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柳君と図書室


図書室のすみの洋書コーナーは、最近の私のお気に入りの場所だ。広い図書室の中で一番奥まったとこにあるから、ここまで来る人なんてめったにいないし。

いつものようにポツンと置かれた小さな木の椅子に腰掛け、壁のような本棚を見上げた。すごい。ここにある本、全部私には読めない言葉で書かれた本なんだよね。

ふう、と感嘆のため息をつくと、コツと小さな足音が近くで聞こえた。珍しい。誰かいるんだろうか。

隠れているわけではないのに、なんとなく秘密の場所を見つけられたくなくて、息をひそめた。

コツ、コツ。小さいけど、それは確実に近づいてきている。

木の椅子に座ったまま、足音のする方を見ていると、本棚のかげから綺麗な男の人が出てきた。

「あ、見つかっちゃった。」

思わずそう呟くと、その人は目を綺麗に伏せたまま、私の方に顔を向けた。そして、珍しいな、と少し驚いたような口調で呟いてから、一歩、私に近づいた。

「見つけて、すまなかった。隠れていたのか?」

「違うの。隠れてたわけじゃないんだけどね、なんとなく、ここにいる時はいつも一人だったから。」

「そうか。ここの本はあまり馴染みがないものが多いからな。」

うん、と頷いてみせると、その人は本棚に近づいて、慣れた手つきで一冊抜き取った。

「読めるの?凄いね。」

素直に感動をあらわしてキラキラと見つめると、不思議そうに振り返った。

「…お前は読めないのに、ここにいるのか?」

「うん。英語わかんない。」

その人は少し呆れたような口調で、これはドイツ語だ、と言ってから、本を本棚に戻し、本棚に背を向けて私に向き直った。

「では、何をしにきているんだ?」

「この空気が好きなの。あんまり人に動かされない、本の匂い。落ち着く。」

だから、ここに来ると、そのまま眠ってしまうことが多いんだけど。

「そうか、空気か。お前はよくここで寝ているな。」

「知ってるの?」

驚いて聞くと、その人はゆっくりと頷いた。

「いつも、寝ているお前を見て、言いたいことが、あったんだ。…今日はちょうど起きていたから、言うことにしよう。」

「なに?」

図書室では居眠りしないようにっていうお説教かな。それとももしかして、少女漫画なドキドキ展開になったりするのかな。

少し緊張しながらその人を見ていると、その人は言いにくそうに口を開いた。

「…今、お前が座っている、それなんだが。」

「え、この木の椅子?」

小さくて、背もたれもついてなくて可愛いよね、と続けようと思った声は、綺麗な声に遮られた。

「椅子ではなく、本を取る為の踏み台、なんだ。」

「え?」

「いや、早く言った方がいいとは思ったんだか、寝ているのを起こしてまで言うのはどうかと思って。だがやはり早く言うべきだったな。すまなかった。」

早口で弁解するように言うのを見て、なんだか思わず笑ってしまった。

「はは、ありがとう。」

「何故笑う?」

「なんでだろう?…これを椅子だと勘違いしてたのは私なのに、まるで自分のことみたいに必死に考えてくれていたのが、」

何て言えばいいんだろう。そのあわてる様が、初めてこの人を見た時に感じたクールな印象と違って、少しあたたかみを感じて、

「なんかね、嬉しかったんだよ。」

私がそう言って笑うと、その人はまた初めに感じたクールな空気に戻り、そうか、と言った。

「次からはタオルハンカチをしいてから座るね。」

「いや、だからそれは椅子では、…まあ、いい。」

そのまま本を一冊とって立ち去ろうとしたその人を、待って、と呼び止めた。

なんだ、と表情で返したその人に、座ったまま問い掛けた。

「よく来るんでしょう?」

慣れたようにここの本を読んでいたからそう思って聞くと、その人は、ああ、と小さく頷いた。

「私も、明日も来るよ。」

「ああ、知っている。だが寝ているだろうから、話すことはないだろうがな。」

眉を下げ、小さく微笑んだその人は、なぜだか少し柔らかな雰囲気をまとっていた。しかたないな、お前は、とでも言うような、…まるでよく知っている友人のような態度に、少しくすぐったさを感じた。

小さな木の椅子(もとい踏み台)から立ち上がって、一歩その人に近づいた。

「起きてるよ、明日は。ここの空気の中で寝るの好きだけど、ここの空気の中であなたと話す方が、なんだか好きだなって思ったから。」

その人は軽く伏せていた瞼を少し動かした。薄く開かれた瞳と目があい、少し緊張する。

その人はまた軽く目を伏せ、ふいに口を開いた。

「柳だ。」

「え、ああ、名前か。柳君っていうんだね。」

これで次から名前で呼べる、と嬉しくて少し頬がゆるんだ。

「では、また明日。神崎。」

「うん、また明日。」

柳君は来た時と同じように、静かに去って行った。

また明日って、なんだかいい響きだな、と心の中で反芻させてから、ふとあることに気づいた。

名前、私、教えたっけ?

去り際、確かに柳君は「神崎」と私の名前を呼んでいた。でも私は教えた覚えはない。

不思議だ。やっぱり柳君は、不思議な人だ。

明日会ったとき、なんで名前を知っていたのか聞いてみよう。もし柳君が、私のことを知っているのなら、私も柳君のことを教えてもらおう。

だって、話をしたのは、こんなに少しの時間だったけれど、柳君のことを知りたいなと思うくらい、楽しかったんだから。

お気に入りの場所が、明日からもっと特別な場所になるような、そんな予感がした。


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