たとえばこんな一氏君
たとえば、何もかも切って捨ててしまうような鋭い目つきだったり、声の大きさだったり、ドスのきいた声でおどかすところだったり(主に小春ちゃんと仲良くしている人に向かって)、怖いと感じるところはたくさんある。そんな「怖い」人の隣の席になってしまったのだから、次の席替えまでは忘れ物は一切するわけにはいかない。そう決意したのはつい3日前だっていうのに、何てことだ。現国の教科書を忘れてしまった。しかも1限目が始まるまでもうそんなに時間もないから、ほかのクラスから借りるのも無理だ。ジ・エンドだ、私。ノートと筆記用具だけ出した机を、どうしたものかと無言で見つめた。
「あ?珍しいな。神崎がこの時間に次の授業の準備してへんとか。」
うなだれているところに隣から急に声をかけられ、驚いて顔をあげた。私の左隣は窓で、右隣しか人はいないから、見る前からわかっていたことだけど、やっぱり声の先にいたのは一氏君だった。一氏君は、私が勢いよく顔をあげて一氏君を見たことに驚いたみたいで、
「な、なんやねん。」
と、若干ひきぎみに発した。
「そんなびびることないやんか。んな反応されたらこっちがびびるわ。」
「あ、ごめん。」
あれ、一氏君って、こんな人だっけ。もっといつもわーわー怒ってるような気がしたんだけど。「教科書出してへんかったから、なんかあんのかなーって思って声かけたただけやんか。」と少しぶっきらぼうに続けた一氏君は、なんだかいつもと印象が違った。いや、そういえば、私は「いつも」と言えるほど、一氏君と関わったことなんてなかった。交した会話といえば、隣の席になった時の「よろしく。」「ああ。」くらいなもので。
「つーか、驚くやんけ、そんないきなり顔あげたら。ゆっくりあげぇや、ゆっくり。いきなし動いたら立ちくらみとかなんねんで。白石が言うとった。」
「あ、ごめん。」
そんなにびっくりさせるくらい勢いよく見てしまったんだろうか、と自分の行動を思い返していると、一氏君が、で、と続けた。
「で、教科書どないしてん?」
「あ、ちょっと忘れちゃって。」
よかったら見せてくれないかな、と発するよりもはやく、一氏君はガタッと自分の机を動かして、ぴったりとくっついた一氏君の机と私の机の境界線上に自分の教科書を置いた。
「えっと、ありがとう。」
まだ見せてとも言ってないのに、…一氏君て、いい人だ。
「おう、気にすんなや、こんくらい。」
一氏君はぶっきらぼうにそう言いながら、教科書をグッ、グッと開いて上をおさえ、私が見やすいようにしてくれていた。全くめんどくさそうな素振りは見せずに、自然にそれをする一氏君を見て、「怖そうだからなるべく関わらないようにしよう」だなんて思っていた数分前の自分を反省した。一氏君、本当にいい人だ!
「あ、ありがとう!一氏君!」
嬉しくて、前のめりになりながら全力でお礼を言うと、一氏君は、
「こんくらいで感謝しすぎや。」
と言って、おかしそうに笑った。
あ、そうか、一氏君も笑うのか、なんて、当たり前のことなんだけど。でも、私が一氏君の笑顔を見たのは、これが初めてで、その笑顔を見ていると、なんだか心臓の速さがおかしくなった。
たとえば、ぶっきらぼうな見かけに反して気遣ってくれるとことか、落ち着いたテンションの時の大きすぎも早すぎもしない耳なじみのいい声だとか、普段あまり話もしない私が困っていることにすぐ気づいてしまうところとか、恋におちるきっかけなんて、きっとこんなものだ。案外単純にできていた自分の心に思わず少し笑ってしまった。
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