ピピピッと鳴る目覚まし時計の音に、ぶら下がる裸電球の紐と天井の木目を見つめた太一は寝ぼけ眼を擦りつつ、のそりと身を起こした。

 大気は濃密な熱を孕みじとりと肌を濡らしていて、窓から見える外は未だ深い夜を湛えている。
 それでも一度伸びをした太一は夜中の三時を指したままけたたましく鳴る目覚まし時計を消し、薄い煎餅布団から這い出て埃臭い部屋のなかを電気も点けずぺたぺたと歩いた。
 乱雑に物が重なるその部屋のなか、ひび割れた小さなタンスからTシャツを取り出し着替えた太一が、ボリボリと頭を掻いてそのまま立て付けの悪い引き戸を引く。

 ぼろぼろのサンダルに足を通して部屋を後にし、今しがた出てきた小さな物置小屋の横にある水道の蛇口を捻った太一。
 そこで顔と歯を洗った太一はそれから音を立てぬよう小さく小さく歩いたが、砂利道はそんな太一の配慮を嘲笑うかのように踏み鳴り、それでも森さえ寝静まる今の時間帯は部屋の中よりも外の方が格段に涼しく、ぐるりと家の周りを囲う木々から蝉の羽音が響いては鼓膜を揺らしていった。

 ……たったの七日間を生きるために命を奮って鳴くというのは、一体どういう気持ちなのだろう。

 その声を聞く度に太一はそう思うが、伝達信号によって動いているとされている彼らは何のために生まれ何のために死にゆくのかなんて到底知らぬ事であったし、やはりいくら考えども考えども、答えは出てこなかった。
 そんな事をぼんやりと考えながら家の大きな門をくぐり道路に出た太一は、暗い道を歩きそれから程なくして小さな裸電球に照らされた新聞社へと入っていった。


 インクの匂いと、蛍光灯の眩しさ。

 それが馴染みの毎日となったのは、ちょうど一年前からで。太一は先に来ていた折り込みチラシを差し込むためのスタッフや、他の配達スタッフ達にぺこりと頭を下げ、壁に立て掛けてある昔ながらのタイムレコーダーに自分の名前が書かれている紙をぶっ刺し、ガシャンッと出勤時刻を刻んだ。
 それから担当地区分の出来立てほやほやの朝刊を受け取った太一は、錆びてキィキィと音のする自転車の荷台に新聞をくくりつけ、朝とも呼べぬ時間帯の街の中を自転車で走り始めた。

 同じように数台の自転車がライトを揺らしながら夜に溶け、それが高い空から見れば暗闇に散らばる蛍のように美しいという事を勿論太一は知らず、寝静まる街の息を裂くよう錆びて重たいペダルを漕ぎ、一軒一軒ポストに新聞を配っていった。


 ──それから約、二時間後。
 どこかしらの木々から絶えず蝉の声が纏いつき、その声に小さく唇を噛んだ太一は額から汗を流しながら、最後の家のこじゃれたポストに朝刊をさした。
 高い高い塀と柵の向こうに続く道は、長く。
 その向こうにはお屋敷と呼ぶに相応しい大きな建物があり、蔓が美しく伸びるその柵の向こうの家を太一はぼんやりと眺めた。
 一体どんな奴らが住んでいるんだろう。そう毎度考え住人を想像してみるのだが、産まれながらにして住む世界が違いすぎる人種を想像ですら描けず、太一は小さく目を伏せ来た道を戻っていった。

 それから太一は自転車を漕ぎながら目を細め、暑いな。と顎から垂れる汗を拭い新聞社に戻った。
 錆びた自転車を元に戻し、来た時と同じよう小さく会釈をしては、ガシャンッと退勤時刻を刻む。
 しかしその横のホワイトボードに、『来週は出れません。すみません。坂本太一』とメモを書き残した太一。
 そのメモを見た人達の、まただよ。なんでこんな奴辞めさせないんだ。はしたない。という視線も声も背中にひしひしと感じたまま、それでも太一は踵を返し、もう一度小さく会釈をして足早に新聞社をあとにした。
 けれども太一は来た方向とは正反対の道へと足を向け、少し行った先の、あまり人も寄り付かないような寂れた小高い展望台の階段を駆け上っていった。



