神尾君を見つめる
「あ、今日もいる。」
昼休み、いつものように書道室に向かうと、これまたいつものように机に突っ伏して眠っている神尾君がいた。
かじかんだ手でハロゲンヒーターをつけ、30分で切れるようにタイマーセット。消し忘れちゃったらいけないし。
ふわっとあったかくなった空気に、ほっと息をついた。
いつものことながらよくこんな寒いとこで眠れるなー、と神尾君を見た。
寝ている神尾君の二つ隣の席で静かに過ごす、少し不思議な昼休みが始まったのは、2週間程前だった。2週間程前の昼休み、私はいつものように、早々に昼食を終え書道室に向かった。目的は放課後の部活の時に書くものを決める為。他の部員はちゃんとすぐに決められるんだけど、私は部活の時間に決めようとすると孔子廟堂碑にしようかな、でも長悔歌もいいよな、白楽天好きだし、とか迷い過ぎてなかなか筆を持つまでに行かないんだ。
と、まあ、そんなわけでいつものように書道室に向かうと、神尾君が寝ていたのだ。
寝ていたのが友達か顔見知りだったら、こんな寒いとこで寝てたら風邪ひくよって言って起こしただろうけど、寝ていたのはほとんど話したことなんてない神尾君。クラスも違うし、たぶん神尾君は私の名前さえ知らないんだろう。
だからってそれが寂しいわけではない。神尾君が私を知らないのは仕方ないし。…うそ。本当はちょっと寂しい。一度しか言葉を交わしたことはないけど、その初めての会話で神尾君が言ってくれたことは、それまでは顔も知らなかった「神尾君」という存在をちゃんと認識するようになるほど、重要なものだったのだから。神尾君は、きっともう忘れてると思うけど。
神尾君を起こすことはできず、かといって放っておくこともできず、どうしたものかと考えあぐねた私は、視界の端に映ったハロゲンヒーターを近くに持って来ることにした。
スイッチをいれるとふんわりと空気があったかくなって、これならきっと神尾君も凍えないだろうと安心した。
二つ隣の席に座って長悔歌を読んでも、神尾君は目を覚ますことはなかった。なんとなく目が覚めるまえにここを離れたくて、私は休み時間10分前にヒーターを切って書道室を出た。書道室を出る前に、長い前髪よって半分隠れている寝顔をちらっと見た。こんな至近距離で神尾君の寝顔を見るなんて、きっと最初で最後だろうなと思った。
でも、そんな予想に反して、私はそれから平日は毎日、神尾君の寝顔を見るようになった。
神尾君が何故昼休みに書道室で寝ているのかはわからない。
初めの頃は、神尾君が起きるんじゃないかと静かにしていたんだけど、間違って椅子を倒してしまった時に、その大きな音を聞いても起きなかった神尾君を見て、気づかれないならいいか、と寝ている神尾君に話しかけるようになった。
「室内っていっても、もう冬なんだから、こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ。」
「ヒーターつけたから、結構あったかくなってきたね。」
「本当は、書道部だからって昼休みに毎日書道室来る必要、ないんだけどなー。もう書くこと決まったし。」
「でも、神尾君が寒い中寝てるんじゃないかなって思ったら、なんだか放っておけなくて、つい毎日急いで来ちゃうんだ。」
「もっと寝心地いいとこ、たくさんあると思うんだけどなー。」
「おやすみ、お疲れ様、神尾君。」
傍から見たら、独り言を言っている変な人だろうけど、幸い書道室は少し離れたところにあるから人はほとんど来ない。
部屋のあったかさのせいか、神尾君の寝顔を見ているうちに、私まで眠くなってしまった。
まだ昼休み始まったばかりだし、ちょっとだけ寝てしまおう。少しだけ、少しだけ、そう言い聞かせて、私は机に突っ伏した。
*
さっきまで静かに流れていた声珍しく途切れた。どうしたんだろうと、うっすらと目を開けると、椅子に座ったまま首を軽く下に向けて寝ている伊織が目に入った。
「寝てんじゃん。あ、」
つい声に出してしまい、とっさに自分の口を押さえた。幸い伊織は起きなかったみたいだ。よかった。なにがよかったのかはよくわかんねーけど、まあとりあえずよかった。
寝顔を見るのは、なんだか悪い気がして、なんとなく自分の手に目を落とした。冬の書道室で動かずじっとしてたりなんてしたら、普通は手がかじかむはずだけど、俺の手は血の流れがいい色をしていて、あったかかった。…神崎が、ヒーターつけてくれてるからだな。
神崎と初めて話をしたのは、もう一年も前の事だった。神崎はきっと、俺のことなんて覚えてないと思うけど。
*
放課後、書道準備室に資料を戻しておいてくれと言われ、しぶしぶ少し離れたところにある書道室に足を運んだ。資料をしまって、さあ帰ろうとした時、ふと隣の書道室から物音が聞こえた気がして足を止めた。わざわざこっちまで来る奴なんてほとんどいねーし、電気もついてねーし、多分気のせいだろうと思いつつも、なんとなく気になって扉を開けた。
「誰かいるのかー?…あ、いた、なんで電気つけねーんだよ。」
書道室の隅の机に座っている人影を見つけ、不思議に思いながら近づいた。
隣まで来て、やっと、女の子が泣いている、ということに気がついた。
「なっ、大丈夫か?どうしたんだよ。どっか痛い?」
