一をじっと見つめたかと思うとすりっと目元を撫で、

「……クマ酷いよ……。ちゃんと寝れてた?」

 なんて呟く亮。
 その指先がひどく優しくて、ドキッと高鳴る胸と穏やかな気持ちでごちゃまぜになりながら太一が思わず目を瞑れば、

「少しでもいいから寝て」

 とそっと肩を押され、ポスンとベッドへと沈んでしまった。

「へっ、え、いやいや、」
「いいから。ていうか強制だからこれ」
「……きょ、きょうせいって、」

 じっと上から覗き込むよう見つめられ、さらりと流れる亮の柔らかそうな茶色い髪の毛や美しい瞳に見惚れた太一がうぐっと口をつぐめば、

「大丈夫だから」

 だなんてまたしても優しく微笑まれ、太一はふかふかのベッドの誘惑とここ最近寝ているのか起きているのか分からないほど疲弊していた事もあってすぐさまうとうととしてしまい、そんな太一を優しく見つめながら、

「おやすみ」

 と囁いた亮の声を最後に、太一はぷつりと意識を飛ばしてしまった。


 太一が落ちるように寝入ったあと、そのひどくやつれ、そして痛々しくガーゼが貼られた唇の端がじわじわと血に染まっている姿を見つめた亮はそれから太一の頭を一度そっと撫でてから立ち上がり部屋を出で、そして誰かに電話を掛けたかと思うと、

「突然の電話すみません、どうしても今会って話がしたいのですが……、」

 と言ってすぐに電話を切り、家を出た。





 ーーーーーー




 亮が誰かに電話をし、そして一時間後。

「坊っちゃま、こちらです」

 という斎藤さんの声に亮は、ああ。と足をそちらに向けた。
 亮の家が多額の寄付をしているこの街最大の総合病院は人でごった返しており、しかしそれに見向きもせず斎藤さんの後をついていった亮は、それからあてがわれたらしい個室の扉を開ける。
 そこには病室のベッドに横たわっている淳が居て、亮は無表情のまま近付いていった。



「ひっ、」

 亮を見るなり恐怖の声をあげ、しかしガタガタと震えながらも、

「す、すみませんでした、すみませんでした……あいつが近衛さんの知り合いだって知らなくて……本当に、すみませんでした!!!」

 と頭をベッドに擦り付けて謝る淳。
 その横には斎藤さんから連絡を貰ったのか淳の母親、以前亮が近衛だと名乗った瞬間態度を変えたあの太一の叔母が淳の頭を上から押さえ付け、

「ほ、本当に申し訳ございませんでした!!」

 と平謝りしてくるので、その姿をやはり無表情で見つめた亮はなんだか漠然とした気持ちになりながら、……反吐が出るな。と目を伏せた。




 亮はアルファの元にアルファとして生まれ、近衛財閥という名を背負って生きてきた。
 何不自由なく育てられ、名門校へ通い、人より容姿も体格も恵まれ、これといって頭も悪くない。
 そんな亮を、絵に描いたような選ばれた人生だと周りはもてはやし、羨ましがった。

 だが実際は、両親は仕事が忙しいのか家には滅多に帰ってこず、小さい頃からお手伝いさんがいわば亮の育ての親だった。
 いつもいつも人から羨ましがられ、しかしそれがいつしか妬みに変わる事も良くあり、そんな時亮は、俺だって好きでアルファに生まれたわけじゃないと、出来ることなら普通の、ただいまと言えばお帰りと言って待っていてくれる人が居るような平凡などこにでもある、けれどとても温かな家庭でベータとして生まれたかった。と思うようになっていった。

 そうして段々と荒み始めた亮だったが、それでもなんとか自分を保っていられたのは友人である龍之介や明、それから優吾や亘のお陰で、けれども、それだけでは埋まらない心の穴がぽっかりと空いているのが自分でも分かり、最終的に家を継ぎ近衛という名に相応しいよう生きさえすれば何をしていようと何を考えていようと関係ないと言わんばかりの人達の元に生まれたその息苦しさや歪みから逃げ出したくて、それでも近衛という家からは逃れられないと分かっていたからこそ、大学は二人の望んだ所に行く。会社だって継ぐ。だから高校だけは自由にさせてくれ。と頼んだ中学生だったあの日。
 やはり両親は亮への関心が薄いのか、好きにしなさい。と言うだけで、けれどもその日久しぶりに亮は、まともに息が出来た気分だった。