 三階建ての展望台の、一番上。

 ぐるり。と景色を見渡せば美しい山々と、静かな街並みが広がっている。
 それを手摺に凭れ眺めた太一は、真横から真っ赤な朝陽が顔を出し、きらりきらりと朝露に濡れ輝き出す街の、息を吹き返した花のごとく美しい景色をひっそりと眺めた。

 一日で唯一、太一はこの時間が好きだった。

 こんな自分でも生まれ変われるような、身体中の細胞が作り替えられリセットされるような、そんな生命力と、清々しさ。
 春の穏やかさも、夏の暑さも、秋の寂しさも、冬の冷たさも、この場所のこの時間帯だけは、優しく包み込んでくれている気がした。
 しかし夏の暑さが嵩を増し、道路の上に蜃気楼を作っていて、その陰りを眺めた太一は耳に響く蝉の声に、ぎゅっと拳を握った。
 それでもまるであの日と重ねるよう、太一を記憶の淵に沈めてゆく、蝉の声。
 ……あの日は茹だるような暑さで、受話器越しの誰かの声が遠退いていく代わりに、蝉の声が耳の奥でずっとこだましていたのを今でも覚えている。と目を伏せた太一。

 それは、自分の世界が壊れた瞬間。母が、唯一の肉親が死んだと聞かされた、瞬間だった。




***



 あの日太一は中学校から帰ったばかりで、狭いアパートの一室の六畳間に鞄を投げ、靴下を脱ぎ、扇風機の前で一人しょうもなく宇宙人の真似をしていた。
 そんな時電話が鳴り、何の気なしに出たその電話は病院からで、その時、ぽたりと顎先から汗が垂れた不快感も、窓越しの蝉の声も、目の前の木の木目も、今でも太一は鮮明に覚えている。

 まるで現実味がなく、裸足のまま靴を履き、足を縺れさせてやっと辿り着いた病院。
 その霊安室で見た顔は紛れもなく母で、太一はその顔を黙って見つめていた。
 母は仕事中突然倒れ、そのまま病院に緊急搬送されたが、もう手遅れだったと聞かされた。

 なぜだか、涙は出なかった。

 それから太一は初めて会う母方の遠い親戚に引き取られる事になり、葬儀をしない代わりに。と嫌々ながらも母の遺影を作ってくれた親戚に、頭を下げた。
 その時も、太一はうんともすんとも言わず、ただただ黙って俯いていた。

 そうして親戚の家に引っ越しをする事が目の前に迫った、ある日の夜。
 母子二人で住んでいたボロいアパートの、すっかり物がなくなった部屋のなか、太一は小さなひび割れたタンスの上に飾られていた若かりし頃の母と、太一が産まれた直後に交通事故で他界してしまった父が仲睦まじく寄り添っている写真を、手に取った。

 その写真は出会った頃の二人の時の写真で、どちらも学生服を着ていて。
 母はいつもその写真を愛しげに眺めては父との思い出を話してくれ、それは宝箱のなかの宝石をそっと見せてくれるようなドキドキにも似た優しさだった。
 それなので太一は父が居なくても父の事を尊敬していたし、愛していた。
 将来、父と母のような幸せな結婚をしたいと思っていた。
 だがしかし、そんな太一の幼く淡い想いが打ち砕かれたのは、小学三年生の時だった。

 人類は男女性に加え、アルファ、ベータ、オメガの三種類に分類されるというのは知っていたが、アルファのことも、オメガの事も良く理解しておらず、けれども太一は自分はベータで普通の人間なんだと思っていた。
 それが三年生になると受けさせられる一斉検査により、太一は自分の性がオメガである事を知った。
 けれど、未だオメガだというのがどういうものか分からず、まぁ何でもいいか。と太一は思っていた。

