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打ち上がる花火を二人でなぜか手を繋いだまま見上げた、夜。
それから花火がしだれ柳のように美しく闇に散ったあとこちらを向いた亮が、
「綺麗だったね」
なんて微笑むので、太一は途端夜に紛れる亮の顔が見えない。と近付いてしまいそうになる体を慌てて抑え、そうだな。と目を伏せ手を離した。
そんな太一に、離された手を一度ちらりと見た亮がそれでもにっこりと笑い、戻ろうか。と声をかける。
その声にこくんと小さく頷いた太一は、歩き出した亮の後ろ姿を眺めながら、……これ以上は駄目だ。と俯き、唇を噛み締めた。
……魂の番いのせいで、きっと少しお互いおかしかったんだ。
そうドクドクと鳴る心臓を抑えながら、夏の夜の花火のせいだ。とさきほどの夢の中めいたふわふわとした情景を思い出し、睫毛の先を震わせる太一。
未だコオロギの鳴く声が絶えず林の中から響いてくる。
その道を歩く目の前の亮の背中が近いようで遠く、太一はなんだか泣きたいような叫びたいような良く分からない焦燥に駆られたまま、けれども何一つ言葉を紡げないまま亮の後ろをとぼとぼと着いていった。
あのあと皆の所に戻ってみれば亮の言った通り未だに真剣に型抜きをしている団子のような三人が居て、いや明さんもかよ。となんだか張り詰めてしまっていた息を吐いて笑った太一を亮が横目で見ていた夏休みが終わり、新学期が始まった学校は迫る修学旅行の話題で持ちきりだった。
「あ、太一来た! なぁなぁ、夜抜け出してここに蟹食いに行こうぜ!」
朝の挨拶も抜きに、教室に入ってきた太一を見るなりそう言った龍之介が北海道の旅行ツアーブックを開き見せてくる。
珍しく早く学校に来ている龍之介に笑いつつ、なんとか一年の時から積み立てていたお陰で修学旅行に行けるからと太一も浮き足だったままそのページを覗き込んだ。
人生で、初めての旅行だった。
「ここどこ」
顔を寄せ合い、太一の机の上で雑誌を広げる二人に、教室に入ってきた亘がおっす。なんて言いながら後ろから一緒に覗き込み、二人の肩に手を乗せる。
龍之介とは肩が触れていて、背中には亘の体温。
そんな暑苦しいほど近い距離が嫌とは思わず、けれど当たり前にドキドキなんてする訳はなくて、
「待って、亘お前なんか汗臭いんだけど」
なんて言った龍之介に、太一はそれな。と声をあげて笑った。
「龍之介も頭くっせぇから!」
「それは昨日風呂入ってないから仕方ねぇだろ!」
「俺だって昨日風呂入ってないから仕方ねぇんだよ!」
「いや仕方なくねぇから! お前らどっちも汚すぎ!」
ギャハギャハと響く、三人の笑い声。
そのいかにも高校生らしい喧騒に、教室へと入ってきた優吾と亮が、やっぱあいつらだったわ。廊下まで聞こえてんだけど。と笑い、しかしその輪に加わってゆく。
更に煩くなったその濁流めいた笑い声のなか、亮が太一を見ては、おはよう。と目尻を弛めて笑い、その顔がなぜだか最近直視できず太一は小さく俯き、けれどもおはよう。と返した。
そんな太一に亮は首を傾げたが、
「そういえば朝さ、セミ見たんだよなぁ。こうやってさ、木にしがみついてて」
なんて自分を木に見立ててしがみついてきた亘によってその思考は奪われ、季節外れすぎね? なんて言いながらセミの真似をする亘に、いや待って汗臭すぎお前。びっくりした。近寄らないで。なんて亮は亘の顔と体を手で押し退けたのだった。
そうして迎えた、九月。
修学旅行はもう目前で、けれど太一は嫌な予感にすっかり秋らしくなった屋上の背もたれにくたりともたれながら、空を見ていた。
なんだか体調が宜しくなく、意識もボーッとしてしまう。それはまさに発情期になる前の倦怠感で、昼食のパンをもそもそと口に運びながら修学旅行にぶち当たったら最悪だ。なんて考えていれば、
「……大丈夫?」
と顔を覗き込んできた亮。
その顔の近さにビクッと身を震わせた太一が途端に顔を赤らめ、だ、大丈夫、と視線を逸らしたが、その太一から強烈な甘い匂いがして、亮は思わず息を飲み後ずさった。
遠くの方では、亘と龍之介が授業中せっせと作っていた自作の凧で遊んでいて、その横で優吾が、すごい、すごい! なんて思いの外高く上がる凧に興奮している。
明は委員会があるらしく、今日はお昼は来れないと龍之介に連絡があったらしい。
なので突然ぶわりと香りが強くなった太一の異変に気付いたのは亮だけで、けれどもそのまま居れば龍之介どころか亘と優吾にも分かってしまうだろうその甘いフェロモンの匂いに亮は堪らず顔を逸らしながら、
「……太一、今日はもうそのまま帰った方がいいよ」
なんて呟いては、とりあえずと自分のブレザーをばさりと被せた。
「わっ、ぶ、なに、」
「ほんとは一緒に帰ってあげたいけど、今俺太一の隣には居られない。ごめん。でも一人で帰るのは駄目だから、今車呼ぶね」
