一氏君に奏でる音
汗は冷えると体温を奪う。冬とは思えない量の汗をタオルで拭い、なんとはなしに校舎を見上げると、ちょうど窓際で楽器片手に楽譜を見ている伊織が見えた。今日は演奏会の為に新しい曲増える言うてたもんな。その楽譜見てんねやろか。
五つの線の上におたまじゃくしが泳いでるような紙をただ見てるだけでおもろいんか、と聞いたことがある。伊織曰く、私は絶対音感とかないし、楽譜見てもいまいち頭の中にその音楽が流れてきたりはしないんだけど、楽譜のリズムを指で叩きながら見ていると、なんとなくイメージがわくの。それをすると、早くこの曲演奏したいなーって気持ちがわいてきて楽しいんだ。だそうだ。
伊織は音楽に向かう時、本当に楽しそうだ。思えば、伊織と出会えたのも、その「音」のおかげだった。
*
「あー、暑い。ほんま暑い。」
一人吐き出した声は、さらに周りの温度を上げたような気がした。暑い言うから暑いんやって言うけどな、暑いんやから暑い言うてもしゃーないやん。
テニスしとる時は楽しいし集中しとるから、暑くても全く気にならへんのに、一度休憩に入ると、暑くてしゃーない。
頭から水を被って暑さをしのいでいる部員達を横目に、涼しさを求めて校舎に入った。校舎ん中言うても、エアコンあるわけやないから、暑いのは変わらん。せやけど、休日の校舎っていうものは、独特の涼しさがある。いつもは大勢人がいるところに人がいない静けさのせいなのか。
そう思いながら廊下を歩いていると、何か音が聞こえてきた。吹奏楽休みやって思ててんけど、今日部活あったんやろか。今日は校舎周りを走ってる姿を見んかったけど、と思いながら音の元に足を向けた。
音に近づいてみて、違和感に気づいた。いつもはいろんな音があちらこちらから聞こえるのに、今は一つの音しか聞こえへん。誰かが自主練してんねやろか。
そのまま音を辿り、音の発信源の教室をのぞくと、一人で楽器を吹いているそいつがいた。
背筋を凜とただし、余計な力を抜いて楽譜に向かう様は、なんとなく綺麗やなって思った。
音が途切れたところで扉を開けると、そいつはびっくりしたように目を見開いた。ま、そらそうか。誰もおらんと思ってたやろしな。
「おう。」
片手をあげて挨拶しながら、窓際の席に腰掛けた。
「ああ、うん。」
戸惑いながら片手で挨拶を返したそいつを一瞥してから、窓の外に目をやった。あ、ここからテニスコート見える。…って、謙也まだ水かぶってるわ。そろそろ冷えるやろ、って、ああ、やっぱり白石に怒られた。
そんなことを考えていると、音出してもいいか聞かれ、黙って頷いた。
止まっていた空気が、また揺れ始めた。近くで感じるそれは、不思議と心地好い。
再び空気が止まった時を見計らって、俺はそいつを見た。
「楽しそうやな。」
「そう?」
「おん、音楽のことよぉわからんけど、楽しそうな音やなって思った。」
そう告げると、そいつは嬉しそうに笑った。
「息って、自らの心って書くでしょう?楽器にはね、自分の心を入れるの。自分の心を楽器に渡して、楽器を通して、自分の心が音になるの。」
「へぇ。」
「だからね、楽しそうな音だって思ったなら、私の心が今楽しいからなんだよ。」
「さよか。」
*
そう笑った伊織の顔が本当に楽しそうだったから、気づいたら、また聞きに来てもええか、なんて口走っていた。
あれから季節は二つ変わった。伊織の音は相変わらず楽しそうだ。
そんな少し昔の事を思い返しながら伊織を見ていると、ふと、伊織は視線を楽譜からこちらに移した。
目が合い、伊織は片手をあげた。
ターン、タタ。
手で叩いて示すと、伊織の顔は、遠くからでもわかるくらい、嬉しそうにゆるんだ。
「ん、ユウジ何一人で手ぇ叩いてんの?」
「気分や、気分。」
どんな気分やねん、と笑う謙也を流して校舎を見ると、伊織も、ターン、タタと手を叩いた。…にやける。
ターン、タタは、伊織から教えてもらった、二人だけで奏でる音。だーい、すき、のテンポ。