その後 3
「……」
カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てているノア。
その愛らしい姿をじっと見つめたまま、だがしかしシュナは何とも言えぬ表情をしていた。
それは、ノアの“匂い“に対してであり、シュナはやはり不可解だと眉間に皺を寄せては、小さな溜め息を吐いた。
──ノアからミルクのような香りがするとシュナが言ってから、もう三日。
あの時ノアは牛乳を浴びてしまったからだと言っていたが、しかし三日経っても変わらずノアの桃の匂いの中に、甘く柔らかなミルクの香りが微かに混じっている。
番いになった際にそのパートナーの匂いが混じり変わるものの、それから更に匂いが変わるなんて聞いた事がなく、しかし確かに桃の華やかで甘い香りの下に微かに漂うミルクの匂いを感じており、その不可思議な匂いの変化にシュナは、隣でぐっすりと寝ているノアを見下ろしていた。
……まさか、でも、いやまさかな……。
だなんて淡い期待と現実が交互に押し寄せ、だがそれとなくリカードやウォルに聞いてみた時もやはり妊娠しても特にロアンとテアの匂いに変化はなかったと言われただけである。
それにやはりそうだよなと思いながらも数日悶々としつつ、しかしシュナはノアには言わない方が良いだろうと結論付けており、そっと眠っているノアの髪の毛を撫でた。
「……ん、ぅ」
小さく声を漏らし、意識もないくせそれでも気持ち良さそうにふにゃりと微笑むノア。
それがとても可愛らしく、そして嬉しく、シュナはつられるよう、ふにゃりと頬を弛めた。
ノアをこの群れに連れて来たばかりの頃は、昔のゴミ溜めのような群れに居た時の夢を時折見たのか、夜中に飛び起きて怯えていた姿を今でもシュナは鮮明に覚えている。
その度にひたすら背中を擦り、あやし、再び眠るまでずっと大丈夫だと安心させていたシュナは、そうして守り安らぎを与えることも信頼されている気がして嬉しかったが、今こうしてすやすやとただ幸せそうに寝ている姿を見ることが何より幸せだと、ノアの柔らかな頬に一度唇を寄せ、それから考えを頭の片隅に押しやり、眠りについた。
──そうして迎えた、翌る朝。
鳥の鳴く声に目を覚ました二人はベッドの中でしばらく抱き合いゆったりとした朝を過ごしたあと、朝食を食べに向かった。
そして群れの皆と仲良く朝食を食べ、それから小屋へと戻った二人はどこか緊張した面持ちで、互いを見ていた。
「……じゃあ、ちょっと行ってきます」
「あぁ」
硬い声でそう言ったノアの手には、棚から取り出した簡易妊娠検査薬が握られている。
今回も残念ながら妊娠の兆候はないが、ヒートから一ヶ月経った後は必ずこうして検査をすることをもう習慣化としていて、川の側にあるトイレで検査をしてくると告げたノアが緊張と不安で瞳をしばたたかせるのを見たシュナは、その細い体を抱き寄せそっと額にキスをした。
「愛してる」
「……はい」
シュナも本当は一緒に着いて行きたいのだが、いつからか小屋で待っていてくださいと言われるようになり、今ではすっかりお留守番をさせられていて。
それがやはり腑に落ちず、ノアの仕草が移ったのかむくれ唇を突きだしながら、それでも何時ものよう愛してるしか言えないのだとシュナが呟けば、ノアはシュナの頬を両手で挟んで困ったよう笑った。
「すぐ戻ってきますから」
まるでわがままを言う子どもをあやすような口振りで微笑むノアに未だへにゃりと口の端を歪めたまま、しかしすりっと鼻先を擦り合わせたシュナは、やはりノアの桃の香りのなかに微かなミルクの匂いを感じ、平常心を装いつつノアを送り出した。
カチッ、カチッ。と響く、時計の音。
それだけがノアが出て行ったあとの静かな小屋に響き、椅子に座っているシュナは貧乏揺すりを抑えられずガタガタと床板を踏み鳴らしては、机に肘を付いて祈るように手を握っていた。
ぐるぐると頭のなかを巡る、様々な想い。
その深い迷宮の思考の中にシュナが陥っていれば、ガチャリとドアノブが回り、キィッ……。と小さく小屋の扉が開く音が響いた。
その音に弾かれるよう心臓をうるさいほど鳴らしながら顔を上げたシュナの、視線の先。
そこには、目尻を赤く染めながら悔しそうに、それでもシュナに心配かけまいと健気に微笑んでいるノアが居て。
その痛々しい姿にシュナは息を飲み、それから慌てて立ち上がってノアの側へと駆けては、しっかりとノアを抱き締めた。
「っ、大丈夫、大丈夫だ、ノア。大丈夫」
……何が大丈夫だ。と心のなかで自身の言葉を呪いながらも、シュナがノアの体を掻き抱いては鼻先を髪の毛へ埋める。
抱き締めた体から香る、悲しみに浸った匂い。
それが胸を締め付け、シュナは淡い期待が呆気なく現実に打ち砕かれた事を知りつつも、自分よりもきっとノアの方が悲しいだろう。と必死にノアの背中を撫でた。
こつん、と肩に乗る、ノアの顔。
その瞬間すぐに肩口がじわりと濡れ始め、小さく鼻を啜る音が響き、シュナは何も言ってやれない己のふがいなさに唇を噛み締めつつ、震えるノアの体を抱き締め続けた。
「っ、ひ、ぅ……、うぅ、」