 そうして晴れやかな気持ちで香南高校へと最初の一歩を踏み入れた亮は、そこで魂の番いである太一と出逢った。

 電流が身体中を走り、嘘でしょ。と驚く亮をそれでも太一は鋭い眼差しでまるで威嚇する猫のように睨み付け去って行き、一人取り残された亮は今まで自分に向けられてきた羨望や嫉妬、或いは劣情といった表情ではない太一のその瞳に撃ち抜かれ、暫く動けなかった。

 それから翌日早々に見つけた太一に声をかけ、それでもやはり邪険にするよう近付くなと拒絶を示す太一の態度が亮にとっては本当に新鮮で面白くて、そして美しい瞳の奥にある陰りも、亮にとってはとても魅力的に思えた。

 俺の運命の、オメガ。

 そう思えばにやけてしまうほど亮は太一の事を気に入っていたが、やはり太一は全然心を開いてくれず、寧ろ同じアルファである龍之介にも屈託ない笑顔を見せているのに自分にだけは何時まで経っても側にさえ来てくれない太一に、亮は生まれて初めて龍之介やその他の奴らに嫉妬をしたりもした。

 そうしてやっと太一が自分を見てくれたあの雨の日。
 亮は生まれて初めて胸をドキドキと高鳴らせ、太一が笑ってくれるだけで何とも言えぬ充足感に包まれたのだった。

 それからはもう、早かった。
 転がるように太一を好きになって、もっともっと、と欲深く知りたいと思った。

 そうしていつしか、俺の運命のオメガ、ではなく、太一を一人の人間として、尊敬し愛するようになった。

 愛だなんて高校生の分際で何をと思われてしまうだろうが、この感情を、この溢れんばかりの気持ちを愛と呼ばぬのならきっと一生誰の事も愛していると思えないだろうと言い切ってしまえるほど、亮にとって太一の存在は大きかった。
 そんな太一と出会い、生まれて初めてようやく亮は自分がアルファで良かった。と思えるようになった。

 アルファならば、あらゆる面で太一を救える。

 そう思った亮はしかし、勿論まだまだガキで親の援助無しでは一人で生きていけない甘ったれだと太一の生き様を見て痛感したりもしたが、それを逆に最大限に利用してやろうとさえ思うようになった。

 使えるもんは何でも利用して、太一を守る。

 そう誓ったのはずいぶん前で、守るだなんておこがましいとは分かっているが、ゆっくり、着実に太一にとって自分は害を与える人間ではないと思ってもらえるようにと努力をしてきた。
 太一の見る世界が、少しでも優しいものになりますように。なんて少し前の自分が聞いたら笑ってしまうような陳腐な事だけを考えて接してきた。


 それなのに。

 そう目を伏せたままの亮は、こうして太一の当たり前に生きる権利を、幸せを、人権を意図も容易く踏みにじっていく人間が目の前に居る事に、そして事は事だが手酷い暴力を振るったのは自分だというのに媚びへつらうかのよう謝る二人にもう一度反吐が出ると憤りながらも、しかしここで自分が罵声を浴びせたとしても太一の状況は何も変わらないと一度深呼吸をし、それから淳達を見た。


 淳達がびくっと震えたのが分かる。
 その震えすら意に介さないとばかりに、

「謝る相手が違いますよね」

 と鋭く亮がトゲを刺すよう言い放ち、それから、まぁ謝って済む問題ではないと思いますが。とまたしても吐き捨てるよう言った。


「あなた方がまた太一を邪険に扱ったり傷付けた場合は、今度こそ容赦しません」
「っ、」
「次こんな事があったら、近衛財閥の名にかけてあなた方を社会的に潰します」
「も、もちろん、太一君にも謝ります! もうあんな事は二度と致しません!! この通りです!! ですから、どうか、どうか……!!」

 淳の頭をまたしてもベッドに擦り付け平謝りをする淳の母親を見た亮が、これはきっと息子を思っての事ではなく保身の為だろうと分かりつつも、もうここに居ること自体が無駄だなと溜め息を吐き、