俺が泣かせたわけではないのに、なんだか焦る。女の子の前の席に座って、どこか痛いのか聞くも、女の子はただ静かにふるふると首を横に振るだけだった。
「泣いてもいいから、何があったのか話してみろよ。大丈夫だから。」
なんとか目の前の女の子を落ち着かせたい一心で、できるかぎり優しい声音でそう言うと、女の子は俯いたまま、ゆっくり口を開いた。
「好き、なんだけど、私が好きな人は、私じゃない人が、好き。」
なるほどな、好きな人に好きな人がいるのを知ってしまって、こんな人気のない場所で泣いていたのか。
「あの人が幸せなら、いいって、思いたいのに、…やっぱり、好きで。」
俯いて涙を流しながらそう言う女の子の頭に手を置いた。
「いいよ、好きなら好きで。無理して好きなこと忘れる必要なんてねーよ。」
女の子は、ふっと顔をあげた。初めて、目があった。
「泣くくらい、一所懸命にそいつが好きだったんだ。だから、大丈夫。」
女の子は、またしばらく泣いてから、ありがとう、と言って笑った。さっきまで泣いていたせいで笑顔はぎこちなかったけど、その笑顔を見て、やっと泣き止んでくれた、とホッとした。
「やっぱりさ、笑顔がいいよ。」
頭に置いていた手を動かして、くしゃっと撫でてから、席を立った。
それからしばらくして、廊下であの女の子を見つけた。友達や先生に呼ばれているのを聞いて名前がわかった。神崎伊織と言うらしい。あの時と違って、神崎は笑っていた。
あの笑顔は、どういう意味なんだろう。好きな奴には、気持ちを伝えたんだろうか。そいつには好きな奴がいるって神崎は言ってたけど、もしかして付き合うことになったりしたんだろうか。
笑顔がいいよ、なんて言っておいて、神崎が笑っているのを見て、気持ちがモヤモヤするのを感じた。俺は何が不満なんだろう、と考えて、ああ、そっか、と理由がわかった。俺に向かって、笑って欲しいんだ。誰かの為じゃなくて、俺に。
ばかだなー、俺。好きになって、すぐに失恋決定じゃん。
それから学年は変わったけど、同じクラスになりますように、という俺の願いも虚しく、神崎とはクラスは離れたまま。
このままだったらずっと話さないままか、と思っていたら、たまたま神崎が友達と話しているのが聞こえた。昼休みに書道室にいるらしい。話しかけるチャンスだと思い書道室に向かうと、気合い入れて早く来過ぎたのか、神崎はまだ来ていなかった。
なんて話しかけたらいいんだろうかと考えながら机に突っ伏しているところに、神崎はやって来た。
つい緊張して寝たふりしちまった俺、かっこ悪。
今日こそは話しかけようと意気込んでいた、3日くらい経ったある日、神崎は寝ている俺に話しかけてきた。
内容は、今日も寒いねとか、宿題がたくさん出たから大変だとか、取り留めもないこと。でも、俺だけに向かって紡がれる声が嬉しくて、それからずっと寝たふりを続けている。
起きてる時も話しかけてくれたらいいのに、なんて思いながら、チラっと神崎に目を向けると、まぶたがピクピクッと動いてから、目が開いた。あ、神崎、起きた。
神崎はゆっくりと目を開け、寝ぼけたような様子で周りを見回した。くるっと神崎の顔が俺の方に向き、目があった。
驚くだろうか、と少し身構えると、神崎はびっくりしたように目を見開いて、持っていた本を落とした。びっくりするだろうとは思っていたけど、びっくりしすぎ。
苦笑しつつ神崎が落とした本を拾った。
「そんなびっくりしなくても。幽霊に会ったわけじゃねーんだからさ。」
「そ、うだけど、(衝撃は、同じくらいだよ!)」
さっき落とした本を、はい、と差し出すと、神崎はびっくりしつつも、ありがとう、と受けとった。
神崎はそれから口を開きかけては閉じ、を何回か繰り返した。何を言えばいいか迷ってるみたいだ。
「あのさ、」
待っていても神崎から声が発せられることはなかったから、先に沈黙をやぶった。
「えっと、もう泣いてなくて、よかった。」
何言ってんだ、俺。
神崎がもしあの時のこと覚えてなかったら、ただの変な奴じゃんか。
神崎は一瞬驚いたように目を見開いてから、覚えてたんだ、と小さく呟いた。
「ありがとう、神尾君に元気もらったから、もう笑ってる。」
ふわ、と笑った顔は、前に見た涙の筋の残るぎこちない笑みとは違った。
「そっか、よかったぜ、やっぱり神崎は笑ってる方がいいよ。」
前にも言った言葉を、もう一度繰り返した。
それからしばらく、神崎はまた何か言おうと考えていたみたいだったけど、うまくまとまらなかったみたいで、ゆっくりと席を立った。
「じゃあ、昼休み終わるし、教室戻るね。」
そのまま去って行こうとする背中を見て、咄嗟に、神崎、と呼び止めた。
「あのさっ、俺、明日も来るから。明日は、起きてるから。」
俺は、神崎ともっと話したいんだ。うまく話せないけど、それでも。
神崎は一瞬驚いたように固まってから、はにかんだ。
「私も、明日も来るよ。…また明日。」
「おう、また明日!」
明日は、きっともっと話せるはず。明後日は、それよりももっと。
ヒーターを切った書道室は寒いはずなのに、不思議と寒さは感じなかった。
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