22

 

 ──ノアがオメガになり、早一ヶ月。

 だがしかしその一ヶ月の間で、シュナとノアの関係は今や大きく変わってしまっていた。

 いつも一緒に居ては寄り添っていた二人は今、二人きりになる事はおろか、皆で一緒に居る時でさえ、隣に座ることは無く。
 どちらもあからさまにぎこちなく、だがお互いに何も言わないままという、何とも言い難い空気が流れている。
 その違和感と緊張感がひっそりと群れを浸していて、しかし群れの皆はそんな二人の様子を悲しげに、だがそっと固唾を飲んでただ見守っているだけだった。



 もちろんシュナは何度か、何を話せば良いのか分からない中それでもノアと話をしようと試みたものの、ノアはどこか体を強張らせ、視線を逸らし、そそくさと逃げていくばかりで。
 そのあからさまな態度にシュナはいつもしょぼんと項垂れては、溜め息を吐くだけだった。


 そんなやるせない日々の中、どうにも眠れないとシュナは真夜中そっと小屋を抜け出し、川辺で一人ぼんやりと座り込んだ。

 色褪せくすんでいる、木々の葉。
 月明かりを反射し鈍く光る、川面。
 骨身が震えるほどの冷たさが、身体を悪戯に撫でていく。

 季節はいつしかもう冬に変わっており、木々の奥からは梟の声が聞こえ、だが静かなその空間にシュナはじっとゆらゆら揺れる水面を見ながら、ノアの事を想っていた。

 やはり、オメガになってから明らかにシュナを避けているノア。
 だがしかしそれは最近シュナも同じで、されどその理由は圧倒的に違うのだろうと、シュナは深い溜め息を吐いた。

 オメガとしてシュナを見た時に、恐ろしくなったのか。
 はたまた、兄として慕っていた人間からどんな目で見られているのか気付いてしまったのか。
 正確な事は分からないが、きっとそのどちらかの理由でノアは自分を避けているのだろう。

 そう思っているシュナが手にしていた物をゆるゆると指で無意識になぞりながら、小さく苦笑した。

 手にしているのは、何の意味もない、虚しいだけの物。

 それは、渡しも出来ないくせに無意識に作ってしまっていた、ノアへの想いを込めた贈り物で。金鶏の羽で作ったそのブローチは、滅多に見かけない幻の黄金の羽と極彩色の赤や緑を織り混ぜて作られており、シュナの手の中でキラキラと月夜の光を反射し光っている。

 それを眺めながらシュナは、ここ数日のノアのあからさまな態度にガリガリと頭を掻き、群れを去るべきだろうか。とすら考えていた。

 話をしようにも避けられ、目も合わず、シュナの大好きだったあの笑顔はここ最近滅多に見かけなくなっている。
 その原因が自分だと痛い程分かっているシュナは離れがたさに顔を歪ませたが、しかし、こんな風にぎくしゃくし続けてノアの笑顔を翳らせてしまうのならいっそ、俺が出ていくべきだろう。と項垂れた。

 群れを去る。

 それは生きてきて今まで一度も考えた事すら無かった事だが、それを失ってでもシュナはノアが何よりも大事だと心から言え、ノアにただ幸せでいて欲しいと、願っている。


 ──それは、まごうことなき愛でしかなく。

 シュナはノアを心から愛していると自覚しており、もちろんそれは家族や群れの仲間に対する敬愛とは違う、欲すら含んだ愛である。
 それは余りにもあっさりとした言葉であり、胸の内にある感情を表すにはおおよそ足らないが、そう表現する他ないシュナはまたしても小さく苦笑し、夜を見た。

 ノアは誰とでも仲良くなる事ができ、そして聡明でもあり人懐こく、何も自分が居なくてもこの群れでこれからも上手くやっていくだろう。

 想像に難くない未来はされどシュナの心をギシギシと痛ませ、しかしそんなシュナの心境とは裏腹に満月は恐ろしいほど綺麗で大きく、そして金色に輝いている。
 それはノアのあの愛しいふわふわの髪の毛と同じ色で、群れを去ると自身が告げた時もし少しでも悲しんでくれるのなら、この想いを最後に打ち明けて去ることを許してくれるだろうか。だなんてシュナは真っ暗な夜に浮かぶ月を見つめ、そんな事をぼんやりと思ってしまった。