「……入院費や治療費、通院費はこちらで負担しますので安心してください」

 とだけ言い残し、病室を出て行く。


 ガラガラ。と扉を閉め、なんとも言い難いどす黒い感情が渦を巻くまま廊下でもう一度深い溜め息を吐いた亮はそれからまたしても電話を取り出し手短に会話を済ませたあと、斎藤さんが出てくるのを待った。

 それから暫くして諸々の説明や手続きを済ませてくれた斎藤さんが病室から出てくると亮はばつの悪そうな顔をしながら、ごめんね。と斎藤さんに謝り、カッとなっちゃって、自分を抑えられなかったです。すみません。と頭を下げた。


「……相手方が原因とは言え、暴力に頼るのは私は最善とは思いません」
「……はい」
「やりすぎたと自覚なさっているのなら今後はしっかりと自分を戒め、頭に血が昇った時こそ、深呼吸を忘れてはなりませんよ」
「……はい、ごめんなさい」
「旦那様と奥様には私の方から報告してあります」
「……その事なんだけど、ていうか、その事も、なんだけど、俺今から母さんに会いに行きたいんだ。だから、母さんの会社まで送ってくれる?」
「……奥様にお会いに、ですか?」
「うん。今さっき電話して、了承は得てる」
「……左様でございますか。では今すぐ車を回して参りますので玄関でお待ちください」
「……ごめんね」

 そう亮が珍しくしょぼくれた顔で謝り、その顔を見た斎藤さんは幼い頃から反省した時になさるお顔がお変わりになられませんね。と内心微笑んだが、けれどもそれを悟られると拗ねてしまうと分かっているからこそ、おくびにも出さず会釈をしてから駐車場へと向かったのだった。




 

 近衛財閥が有する大手会社へと向かった亮はそれから斎藤さんと一緒に受け付けへと向かい、母に来たことを知らせてください。と頼んだ。
 するとすぐさま母の秘書がやって来て、会長室までご案内致します。と恭しく頭を下げたあとエレベーターホールへと向かい最上階まで昇り、【会長室】と金色のプレートが付けられた扉の前へと案内された亮。

 コンコン。と響くノックの音。

「会長、ご子息をお連れ致しました」

 静かにそう告げる秘書に応えるよう、

「入りなさい」

 と中から凛とした女性の声がする。
 その声に、ああそういえばこんな声だった。と亮はぼうやり思いながら、ガチャリと扉を開けてくれた秘書に小さくお礼を言って、中へと足を踏み入れた。


 広い部屋の奥。
 大きな机とそれから専門書だろう書物がぎっしりと並ぶ大きな本棚だけの寂しい部屋のなか、窓の方を向いて立っていた亮の母が、くるりと振り返る。

 美しいブロンドのゆるくカールした長い髪。
 亮の瞳よりも鮮やかな、金色に近い瞳。

 綺麗に塗られた赤い口紅が美しく、まるでモデルのような気品さを漂わせながら見つめてくる母に、亮は冷や汗がじわりと背に浮くのを感じながらも真っ直ぐ見つめ返した。


「……久しぶり、ね」
「……うん」
「……また、背が大きくなったんじゃないの、貴方」
「そうだね」
「……高校は、……いえ、そんな世間話はどうでもいいわね。貴方がわざわざ私に会いに来た理由は分かってる」

 ぎこちない会話を繰り返し、しかしそれからキュッと表情を引き締めた母が鋭く、

「本郷家から縁談破棄の電話があったわ」

 と静かに腕を組みながら呟いた。
 その言葉に、さすがにもう情報が回ってたか。と口をきつく結んだあと、ああ、その事で来たんだ。と亮は返した。


「どういう事なの」
「今朝、俺の方から本郷さんに電話して婚約破棄させてくださいって頼んだんだ」
「……やっぱり。あちらから双方が納得した上で決めた事らしいのだけれど私共も知らされていなくて、と平謝りされたけれど、貴方から言い出したのね」
「……うん。俺から言った。それでもお互い納得した上でというのは本当だよ」

