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がん、と響くような頭の痛さに顔をしかめ、睫毛をふるりと震わせながら太一がゆっくりと瞼を開ければ見える世界は白く、けれどもその白は天井の白さだと分かって、数回瞬きをした。
体が、軋むように痛い。
ぼうやりと霞む視界の隅に、白い仕切りカーテンが映る。
その窮屈さと鼻を擽る消毒液のような不思議な香りに、ここは病院なのだろうか。と太一は未だ痛む頭で考えつつ、腕を動かそうとした。
だが思うように動かず骨が軋むようなだるさが走り、それでもなんとか動いた腕を持ち上げて見れば点滴やら何やら良く分からない管が繋がれており、隣からはピッピッと鳴る無機質な機械音がする。
その雑音溢れる世界と体のだるさに小さく鼻を啜れば、シャッとカーテンが引かれる音がし、ひどく不機嫌そうな顔をした叔母と叔父がそこに立っていた。
その顔に、途端に現実に引き戻された太一が顔を青ざめさせ上体を起こそうとしたが、ブンッと振り上げられた叔父の腕によって、それは阻止されてしまった。
ガツッ。
振り上げられた拳が頬骨に当たる音が、静かな病室に響く。
ぐわんと目が回るような衝撃が駆け抜け、その後すぐに殴られたと理解するよりも痛さが走り顔面をびりびりと痺れさせ太一が堪らず頬を押さえれば、
「お前は! 何をしてるんだ!!」
と激昂した叔父の怒号が響き、その横で叔母も鬼の形相で太一を見ていた。
「病院なんかに運ばれて、しかも近衛さんに迷惑をかけて、恥ずかしいったらありゃしない! 恥を知りなさい恥を!」
「そうだ! これ以上迷惑かけるなと言っただろうが、この疫病神のあばずれが! 」
二人から見下ろされ、鼻血をボタボタと垂らしながらも、……すみません。と太一が呟いたその時、何を騒いでるんですか!? とやってきた医師によってなんとか太一は叔父と叔母の叱責から解放された。
しかし叔父と叔母は、初めこそまずいという表情をしたが、この子がオメガで人様に迷惑をかけるどうしようもない子なもんでつい、だなんて自身の暴行の正当性を主張し、何を言っているんですか。と怒る医師の言葉にも耳を傾けず、取り付く島もないほどひどく不機嫌なまま帰っていった。
そんな二人に医師はしかるべき対処を取ろうかと太一に聞いたが、太一は殴られたのは初めてであるし、どうせあと一年もしないうちに離れられるのでわざわざ事を荒立てるのは辞めてほしい。と伝え、その言葉に医師はどうしたもんかと頭を悩ませつつ、だがそれ以上何を言うでもなく鼻血の処置だけをして出ていった。
そうして病室に一人きりになった太一は叔父と叔母が居ないことに安堵の息を吐いたあと、物思いに耽るようひたすら窓の外を眺めていた。
そしてその翌日。
どうやら発情期は終わったらしく特有のだるさも熱さもない事にホッと胸を撫で下ろしたのだったが、医師からここ最近の体調不良も昨夜の原因もオーバードーズ、いわゆる薬の過剰摂取のせいだと説明を受け、一週間ほど入院が必要だと言われた太一は病室に戻り一人ベッドの上でやはり窓の外を眺めていた。
昨夜、救急車で運ばれる際に付き添ってくれたのは、亮だと聞かされた。
太一の漏れ出すフェロモンにアルファの君は付き添いとして相応しくないと一度は断られたようだが、必死に、絶対耐えてみせます。お願いします。友人なんです。と降りしきる雨のなか懇願する亮に救急隊員が折れたのか、乗りなさい。と亮を付添人として認めてくれたのだという。
その事に窓から見える空と同じく心を曇らせた太一はぎゅっと拳を握り、唇を噛み締めた。
夜に突然来て、そのくせろくなことも言えず倒れて、救急車呼ばせて、何やってんだ俺。……最悪の誕生日にしちまった。
そう太一がやるせなさと自分の不甲斐なさと、それでも亮の優しさに堪らなく泣きそうになりながら俯いた、その時。
シャッ。と病室のカーテンが開く音がして、太一は顔をあげた。
そこに居たのは紛れもなく亮で、わざわざ朝一に見舞いに来てくれたのだと知った太一が呆けていれば、近付いてきたかと思うと亮にぐっと体を引っ張られた。
え、と思考が停止し、またしても呆ける太一。
けれども鼻を擽るのは大好きな亮の匂いで、そして、じわじわと亮の体温が体に移ってくる事に、抱き締められている。とようやく気付いた太一が、りょ、りょう、と慌てて声をあげたが、その声を遮るよう、
「……お願いだから、自分をもっと大事にして」
とひどく切なく震えた声で亮が呟いたので、太一はヒュッと息を飲んだ。
抱き締めてくる亮の腕が痛くて、でもそこからひしひしと亮の気持ちが伝わり、ぐっと歯を噛み締めた太一は、……泣く権利なんてない。と心のなかで呟き、目の前で友人が倒れた所を見せられた亮の心情を思えば本当に申し訳なく、そして自分が軽率に取った行動が亮に一生の傷を与えるところだった。と唇の端をひしゃげながら、
「……ごめんなさい」