細く儚げで、息が詰まるほど悲しい声でポロポロと涙を流すノアの、しゃくりあげる度に揺れる薄い肩。
その悲痛さが明るい光に包まれる小屋の中で妙に浮き彫りになり、その声をシュナはただ歯を食い縛ってはひたすらに聞き続け、それでもお互いの胸に刺さる痛みを和らげようと、何度も何度もノアの髪の毛に鼻先を押し付けた。
窓から差し込む、五月の陽気な陽射し。
それがこの時ばかりは場違いのように、けれども燦々と降り注いでは、寄り添う二人を美しくキラキラと輝かせていた。
***
今回も子どもを授かる事が出来なかったと二人が嘆きながらも慰め合った日から、数日後。
二人は今、夜にひっそりと群れを抜け出しいつもの花畑へと来ていた。
毛布にくるまりながら、洞穴で寄り添い見上げる夜空。
星が瞬く空は美しく、ほぅ、ほぅ、と鳴く梟の声がこだまし、たおやかな月明かりが地上を優しく照らしている。
それがあまりにも綺麗で、シュナはノアを膝の上に乗せ後ろから抱いたまま、細い腰を更に抱き寄せた。
妊娠検査薬で検査した、あの日。
その日はもう一日中ずっとぼんやり遠くを眺めていたノアだったが、翌日、次のヒートの時に来てくれるのを願いましょう! だなんて潤んだ瞳ながらも意気込んで笑い、今では徐々に元気と微かな希望を取り戻しては何時もの明るさを見せてくれている。
辛いだろうに、どうしようもないことだと気丈に振る舞う姿は健気でもあり美しく気高くもあって。
そんなノアの薄い肩に顎を乗せ夜をただぼんやりと眺めていたシュナは、それでもやはり僅かにずっと香るミルクの匂いに、眉を潜めた。
……これは、子どもが欲しいと願いすぎて勝手に俺が自身の脳内で匂いを作り出しているのだろうか。
だなんて、自己嫌悪に陥りそうになったシュナが溜め息を吐いた、その時。
「明日、ですね」
とぽつり呟いたノア。
その声にハッとし、それから、……そうだな。とシュナはノアの体を引き寄せた。
五月に入ったとはいえ少しだけ肌寒い夜に、ノアのほかほかとした体温がぴったりと重なる。
明日ですね。と呟かれた声には少しだけ緊張が滲んでおり、今回も授かれなかったしやっぱり何か問題があるのかな…。だなんて言いたげなノアに、シュナは安心させるよう、そっとうなじに唇を寄せた。
「……愛してる」
明日の検査に不安定になり始めているノアの精神と匂いを落ち着かせる為のアルファフェロモンを出しつつ、やはりそれだけしか言えないと、愛してると呟くシュナ。
しかしそれが慰めになるのか、ノアは詰めていた息を小さく吐いたあとシュナの肩に頭を乗せ、腹の上に置かれていたシュナの指をぎゅっと握り込んだ。
「愛してます、シュナさん」
「うん」
「愛してます」
「俺も愛してる」
「ふふ、はい」
何度も期待をし、虚しく夢と消え、だがそれでも諦めないのは、未だそれでも幸せで望みを捨てないと笑えるのは、何より愛しているからだ。と、その気持ちを何度も伝え合う二人が静かに、穏やかに微笑む。
その姿を月がそっと優しく照らし、揺れる森の木々はそんな二人を温かく見守っているようだった。
──森のなかでゆっくりとした時間を過ごした、翌朝。
二人はやはりどこか緊張した様子で、朝早くから車に乗り込んでいた。
群れがいつも使う大きな車とは別の、もう一台ある普通の乗用車の中は先ほどシュナがつけた気晴らしのラジオから流れるBGMだけが響いている。
だがしかしシュナは不安げな顔で、何度も何度もノアをチラチラと見つめながら運転していた。
朝、起きた直後に気分が悪いと言って嘔吐してしまったノア。
その姿にシュナは驚き、慌ててノアの背中を擦っては大丈夫かと心配したが、ノアはぐったりとした様子で小さくコクンと涙目で頷くだけで。
『……多分、ストレスで……』
だなんて涙声で呟いたノアは、最近神経を尖らせ過ぎていたからかここ数日何回かひっそり吐いていたと明かし、だがシュナに心配かけまいと黙っていたらしかった。
ノアの体調があまり良くないとは分かっていたし、その度に大丈夫かと聞いていたが、吐くほど酷いとは知らなかったシュナが、何故黙っていたのだ。と心配で声を張り上げそうになったが、しかしそれをなんとか堪えて、言ってくれないと余計に心配する。とだけ伝えては優しくノアの背中を撫で続けていた朝。
それなので、今日はもうゆっくり休もうとシュナは提案したものの、行かないと余計にストレスで酷くなる。だなんて押し切られてしまえばどうしようもなく。
すぐに引き返しノアをベッドに寝かせて世話をしたい。とアルファ性が腹の中で不満げにグルグルと喉を鳴らし唸りを上げているのを自覚しながらも、シュナはそれを何とか耐え、せめてと極力振動を与えぬようにゆっくりと車を走らせていた。
だがしかしそんな配慮も凸凹とした山道では難しく、ノアは顔色を悪くさせぐったりとしていて。
そんな姿にシュナは眉を下げ情けない顔をしながらも、あと少しだからな。だなんて気休めにもならぬ言葉を吐いては、ぎゅっとハンドルを握り病院を目指した。
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