自分のために笑ってほしい財前君
「歩いてたら、いきなり足元に穴が開いて、どこかポーンと別の世界に行けたり、とか」
歩きながら、唐突につぶやく。もしそんなことが本当に起こったら面白いのに、なんて思いながら一人で小さく笑っていると、斜め後ろから、ポカと軽く叩かれる。
「一人でアホなこと言って笑うん、やめたがいいですよ。はたから見ると、ただの怪しい人なんで」
人が近くにいるとは思わなかったなー、と笑って言うと、歩きながら後ろから私の隣の位置に移動した財前は、少しは周り気にせぇや、と呆れたように眉を寄せる。眉をしかめた姿が実は好きな私は、また少し頬が緩んでしまう。いつも冷静なこの表情が、崩れる様を見るのは楽しい。しかも、それが私のことで、だなんて。
「ほんで、伊織さん、なんでそんなこと言ってたんすか。」
財前の表情について考えていたせいで、少し反応が遅れてしまう。無言の私を怪訝そうな顔で見る財前に、なんでもないよ、と軽く首を振ってから続ける。
「面白いかなって思って。別の世界に運命の人とか、いちゃうかもしれないし」
「白馬の王子様とか、夢見てる感じですか」
小ばかにしたような言い方に、わざと少し怒ったような口調で返す。
「お姫様願望くらい持ったっていいじゃんか。ふわふわのドレスとか、お姫様抱っことか、横向きに抱えられての乗馬とか、優雅なティーパーティー」
果たしてこれが所謂お姫様願望なのかは分からないけど、こういう生活には少し憧れる。でももし本当にこんな生活が日常になったら次は、お姫様じゃない生活に憧れを持つんだろう。遠いから焦がれる。憧れって、きっとそんな感じのものなんだと思う。
「ふわふわのドレスなんて着たら動きにくくてすぐ転ぶで、伊織さんは。それにドレスだけでも結構な重量やのにそれ抱えて歩く王子やなんて、きっと筋肉がっちがちやな。乗馬って結構揺れるから自分で手綱持たんと、酔ってえらいことなるで。伊織さん、乗り物に酔いやすいんやから」
財前は今みたいに、話し始めて少し経つと敬語がとれる。本人が気づいてるかどうか知らないけど。話し始めるときは敬語で、少し話したら敬語がとれて、で、次話すときは最初から敬語じゃなくなるかなと思うのに、次も話し始めるときは敬語に戻ってて。その距離を探るような近づき方は、四天宝寺の力技コミュニケーションに慣れた私には、なんだか新鮮だった。
「筋肉がっちがちで白馬の王子様か。うーん、こないだ会った財前の先輩とか、イメージに合うね」
財前の先輩ってことは、必然的に私の同級生になるとは思うんだけど、その人と直接の関わりはないので、そう呼んだ。別のクラスで委員会も違ったら、関わる機会なんてないに等しい。学年が違っても委員会が同じなら、財前みたいに話す機会が増えたりもするんだけど。
「こないだ会った先輩?」
誰やろ、と軽く上を見て考える。財前の目の前には、見えないけど、たくさんの先輩の顔が浮かんでいるんだろう。−−そんなに悩むくらい、筋肉がちがちの先輩がたくさんいるのかな。さすが運動部だ。男の先輩の知り合いは多い財前だけど、女の先輩と親しげに話しているのはあまり見たことがない。私が見たことがないだけで、本当はたくさん仲のいい先輩がいるのかもしれないけど。こないだ女の先輩と歩いとったなって誰かに言われたときに、一番に浮かぶ顔が私だったらいいのに、なんて。可愛い後輩への、軽い独占欲。
「もしかして、ゴミ捨て手伝ってくれようとした先輩?あの、頭丸めとる、体格のええ」
「そうそう。ゴミ箱を軽々と持ち上げたあの腕力と優しさ、まさにさっき話してて思い浮かんだ王子像」
クラスで出たごみをゴミ捨て場まで運ぶ途中に、渡り廊下で会った初対面のその人は、大変そうやな、ちょうどゴミ捨て場の方向に行くから、貸しや、って言って、掌を差し出した。思わず、ゴミじゃなくて手を乗せると、少しびっくりした顔をしてから、私が乗せてしまった手はそのままに、微笑んで反対の手を差し出したんだ。重いやろ、貸しって。−−今思い返しても、王子様だ。
思い出に浸っていると、顔崩れてんで、という冷たい声に、現実に引き戻される。
「崩れてるって、せめて緩んでるとか言ってよ」
「変な顔やっていう自覚はあるや」
ちょっと思い出し笑いだよ、というと、不機嫌を少しも隠さず、眉を寄せる。
「ゴミ持ち上げたんは、まあ師範やけど、結局ゴミ捨て場まで持って行ったん俺やんか」
ボソッと聞き取れるぎりぎりの声音。先輩二人を取られた気分なんだろうか。こんなこと言ったらたぶん怒るけど、可愛い。
「そうだね。あの人が持ち上げたすぐ後に財前すっとんで来たもんね」
「すっとんでなんて!−−そんなんやないわ、アホ」
少し声を荒げて、でもムキになるのもおかしいと思ったのか、すぐに元の調子に戻りため息まじりに言われる。
「渡り廊下で、なんや青春やらかしとる二人が両方知り合いやったから、少し驚いただけや」
「青春?」
財前の口から出るにしては珍しい言葉だな、と思っていると、私を横目でちらりと見てから前に視線を戻し話し出した。
「なんや、よう知らんけど、手ぇつないどったし」