***



 シュナが決断しがたい悩みに苛まれたまま、それからまた数日が過ぎた頃。

 ノアがオメガになったと聞きつけた隣の群れのアルファがこの群れに求愛しに来ると噂になっていて、シュナは夕食時離れた場所に座っているノアをちらりと見ながら、オメガになった事を後悔しなければ良いが。と心配げな表情を浮かべた。
 ここ最近は本当にノアと話す事すらなく、以前ならその背中を擦ってあやし、一回り小さな手を握って安心させてやる事が当たり前のように出来た筈なのに、それはもう随分と昔の事のようで。
 何も心配しなくても良い。求愛を受け入れたくなければ断っても何も問題はない。とそんな事すら伝えられない今の自身の不甲斐なさにシュナはやはり悲しげに、そっと人知れず唇を噛み締めていた。

 そうしてそれから幾ばくか日は流れ、シュナがようやく重たい腰をあげるよう、群れから出る。と決断しひっそりと小屋の整理を始め、必要最低限の荷物をまとめていた、そんなある日。


 噂通り隣の群れからノアに求愛するため、数人のベータを従え一人のアルファがやって来た。


 冬の晴れやかな午後の陽でキラキラと光る、ブロンドの長い髪と蒼い瞳が印象的な西洋人らしい見目をした、男。
 その男は前髪を後ろに流し、きらびやかな服に身を包んで、鋭い眼差しでシュナの群れをぐるりと見回している。
 長身でがっしりとした体躯の男は正しくアルファらしい出で立ちをしており、その匂いは獣のように鋭く猛々しく、シュナは鼻につくその臭いに顔をしかめつつも、だがしかしただそっと見守る他無かった。

 群れ全体が、ようこそと一応それらしく他の群れから来た数名に歓迎の意を示したが、しかしその男は群れに着いたと同時に、パックアルファに挨拶をする事すらなくノアとテアを見た。

 それからその男は値踏みするような視線で二人を爪先から頭の先まで眺め、それからノアの方へと歩いて行く。
 その行動は父であるパックアルファに対してあまりにも無礼で常識がなく、シュナはその男の喉仏を噛み千切ってやりたかったが、しかし、“求愛をしているアルファの邪魔は何人たりともしてはいけない“という掟に従い、グルル。と喉の奥を怒りで鳴らしながら、その男を睨み付けるだけだった。


 どうやら番いの居ないテアとノアを天秤に掛けノアを選んだらしいその軽薄すぎる思考や態度にも腸が煮え繰り返るに相応しく、あの男には求愛する資格がない。とシュナが心のなかで吐き捨て、自身を抑えるよう、腕組をする。
 そんな群れの緊張感など気にもしていない態度のその偉そうな男がノアの前に立ち見下ろせば、ノアが緊張から身を強張らせ、息を飲んだのが分かった。


「二人とも驚くほど綺麗だが、特にお前、お前は俺の番いに相応しい」

 男が満足げに吐き出した、言葉。

 それは賛辞とは到底呼べぬもので、同じよう息を飲み成り行きを眺めていた群れの皆が不快感を示すのを肌で感じたシュナは、もし勝手にあの男がノアに触れたら掟も何もかもかなぐり捨てあの男の喉を引き裂いてやる。と腰に下げているナイフに手を伸ばす。
 もはやいつ起爆装置が押されてもおかしくないと言うほど無礼極まりないその言動に、シュナが尚も射抜くような眼差しで男を見つめていれば、その男は懐をゴソゴソと漁り、ノアの前に求愛の贈り物を提示した。

「俺の群れに来ればもっと沢山の宝石をやろう」

 そう言う男の手のなかにあるのは燃えるような赤い色をしたルビーで、その大きさは勿論、輝きもあまりに美しく、とても上質な物だというのが一目で見て分かる。
 その美しさに本来なら驚きと興奮を覚えるかもしれないが、しかしその不遜さは宝石の価値をくすませ台無しにするばかりで、シュナは益々あの男を嫌いになりながら、ノアの返事を聞くため、耳を澄ませた。

「……えっと、」

 小さく上擦った声を出したあと、咳払いをしたノア。
 それは明らかに緊張しているようで、シュナが一気にその背を撫でてやりたい衝動に気持ちを変化させ唇を噛んだ、その瞬間。
 一度深く息を吸ったノアが、ゆっくりと口を開いた。

「俺はあなたの番いにはなりません。すみません」

 悲しげに、申し訳なさそうに眉を下げ小さく呟いたノアが、それでも頭を下げる。

 それにホッと胸を撫で下ろしたシュナとは対照的に、断られるとは微塵も思っていなかったのか、男が呆けたあと目を吊り上げ始めた。

「何故だ。宝石が気にくわないのか?」

 断罪するような口調で男がノアに問い質し、しかしノアはもう緊張していないのか、その男を真っ直ぐ見つめ返すだけだった。

「いいえ。その宝石はとても綺麗です」
「なら何故だ」

 理解できない。というように男が顔をしかめ、それから群れをぐるりと見回し、そしてシュナを見て片眉をピクリと揺らした。

 緊迫した空気が流れ、だがしかし一歩も引くことなくじっと射抜くような目で見つめ返してくるシュナに、男が気に食わないと言わんばかりに鼻を鳴らす。

「……それは、あそこで俺を睨んでいるあのアルファのせいか?」

 そう苛々とした口調で吐き捨て、シュナの方を顎で指す男。
 その男の仕草に視線の先を目で追ったノアは、シュナと目が合うと驚いたように目を見開き、それから唇を噛み締めて、俯いた。

