short | ナノ


財前君の恋の自覚


「好きな奴なんていたことありません。」

誰か好きなやつおらんの、なんて聞いてきた謙也さんにそう答えると、謙也さんはわかりやすく驚いた顔をした。

「は?今まで一人も?おるやろ、昔近所に住んどった年上のねえちゃんとか、保育園の先生とか。」

「そら、かわええなーとか優しいやっちゃなーとか思うことはありますけど、好きってそんなんんで決まるもんなんすか。」

そんなんで好きな奴が決まるなら、今ごろ好きな奴だらけや。

「んー、難しく考えるやっちゃなー。」

「てか、もう用事終わったんで、はよ自分のクラス帰りたいんすけど。」

謙也さんのクラスに来たのは、昨日貸しっぱなしになっていた英和辞典を取り返しにきたからであって、なにも恋愛談義をしにきたわけではない。

謙也さんは、ほんま歯に衣着せぬやっちゃなーと笑って、俺の背中を叩いた。

「なんも深く考えんと、目でもつむったら、ひょっこり好きな奴でてくるんとちゃう?」

「そんなもんですかね。」

まあ、ええから試しにやってみ、と言われ、しぶしぶ目を閉じた。今日の昼ご飯は何を食べよう。暑いからあまり食欲がない。なにか冷たいものでも食べようか。そんな関係のないことを考えながら、そろそろ目を開けて自分のクラスに帰ろうかと思ったその時、ふわっと何かが香った。

思わず目を開け、その香りの正体を掴む。

「え、なに?」

見たことのない女子生徒だった。香りの正体はこいつか。

そいつは、いきなり腕を掴んできた俺を不思議そうに見ていた。なにか、言わなきゃ。

「あんた、めっちゃええ匂いやな。」

アカン、あほや、何言うてんねん、俺。違う違う、こんなこと言うはずやなかってん。ええ匂いってなんやねん。変態か。

自分の発言にへこみながら掴んでいた腕を放した。

「えっと、どうも、あり、がとう?」

いやいや、なんでお礼言ってんねん。こいつアホちゃうか。せやけど、不思議そうに紡がれたその声が耳に届くと、なぜか体温が上昇するのを感じた。

「こいつな、俺の部活の後輩やねん。財前光。」

フォローのつもりなのかなんなのか、いきなりそいつに俺の紹介を始める謙也さん。やめてくれや。今紹介したら、変態=財前光で覚えられてまうやないか。さらにへこんで、少しうつむく。

「そっか、謙也君の後輩なんだね。」

「ちゃう。」

「え?」

「は、何言うてんねん、俺の後輩やろが。」

わめく謙也さんは置いておいて、そいつに向き直った。

「謙也さんの後輩、やのーて、財前光。」

そいつは一瞬、きょとんとしてから、すぐにほほ笑んだ。

「そっか、財前君ね。私は神崎伊織。謙也君のクラスメートです。」

「神崎、伊織。」

「うん。じゃあ、私用事があるから、またね。」

神崎はそう言って、教室から出て行った。

神崎の姿が見えなくなり、思わずその場にしゃがみ込む。

「わあ、財前、大丈夫か。」

「大丈夫なわけないっすわ。謙也さんのせいやわ、アホ。」

謙也さんのせいで、初対面の神崎に「ええ匂いやな」なんて変態発言かましてもた。
謙也さんのおかげで、神崎を知ることができた。

「…まあ、プラマイゼロってことにしといたります。」

少しふてくされながら言うと、なんでそんな上から目線やねん、と頭を叩かれた。

さっきまでは、3年の教室なんて居心地悪いからはよ自分のクラスに帰りたかってんけど、明日からは、謙也さんのクラスに来る回数が増えそうだ。

神崎伊織。名前をもう一度頭の中で呼んだ。

ふわっと、さっきの香りがしたような気がした。


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