 そうはっきりとした口調で言いきった、亮。





 太一が眠ったあと病院へ向かう前に電話をした相手、それが本郷聡子という許嫁だった。

 聡子は亮より三つ上で生まれた時から既に決まっていた相手であり、歴とした名家のアルファで容赦端麗、優秀な才女である。
 しかし許嫁といっても顔を合わせるのは一年に一度か二度で、どこかへ一緒に出掛ける事はおろかろくに話をしたこともない、正に政略結婚というに相応しい関係性だったが、しかしそれでも亮は良いと思っていた。
 独身の間で適当に遊べばいい。そんな風にすら思っていた亮だったが、しかし今は太一という己の人生全てを捧げられるほどの相手と出会ってしまった。

 だからこそ、ずっと聡子にはきちんと話をして殴られてもいいから婚約破棄をしてもらわなければと亮は常々考えていたが、しかし未だ何の覚悟も背負えない学生の身である自分がそんな事を言った所で到底受け入れてくれる訳はないと、せめて高校を卒業した時にきちんと話をしようと思っていた。

 けれども今、太一の状況は差し迫っている。

 いくら淳達が亮に怯えもう太一に手を出したりしないと誓ったとはいえ、太一はもうあの家へ戻りたいとは思わないだろう。
 しかし他に身よりがないであろう太一は、きっとまたあの全てを諦めたような顔で笑って、高校卒業する頃にはなんとかアパート借りれるお金貯まるだろうし、それまでの数ヶ月我慢すればいいことだから平気だって。だなんだ言うに決まっている。
 しかしそんな事をそんな顔で言う太一を想像するだけで胸が張り裂けそうな程痛み泣いてしまいそうになる亮は絶対に太一にそんな事を言わせたくなくて、しかも今の今まで太一が家に入るまで見送った事が無かった為気付かなかったがあの物置小屋でずっと生活していたのだろうと飛び込んだ時にようやく知り、だからこそむしろあの家へは帰せず、自身の家へ来たら良い。と亮は提案するつもりでいた。

 しかし家に一緒に住むとなると流石に今までのように自分だけの判断で決められるものではないと理解もしているし、太一もなかなか首を縦には振らないだろうとも分かっているからこそ、亮は今日、まずは聡子に全てを伝え婚約を破棄してもらおうと覚悟を決めてきたのだ。

 聡子の通う名門である女子大の前で待つ亮に、やって来た聡子は柔らかな笑みを向けて、珍しいですね。だなんて言ったが、亮の纏う空気があまりにも緊迫していたからか、一瞬にして表情を変えた。


「突然電話して、そして突然会いに来てすみません」
「……いえ」
「……あの、どこか場所を移しませんか」

 人が行き交う大学の前で言うにはあまりにも残酷すぎる。とそう提案した亮だったが、聡子はしゃんと背筋を伸ばし亮を真っ直ぐ見つめ、いえ、こちらで構いません。と言いきり、凛とした出で立ちで亮の言葉を待つ。
 その美しさに、この人はこんなにも芯の通った綺麗な人だったのか。と今更ながらしっかりと向き合った気がした亮は自身を恥じながらも、正直に全てを話した。

 魂の番いである人と出会った事。
 でも運命の相手だなんだを無くしたとしても、その人を心から愛している事。
 そして、その人の為に一日でも早く一人前の人間になりたいと思っている事。

 だから、貴女とは結婚出来ない。

 申し訳ない気持ちもありながら、それでもきちんと真っ直ぐ聡子の目を見てそう言った亮に対し、聡子は一言、

「分かりました。では、私たちの婚約は破棄しましょう」

 と言い切り、微笑んだ。
 それはとても穏やかな笑顔で、恥をかかされたと殴られる気でいた亮が呆けていれば、

「素敵な方と出会えたのですね。その方のお陰でしょうが、近衛様も見違えるほど素敵な殿方になられました」

 なんて言っては、

「私の家には私からきちんと話をしますので、ご心配なく。その方と共に素敵な人生を歩んでくださる事を願っていますわ」

 とまたしてもとても美しい笑顔のまま、それでは。と呆気なく去っていってしまい、亮はその意外にも竹を割ったような性格の聡子に面食らったまま、しかしピンと張った糸がぷつりと切れたかのようにその場にへたりこみ、とりあえず第一関門突破だ。とへらりと笑ったのだった。





 そうして無事に聡子との縁談を解消し、しかし今度は最大の難関である親の説得だ。と、亮をじっと見つめ黙ったままの母を前にし息を吸った亮はそれから、ぐっと拳を握りながらゆっくりと口を開いた。