 その姿はやはり、シュナを見るのが辛いと全身で訴えているようで。

 そんなノアの変化にシュナが悲しげに瞳を揺らしたが、だがノアは一度深呼吸をしたあと、しっかりと顔をあげ、男をやはり真っ直ぐな目で見つめ返した。

「……いいえ。これはあなたと俺との間の話です。誰も関係ありません。俺は、あなたの高圧的な態度もあなたの匂いも好きじゃありません。だからあなたの求愛は受けません。ただそれだけです」

 ハッキリと言い切ったノアの言葉が、しんとした空気を震わせる。
 怯むことなく男を見据えているノアの姿は誇り高く、発した言葉は自尊心に溢れ素晴らしくて、そして神々しさすら滲むその表情に今一度恋に落ちたかのよう、ヒュッと喉を鳴らしたシュナ。
 だがそんなノアの態度にしかし男は驚愕の表情を見せたあと、わなわなと怒りで唇を震わせ始め、それから冷たい侮蔑の色をちらつかせながらノアを見下ろした。

「……オメガごときが偉そうに」

 そう男が吐き捨てた、その瞬間。

 シュナは気付けばナイフを素早く握り、風よりも速く身を弾かせていた。



「──お前は誰かに求愛するに値しない」

 矢のように走り出したシュナがノアと男の間に割り込み、男の喉元にナイフを滑らせ、下から睨みあげる。

 その速さに群れの皆はおろか目の前の男ですら反応しきれなかったのか、喉元にナイフを突き付けられた男がひくっと表情を強張らせ、シュナを見つめた。

「……何の真似だ」
「何が」
「求愛の時にはいかなる邪魔も許されない筈だろう」
「ノアはハッキリと拒否を示した。その時点で求愛は終わっただろ。お前は今ただただ俺の仲間を侮辱している無礼なアルファでしかない」
「……」

 シュナの正論にぐうの音も出ず、男が黙り込む。
 バチバチと火花を散らし、睨み合う二人。

 その一触即発というような張り詰めた空気が群れを包み、ノアはというと庇われるようシュナに守られていて、シュナのその広い背中を見たあとノアはやはりへにゃりと口の端をひしゃげ、それからきつく噛み締めていた。


「今すぐ消えろ。それで許してやる」

 鋭く言い放ったシュナが、男を尚も睨み付ける。
 その力強さに男は自分とシュナの力量を推し量るよう数秒じっとシュナを見たあと、それから降伏するよう両手を上にあげ、一歩後退した。

「……まだ死にたくはない」

 至極嫌そうに、だが従うと言外に示した男にシュナが頷く。
 そしてそのまま男は番いにならぬのなら留まる意味がないとばかりに踵を返し離れて行き、取り巻きのベータ達がおろおろとしたままその男の後を着いていく。
 そんな二人のやり取りを固唾を飲んで見守っていた群れの皆は、男が嵐のようにやって来ては嵐のように去っていったのを見たあと、ようやく緊張の糸を解いたようだった。



 しんとした空気が群れを包み、森の木々がさわさわと揺れる音だけが静かに響いている。


 そんな中でシュナはナイフをナイフホルダーに収めたあと、ノアを振り返った。
 そして無意識に大丈夫かといつものようノアの腕を握り顔を覗き込もうとしたが、しかしノアはそれから逃れるようさっと身を翻し、走り去ってしまった。

 ……空中に浮いたままの、シュナの手。

 まさかここまでノアに拒絶されるとは思わず、シュナが呆然としていれば、そんなシュナに近寄ってきたアストルがそっと肩を抱いた。

「シュナ……」
「……」

 アストルの労りが滲む声に、シュナがようやく息をし、それから俯く。
 ぷらんと降ろされた腕はただただ空気を裂き物悲しく揺れるだけで、シュナは一度きつく目を閉じたあと、もう昔のようには戻れない事を痛感した。

「シュナ、ノアとちゃんと話した方が良いよ」
「……」

 怖がられると、拒絶されると分かっているというのに何の話をするのだ。と喉からでかかった言葉。

 だがそれをなんとか飲み込み、確かにどれだけ嫌われようとも、群れを去る事になろうとも、きちんと話をしないと。とシュナは自分を鼓舞しながら、小さく頷いた。




 

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