 ──しかし、周りの目は一変した。

 友人だと思っていた、昨日までは明日何して遊ぶ? だなんて話していた奴等から、オメガだと診断された瞬間、オメガってフェロモンっていうの出して誰彼構わず誘うらしいよ。とませた子供たちに蔑まれ、あっち行けよ変態。と突き飛ばされた。
 なぜそう言われるのか分からなくて、悲しくて悔しくて、泣きながら家に帰った太一の話を聞いた母は太一を抱き締め、泣いた。

 言わなくてごめんね、母さんも、オメガなの。

 そう溢した母の言葉に、どうしてごめんなの。と聞いた太一。
 そんな太一の無垢な瞳に母はとても悲しい顔で、オメガの人の性質と今までの歴史、発情期や番いの事などを教えてくれ、太一は唖然とした。
 そんな事があるのか。と青ざめる太一に、それでも母は、だからこそ母さんはアルファだった父さんと出逢えた事を、とても嬉しく思ってる。と優しく、本当に優しく笑って太一の頬を撫でてくれた。
 その言葉があったから、太一は学校で始まったいじめにも耐え、オメガであるというだけで謂れのない言葉を投げつけられても、母が居てくれればそれだけで平気だった。

 胸を張って、生きていられた。

 中学に上がる頃に初めての発情期を迎え、自分が自分じゃなくなる怖さも、未知の疼きも、留まることのない性欲の強さにも怖いと泣きじゃくる太一の背を、体を抱いてくれた母。
 母に、欲にまみれ精液でどろどろになっている姿を見られる事がひどく恥ずかしく、消えたいと思った太一だったが、それでも母にしかすがれず、辛い。苦しい。と泣きながら地獄のような一週間を過ごした。

 それから連れて行かれた産婦人科から、オメガの発情を抑制出来る薬があると聞かされ、そのリスクをしっかりと聞いた上で太一は薬を飲む事を希望した。
 幸い太一の体質に薬は効き、一日目と二日目以外は自慰行為をせずともなんとか我慢できるほどに効果があった。
 けれども、やはり発情期の間は学校を休まざるを得ず、そのせいで遅れた授業の内容を、やはり母は一緒に勉強してくれた。


 そんな、太一にとって全てだった、母。
 その母の死因を調べた医者には、働きすぎと抑制薬の多量摂取が原因の、過労死だろうと言われた。
 母は、抑制薬があまり効かないタイプだったらしい。それでも太一にはそんな姿を見られたくないと無理やり規定以上の薬を飲んでいたらしく、二人分の薬代を稼ぐ為、そして生きていく為に働きづめになっていった母。
 それでもそんな辛さを一切見せず、あの日も、朝、普通に優しく笑って学校へと向かう太一を見送ってくれた。

 ……そんな、優しくて強くて清廉で、いつも救ってくれた、いつも自分の事だけを考えてくれた唯一の光だった母は、もう居ない。
 どこを探しても、この世に存在しない。

 そう思った時初めて、太一は泣いた。

 ぼたぼたとこぼれ落ちる涙が手にしていた父と母の写真に落ち、ひりつく喉から嗚咽を溢れさせ、太一は泣きじゃくった。
 何も知らず母に甘えきっていた自分のふがいなさと、オメガの生と、この世界の理不尽さに世界を恨みながら一晩中泣いた太一は、その日、生きながらにして死んだ。



 ──そんな一年前の記憶を思い出した太一は展望台で小さく鼻を啜り、朝焼けに染まる太一の美しく長い睫毛は震えていたが、それでも涙は溢さなかった。

 それから展望台の上にある時計を見た太一は時刻が朝の六時を指している事に慌て、階段を駆け下り、親戚の家への道をひた走った。




 

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