「……俺は、ほんとはずっと、アルファになんか生まれたくなかったと思ってた」


 しん、と静まり返った部屋にこだまする亮の声。

 僅かに母が息を飲んだのが分かる。
 けれど、今まで思ってきた事、感じてきた事を全てきちんと伝えなければ到底自分の本気を分かってもらえないと、腹を括ってこの場に来たのだ。と亮はもう一度深呼吸した。

「他の子よりも何不自由なく育ててもらったっていうのは分かってる。でも、どれだけ勉強やスポーツを頑張っても周りからアルファだから何でも出来て当たり前だと思われる事も、羨望の目がだんだんと濁って嫉妬に変わるのも、嫌だった。そして、斎藤さんとか、たくさん他の働いてる人達は居たけどずっと広い家に自分一人でポツンと立ってるみたいで、悲しかった」


 ……そう、ずっと俺は、悲しかったんだ。
 こんな事を高校三年生になって言葉にするなんて情けないし恥ずかしい事かもしれない。
 でも、自分の胸にぽっかりと空いていつまでも埋まらなかった穴の正体が言葉にする事ですとんと自身の胸に落ちてきたようで、亮は目を伏せながら、ガキかよ……。と小さく笑ってしまった。

「皆が羨んで望む人生が、俺にはただいまもお帰りも、抱き締めてくれる人も居ない寂しいだけのものとしか思えなくて、苦しかった。父さんや母さんの期待に応え続けて、それでも二人は俺の前にはいつだって居なくて、でも近衛という名字を背負って生きていかなきゃいけないっていうのは分かってるからこそ、その歪みでおかしくなりそうだった。それでも俺がなんとか立っていられたのは、斎藤さんや龍之介達が居たからで、皆には本当に感謝してる」

 面と向かっては言えないけど。
 そうおどけたように笑う亮に母はやはり何も言わず、じっと亮が何を言おうとしているかをきちんと聞こうとしていて、その真摯な瞳に、ああ、今俺は初めてちゃんと向き合ってもらっている。と亮は胸の奥から沸き上がってくる良く分からない息の詰まるような感情に小さく鼻を鳴らした。


「それでも逃げ出したくて、高校は好きな所に行かせてくれって頼んだ。でもそこで、俺の人生が変わった。魂の番いに会ったんだ。俺」

 そう穏やかな声で、太一を思い出すかのよう慈しみを瞳に宿し呟いた亮。
 その顔に今度ははっきりと母親が息を飲んだのが分かる。

「でも初めはめちゃくちゃ嫌われてたんだ。それこそ口すら聞いてもらえないくらいに。都市伝説かなんかではさ、お互い一目見て惹かれ合って結ばれるとかなんとか言われてたのに、むしろ嫌われてたんだよ? 俺。笑っちゃうよね」

 一年の始めの太一の態度を振り返れば本当に毛嫌いされてたなぁ。とくすくす笑ってしまう亮が、それでも、少しずつ、少しずつ、心を開いてくれた。と穏やかに笑った。


「でも、それがあったからこそもっと知りたいと思った。どんな子なんだろうって、学校に行くたびに会えるかなってワクワクして、邪険にされても、なんだか嬉しかった。この時から多分もう、俺は太一が好きだったんだと思う。それからまぁなんとか仲良くなって、太一の事を知れば知るほど、大好きになっていった。太一と出会ったからこそ、アルファとして生まれてきて良かったと、思えるようにもなった」


 ……きちんと太一という名前を出して好きなんだと口に出したのは初めてで、それが親の前でだなんてとは思うが、それでも誰かを、太一を好きだと言える事がなんだかむしろ誇らしくさえ感じ、ゆっくりと目を伏せた亮は、太一の全てが本当に好きなんだ。と真っ直ぐ母を見つめた。


「……そう。分かったわ。その子と一緒になりたいから、婚約破棄したのね」

 亮の決意を汲んだのか静かにそう母が言ったが、それは少し違う気がする。と亮は苦笑した。


「……勿論、太一を幸せに出来るのが俺だったら良いと思う。母さんが言うように俺は太一と一生一緒に居たいと思うし、太一以外の人と結婚だとかはもう出来ないし。でも、それは俺が思ってるだけで、俺じゃなくても太一が幸せになってくれればそれだけでいいんだ」
「……待ちなさい、それじゃあまさか貴方達、まだ番いになっていないの?」
「っ!? つ、番いって、……番いになるどころか付き合ってすらないよ! 完全に俺の片想い! 」