そう太一の困惑など拾わないとばかりに喋り携帯を取り出した亮が電話を掛け、呆気に取られている太一を他所に用件だけを伝えて電話を切れば、太一は眉を下げ、確かにもう帰った方が良いのかもしれない。なんて思ったが、
「……別に一人でも帰れる……」
と、そこまでしてもらわなくても平気だから。と呟く。
しかしその言葉は、何言ってんの? この状態で? と二人分ほどの距離をあけて見つめてくる亮によって呆気なく却下され、
「裏門で待ってて。鞄は俺が持ってくるから」
なんて押し切られる形で太一は屋上を後にした。
そうして亮は、フェロモンに当てられぐらつく思考をなんとか耐え忍び、何度か深呼吸をし精神統一をしてから未だに隅の方でわいわいと騒いでいる龍之介達を見た。
空高くあがる凧につられ屋上の柵ギリギリの所で背伸びをしている龍之介と、そんな龍之介を後ろから必死に支えている亘。
優吾は相変わらず傍観を決め込みゲラゲラと笑っている。
そんなバカらしい三人にようやくふっと小さく笑みを浮かべた亮は、よし。と意気込んでから屋上を出て、太一の鞄を取るべく教室へと向かった。
あのフェロモンなら何人かには気付かれてしまうかもしれない。だから一緒に居た方が良かったのは百も承知だが、むしろ自分と一緒に居る方が危険かもしれないから。となけなしの理性をなんとか繋ぎ止めた自分を褒めてやりながら、ブレザーが少しでも抑止力になれば。なんて思いつつ亮は教室に入ってすぐ太一の机から鞄を取ったが、その時不用心に開いている鞄の中の、これまた無用心にチャックが全開になっている小さなポーチから薬の袋が見え、少しだけ眉を下げた。
発情期を抑える薬があるというのは知識として知っているし、その薬代の為に太一が汗水垂らして必死に働いているのも勿論知っている。
だがその薬自体を目にしたのは初めてで、なんと表して良いのか分からない気持ちになった亮は小さく眉を下げたままそれでもかぶりを振り、とりあえず裏門に向かおう。と教室を出た。
ガヤガヤと煩い校舎を抜け、太一の鞄を抱えて裏門へと向かえば塀の側で踞り自分のブレザーを肩から掛けている太一が居て、けれどもふわりと香る甘い匂いは大分穏やかになっている気がし、ホッと胸を撫でおろした亮が、
「お待たせ。他の人になんかされなかった?」
と声を掛け隣に並ぼうとしたが、パッと顔をあげ太一が亮を認識した途端またしてもぶわりと強くなる匂いに、亮は思わず目を見開かせた。
……え、
なんて焦る亮を他所に、
「なんもされる訳ねぇじゃん……お前は心配性すぎなんだって」
と俯き、それでも目尻をぽわりと染めて、……ありがとな。なんて呟く太一。
その太一から毛穴が開いてしまいそうなほど甘い匂いがずっとしていて、ぐらぐらと茹だるような熱にハッと息を乱し、ちょっとこれはヤバいかもしれない。と亮が顔を歪める。
そんな亮の心情などやはり何一つ知らぬ太一が亮の手から自分の鞄を受け取り、ありがとな、ってなんだよその顔。なんてケラケラと笑うので、亮はもう無意識に近く太一へと手を伸ばした。
心臓を高鳴らせ、衝動のままに腕を掴みかけた、その瞬間。
キキッ。と車が停まる音がし、ハッとした亮が音がした方を見れば運転手である斎藤さんがこちらを見てニコニコとしていて、亮はまたしても息を乱し呆然としたあと、自身の伸ばしかけた掌を見た。
いま、なにを。
そう顔を青ざめる亮に、さすがに亮の様子がおかしいと気付いた太一が、どうしたんだよ。と立ち上がり、それでも必然的に下から亮を覗き込む。
その真っ直ぐ見つめてくる美しくて綺麗な瞳を見つめ返せる訳もなく、けれど自然体を装い笑いながら、なんでもないよ。と取り繕った亮は、ほら早く乗って。と太一を促した。
「え、でも、」
「いいから。早く」
ばっさりと言い切る亮の得も言えぬ雰囲気に少しだけ怖じ気づき困惑したまま、じゃ、じゃあ、と促されるまま車に乗り込む太一。
そんな太一に心のなかでごめんと謝りながら、亮は、
「じゃあ斎藤さん、この間の家まで送ってあげてもらってもいいですか?」
と斎藤さんに声をかけ、斎藤さんはかしこまりました。と優しく笑った。
「じゃあまたね、太一」
「……う、うん」
ぎこちなく返事をする太一に笑顔のまま、それでもしっかり表情を見ることなくヒラヒラと手を振って扉を閉める。
そしてほどなくして発進した車を見送ったあと、亮はへなへなと座り込み、ほんとやばいなぁ……。と掌で顔を覆った。
項垂れる亮の短い襟足とうなじを、すっかり秋になった風が撫でてゆく。
未だ動かない亮の後ろでは、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴っていた。
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