そうやって改めて口に出されると恥ずかしいものがある。
「いや、あれはそうじゃなくて、手をつないでたというより、私が一方的に握ったというか」
そこまで言って、さらに財前の機嫌が悪くなったのを感じ、慌ててつけくわえる。
「いや、握ったていうのも違うな、あの、あの人が手を差し出したから、そこに私が手を置いたっていうか」
「ほー、まさしく先輩の思い描いとる王子と姫やな」
冷たい口調に少したじろぐ。
「なんか怒ってる、よね」
「怒ってなんかないけど、まあ、いい気分ではないわな」
それを怒ってるっていうんじゃないかな、なんて思いつつ、そんなこと言えずに、そうかー、と相槌をうつ。毎日毎日話せるわけではないから、こうやって偶然会えたときくらい楽しく話したいんだけど、当の財前は本格的にへそを曲げてしまったようで、さっきまで少しこちらを向きつつ歩いていたのに、今は前、というより少し私と反対側を向きながら歩いている。それでも隣の位置から離れたりはせずにゆっくり歩いているのは、少し嬉しいけど。こちらを見なくなったから今のうちに、と財前の横顔をじっと見る。財前がこちらを見ているときは、目が合ってしまうからあまり見られない。目が合うのがだめっていうわけではないんだけど、財前は目が合っても目をそらしたりしなくて、そのままじっと見返してくるから、なんか変に照れてしまうんだ。照れると、うまく話せなくなるから、なんかいやだ。
そんなことを考えながら、前を見ずに歩いていたからか、ふいに足元の地面がなくなった。ガクッと下に揺れる身体。
「あっ、アホ!」
咄嗟に腕をつかまれて、下に落ちずに済む。驚きで早鐘を打つ心臓を少し落ち着かせるように息をゆっくり吐いてから、地面を見る。
「−−排水溝」
「伊織さん、ここの道、曲がるとき排水溝に落ちやすいんやから気ぃつけなアカンで」
そうだ、前、財前とこの道を歩いたときも同じことを言われたんだっけ。そのときは、排水溝に落ちたりなんてしないよって笑ってたのに、なんてこった。
「び、びっくりした。心臓一瞬とまった気がする」
「アホ、心臓とまりそうやったんはこっちや。いきなり、ガクッと身体沈みそうになるから、ほんまにどっか行ってまうかと思ったやんけ」
びっくりしていた心臓も、財前の小言を聞いているうちにようやく落ち着いてきた。
「はは、排水溝から別の世界に行っても、王子様には会えなさそうだね」
「そんなん探さんでええから、はよ行くで」
そう言って歩き出した財前に連れられて、私も足を動かす。当たり前のように、自然に引かれた手に、視線が行く。
「排水溝とか、マンホールとかに落っこちられたら、困るんで」
その私の視線に答えるようにそう言われ、顔をあげて財前を見る。少し、つながれた手を恥ずかしいと思いつつも、助けてくれたお礼を言おうと口を開くより先に、財前が続ける。
「それに、よそに変な王子様なんて、見つけられたら、困るんで」
なんて返すか迷ってから、とりあえずゆっくりうなずいた。
「そっか、困るか」
ぶっきらぼうな口調なのに、つないだ手はすごく優しくて、思わず顔が緩んでしまった。その瞬間に財前と目が合い、思わず、つないでいない方の手で口元を隠す。
「なんで隠してんねん」
「いや、だって、さっき同じように笑ってたら、顔崩れてるって言われたし」
それに、手をつないでいるから、さっきよりも距離が近い。こんな至近距離で顔を見られるのは、なんか、すごく、恥ずかしい。また、顔崩れてるって言われたらいやだな、でもそんないつもみたいな憎まれ口を聞いたら、恥ずかしい気持ちも少し吹き飛ぶかな、なんて思いながら、ちらりと斜め上に視線を向けると、こちらを見ていた財前と目が合った。やっぱり、財前は目をそらさない。いつもいつもこちらを見ているわけではないのに、こんなふうにしっかりと目が合ったときは、私がそらすまで、そらしたりしないんだ。
「まあ、さっきみたいに、よその男んこと思って笑うんは、いい気分やないけど」
改めてはっきり言われるとやっぱり少し、いやかなり傷つく。でもおかげで、花でもバックに飛びそうな恥ずかしい気持ちは少し吹き飛んでくれた。ふう、と安堵か落胆か、自分でもよくわからないため息をついて前を向くと、きゅっと少し強く手を握られる。なんだろうと顔を上げると、また財前を目があった。
「せやけど、今みたいなんは、まあ、いいんとちゃう」
今みたいなんて、何?いいって、どういうこと?頭がこんがらがりそうになって、顔を財前からそらして前に向ける。でも、その前を向く一瞬に、財前の嬉しそうな、微かな笑みを見てしまって、さらにパンクしそうになる。まぶたに焼けついたような、初めて見たその表情と、初めて知った優しい手の感触。さっき、恥ずかしい気持ちとか、照れとか、全部吹き飛んだと思ったのに、今はさっきよりも、顔が熱い。それでも、相手が財前なら、こんなのもいいかもしれない。
顔を冷やすために手の甲を頬に押し当てる私を見て、財前はまた少し笑った。
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