 いきなり何を言ってるのだ。と思わず咳き込みそうになりながら慌てて反論する亮。
 その亮の焦りが本当に付き合ってはいないと物語っていて、そこで初めてなぜか困惑した様子を見せる母に亮は、気にする所そこじゃないから。と思わず突っ込んでしまった。


「と、とにかく、そんな気持ちじゃ本郷さんと結婚なんて出来ないから謝りに行ったんだよ。殴られる覚悟で行ったんだけど、物凄く物分かり良く了承されてむしろびっくりした」
「当たり前よ。そんな事でプライドが傷つけられたと怒るような方ではないでしょう」
「……うん、そうだね。素敵な女性だった」

 そう微笑む亮に、一旦深呼吸をしてから、今度は私が話す番ね。と母は口を開いた。



「……その件については了承したわ。それとは別に、貴方が今言った事、私は、いえ、私達はまるで気付いてあげられなかった。……親として失格です。本当にごめんなさい」


 ゆっくりと頭を下げ、亮に謝る母。
 そんな母の姿に亮が慌てて、な、なにしてんの!? やめてよ! と声を掛けたが、母は頑として頭を上げようとはしなかった。


「……貴方は小さい頃から我が儘一つ言わない子だった。それに甘えて、随分と寂しい思いをさせて、そしてそんな事を言われないと気付けなかったなんて、本当にごめんなさい」

 そうまたしても謝り、それからゆっくり顔を上げた母が真っ直ぐ亮を見つめては、

「でも、決して貴方を愛していなかっただなんて、思わないで欲しい」

 と言いきる。
 その言葉に、亮は目を丸くし息を詰まらせた。


「……私もあの人もアルファとして生まれて、アルファとはどう生きるのかを叩き込まされて生きてきたわ。そしてそれを、私もあの人も当たり前だと思っていた。だから、当然のように貴方にもそれを押し付けてしまった。それが親として正しい事だと思っていたの。でも結果それが貴方を苦しめる事になったなんて、少しも思わなかった。そのくせ、忙しさにかまけて貴方を放置していたのに貴方がだんだんと私達の前で感情を見せなくなった事が、悲しいと思っていた。でも、私もあの人もどうすればいいのか分からなくて、もう貴方との関係を修復するのは無理だと、諦めてさえいた」

 静かに、けれど微かに声を震わせて呟く母。

 その頼りない姿は初めて見た姿で、それが近衛という家を背負ったアルファとしてではなく、一人の母としての苦悩を含んだ姿に思えた亮は鼻の奥がつんと痛みなぜだか泣いてしまいそうになりながら、それでもじっと言葉を待った。

「……私達は貴方を愛しているわ、亮」

 金色のような美しい瞳で真っ直ぐ見つめてくる母の瞳がどことなく涙の膜を張っているようで、その姿をしかと見た亮はやはり目を丸くしてしまった。

 そしてそれから、今まで自分の中で勝手に二人から愛されていないと思い込んで、自ら壁を作って苦しいだなんてもがいていただけだったなんて。と痛切に知らされた自身の勘違いにズズッと鼻を啜り、けれどようやく長年の確執がぼろぼろと崩れ去っていく音を聞いた気がした亮は、本当にガキだった。と恥ずかしくなりながらも、

「……うん、ありがとう」

 と呟いた。

 それきり、しん、と静まり返る部屋。

 それでももう、息苦しさは感じなかった。







「……それで、貴方はいつその太一君に告白するつもりなの」

 突然、穏やかで晴れやかな空気を裂くよう通常運転に戻った母が真顔で聞いてくる。
 その言葉に亮は盛大に噎せながら、まじで何言ってんの!? と顔を赤くした。

「もたもたしていたら誰かにその子の横を奪われるわよ。それに欲しいものは力ずくでも奪うべきでしょう」

 腕を組みながらそう話す母はやはりアルファそのもので、亮は、やっぱり俺の母さんだなぁ。と苦笑しながら、今はしないよ。と呟く。

「俺がちゃんと一人で立って生きていける一人前になったら好きだって事だけでも伝えられたらとは思うけど……」
「……そう、……それは……何年後になるのかしらね」
「うっ、そ、そんなにかからないよ、多分。大学を卒業したらちゃんと父さんの下で学びながら真面目に働くつもりだし」
「……そう」
「うん」