とまるで叱られた幼子が親に謝るような拙さで呟けば、……うん。だなんて亮が返事をし、またしてもぎゅっと抱き締めてくる。
その腕の温かさに、本当に馬鹿な事をした。と項垂れながらもこうして心配してもらえて、抱き締めてもらえる事が嬉しくて嬉しくて、そんな風に考えてしまう自分の卑しさにもう一度ごめんと呟いた太一にようやく亮が腕を離し、
「約束して。もう無闇に薬を飲んだりしないって、本当にお願いだから約束して」
と真っ直ぐ目を見つめてきた。
いつも穏やかな海のように柔らかく揺らいでいる亮の美しい瞳が赤く腫れぼったく見えて、泣かせてしまったのだろうか。と表情を歪ませた太一が、
「……本当に、ごめん。もう、しない」
と誓えばようやく亮が強張らせていた顔をふっと和らげ、それでも未だに泣きそうな顔で笑ったので、太一はどうしようもないほどの恋を募らせたまま、きっと同じように泣きそうな顔をしているだろうと自覚しながらもぎこちなく笑い返した。
「ほんっとうに心臓止まるかと思ったんだからね」
「……うん、ごめん」
「……謝らせたい訳じゃないんだけど、もうしないで」
「うん、ごめん」
壊れたレコードのようにごめんを繰り返す太一に、ようやく落ち着き隣に腰かけている亮がボリボリと頭を掻く。
責めたい訳でも、ごめんという言葉が聞きたい訳でもないのだけれど、しかし今口を開けばあの時の事を責めるような事しか言えず、だが太一だとて別に死にたくてやった訳ではない事ぐらい、亮も分かっていた。
そして、普通の生活を送りたいという想いで薬を飲むオメガ性の生き方と危うさをようやく痛切に理解した亮は、自分が今までどれだけぬくぬくと平和でなんの特性も持たず幸せに生きてきたのかを知り、目の前で一生懸命自分の運命と生きている太一を見ては、眩しげに目を細めた。
だからこそ亮は、こんな自分が何かを言える立場じゃないよな。と目を伏せ、そうだ。と今度は表情を綻ばせて太一を見た。
「これ、開けていい?」
そう言いながらポケットから取り出したのは昨夜太一から貰ったプレゼントで、あ、うん。とどことなく気まずそうにしながらも返事をした太一に、もう怒ってないから。と亮は苦笑し、それから小さな包装紙に包まれたそのプレゼントを慎重に開け、そして中身を見た亮は一度瞬きをしてから、……これ、と呟いた。
そんな亮の驚いた表情を見た太一が今日初めて嬉しそうに笑い、
「亮が俺にくれたストラップに似てるだろ。なんかいいのないかなって雑貨屋行った時にたまたま見つけてさ。亮のイメージがなんとなく黄色っていうか茶色っていうか、この色だったから、琥珀色の石が付いてるやつにした」
と得意気に話す太一。
その言葉に、掌の上にそのストラップを袋から落とした亮が嬉しそうに笑い、綺麗な色だね。と囁く。
キラリと輝く深い琥珀色の石が付いたストラップ。
その形は本当に以前亮が太一にあげたストラップそっくりで、まるで色違いのようなそのストラップを眺める亮に、まぁ亮の携帯にはストラップ付けるとこねぇから迷ったんだけど、と少々バツが悪そうに太一が呟いたが、
「……凄く凄く凄く嬉しい。ありがとう。……勿体なさすぎて使えないや。鞄に付けて取れて無くしたりしたら絶対嫌だから家のショーケースに飾る」
なんて亮が本当に嬉しそうにしているので、その言葉が多分本心なのだろうと感じ取った太一が、大げさすぎだろ。使えよ。といいながらも、へへっと嬉しそうに笑った。
「……ていうか亮、学校、」
「え?」
「休ませてごめん」
「……何言ってんの。俺が勝手に休んだだけだから太一が謝る事じゃないよ」
「いや、でも……」
「今度ごめんって言ったらデコピンね」
「いやなんでだよ」
そう二人で笑い合う穏やかな空気が病室に漂い、それから未だ嬉しそうにストラップを眺めている亮の横顔を見ながら太一は、……本当にいつも亮に救われてんなぁ。と心のなかで呟き、それから小さく目を伏せた。
その瞬間、ポツ、ポツ。と窓に雨粒が当たる音がして窓の外を見れば降りだした雨が窓ガラスに幾つもの線を作りながら流れていくのが見えて、ああ、梅雨だ。と実感するその雨が共に過ごせる時間はあと僅かだと嘆く自分の醜い心のように思えた太一は、……何考えてんだか。と人知れずぎゅっと拳を握りしめ、亮を盗み見る。
だが亮はプレゼントに浮かれているのかそんな太一の心情を探れず、ストラップをかざしては眺めたり、小さく揺らして美しい琥珀色が揺蕩うのを嬉しそうにしては何度もありがとうと言うばかりで、その純粋な笑顔に太一はぎこちない笑みを浮かべるので精一杯だった。
カチ、カチ。と進む病室に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに響いているような気がした。
to be continued……
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