 はっきりとした口調でうんと言いきる亮に薄く微笑んだかと思うと、

「それじゃあ、今度太一君を家に連れてきて欲しいわ。会いたい」

 なんて言ったので、亮はそうそうむしろその事で来たのだ。と表情を引き締めた。


「それなんだけど、太一を今日から俺の家で暫く寝泊まりさせようと思ってるんだよね。だからその了承も兼ねて、今日来たんだ」
「……は?」
「斎藤さんから聞いてるでしょ。俺が殴っちゃった人の話」
「……ええ。後であちらの親御さんにお会いして頭を下げるつもりでいるけれど、それが太一君との件にどう関係しているのかしら」
「あんな奴に謝らなくていいよ。俺は、殴った事に関しては絶対に謝らない。まぁやりすぎたのは反省してるけど。……そいつ、太一が今居候してる親戚の家の息子なんだ」
「……居候って、ご両親はお忙しいの?」
「いや、……居ないんだ」
「それって、太一君、ご両親が、」
「……うん。だから親戚の家で暮らしてたんだけど、」
「……そう、もう大体分かったわ。これ以上説明しなくてもいい」
「……ん。だからさ、高校を卒業するまでの間だけ俺の家に置いておきたいんだ」
「別に高校卒業までなんて決めなくてもずっと居てくれても構わないわ。その方が貴方もいいでしょう」
「っ!? また、そんな事を……まぁ俺としてはずっと一緒に居たいけど、それじゃあ太一が嫌だって言うと思うから。多分この話すら最初は遠慮していいって突っぱねると思う。だから先に母さんに頼んで外堀から埋めようと思って来たんだよ」
「……そう。分かったわ。まぁ好きにしなさい」

 そこまで言ってからハッとしたように亮を見て、いえ、違うの、今の好きにしなさいというのは、と母が弁明しようとしたが、その言葉が突き放すものではなく自分を信頼してくれているからこその台詞だともうちゃんと受け止められるようになった亮は心が軽やかになっていくのを感じながら、うん、好きにする。と返した。



「それじゃあ、もう行くね。仕事中に邪魔してごめん」
「そんなこと子供が気にする事じゃないわ」
「はは、そうだね。あとこの事、父さんにも伝えておいてくれれば助かるんだけど、」

 さすがに父親に同じ話を繰り返すのはちょっと。と照れ臭そうにする亮に、ふっと微笑んだかと思うと胸元から何かを取り出した母。
 その手元を見てみればボイスレコーダーで、

「誰かと話す時は何かあった時のために全て録音しておくのは基本でしょう? それに貴方の事になると私達は途端に口下手になってしまうようだから、むしろ今回は録っておいて正解だったわ。貴方の言葉を、想いを、私ではあの人に正確に伝える事は出来そうにないから」

 そう目を伏せたあと、

「まだ、……まだ私達は貴方との関係を修復出来るかしら」

 なんて頼りなく呟くので、亮はまたしても鼻の奥がつんと痛くなるのを感じつつ、

「……お互いが歩み寄る努力をすれば、きっと出来るよ」

 なんて真っ直ぐ母を見つめて笑う。
 その顔に母は一度目を見開き、それからふっと微笑んだ。

「そう……。善処するわ」
「……うん。俺も」
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」

 なんてなんとも言いがたい会話をぽつりと交わしたあと部屋を出た亮は、いつもの息苦しさとは違う、けれど緊張していたからか息を大きく吐き、それから扉の前でじっと待ち事の成り行きを見守ってくれていた斎藤さんに向かって、満面の笑みでピースをした。



「っと、もう夕方過ぎてるじゃん、太一起きてたらヤバい!」


 そう腕時計をちらりと見ては慌てて走り出す亮の背中を眩しげに見つめた斎藤さんは、良かったですね、坊っちゃま。と感慨深い気持ちになりながらその背に、お待ちください、坊っちゃま。と声を掛ける。
 その声に振り返った亮が、急いで斎藤さん! と声を張り上げ、それでもその顔はとても晴れやかで穏やかだった。






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