笑顔が見たい伊武君
神尾君に、今日放課後科学室に来てくれよ、と爽やかに言われ、うなずいたのは今日の昼休みのこと。
今は約束の放課後で、私が今開けた扉は「科学室」のもののはず、なんだけど、
「何扉開けたまま突っ立ってるわけ?風が入って寒いから早く閉めてくれる?」
「あっ、ご、ごめんなさい。」
扉を閉めてから、バクバクうるさい心臓をおさえた。
なんでだ、なんで伊武君がいたんだ。私を呼び出したの神尾君だよね?もしかして私が伊武君のことを好きなのに神尾君が気づいて、ちゃっちゃと当たって砕けろよ、と背中を押してくれたんだろうか。
とにかく、ここはひとまず退散しようと思ったと同時に、中から扉が開いた。さっき中にいたのは伊武君だけだったから、扉を開けたのも伊武君しかいないよね。
もしかして伊武君も、神尾君にちょっと用事があるからとかで呼び出されたんだろうか。もしそうだったら、約束していたはずの神尾君じゃなく私が来たから、怒ってるんじゃないかな。
そう思いながら恐る恐る顔をあげて伊武君を見ると、非常に不機嫌そうに眉を寄せた伊武君と目があった。
やっぱり、すごく怒ってる!
「誰が扉の外に立ったまま閉めろって言ったわけ?」
「…え?」
どういう意味だ。扉の外に立ってるのもだめって、もしかしなくとも、さっさと立ち去れってことだよね。
「ごめん、気がつかなくて!」
頭をバッと下げてから踵を返し、早急に立ち去ろうとした。
でも、なにかに捕まれ、立ち去ることはできなかった。恐る恐るその「なにか」を見ると、思った通り伊武君の手だった。
「だから、なんでまた帰ろうとしてるわけ?来てすぐ帰るとか神崎はなにしにここに来たの?」
「神尾君に呼ばれて、」
なーんだ、神崎も神尾に呼ばれたのかー、俺と一緒一緒、それならしょーがないなー、なんてことになることを予想して(実際の伊武君はこんなに軽くないけど)神尾君の名前を出すと、私の意に反して、伊武君はもっと不機嫌そうに眉を寄せた。
「なに?神尾がいなかったら帰るっていうの?俺とはそんなに話したくないんだ。そういう態度ってさ、失礼だとか思わないわけ?」
「伊武君、とにかく、えっと、落ち着いて!」
お前が落ち着け、と言いたげな伊武君の視線を受けて、深呼吸した。ふう、ちょっとは、落ち着いた。
「落ち着いた?」
「うん、もう落ち着いたよ。ありがとう。」
あれ、落ち着いてって言ったの私なのに、なんで私が落ち着いたか聞かれてるんだろう。なんかちょっとおかしくないか、なんて考えていると、伊武君は、そ、と一言返してから科学室の中に戻った。
さっき捕まれた腕がそのままだったせいで、ひっぱられるままに私も科学室の中に入ってしまった。
「座ったら?」
「え?ああ、ありがとう。」
…なんだろう、この状況。
放課後、科学室、伊武君と二人きりで、向かい合って座ってる。うん、本当なんだこれは。
「神崎はさ、」
「はいっ!」
いきなり話しかけられ、思わずビクッとして返事をすると、伊武君は不機嫌そうに眉を寄せた。私ってやつは、さっきから今までで一体どれだけ伊武君を不機嫌にさせたら気がすむんだ。
なんだか落ち込んでしまって、肩を落としてごめんと謝ると、伊武君は、はあ、とため息をついた。
ああもう泣きそう。せっかく神尾君がくれたチャンスも、私はうまく使えないんだ。
「泣かないでよ。俺が泣かしたみたいじゃん。」
「ご、ごめ!でも、泣いてないよ、」
焦って顔をあげると、眉を寄せた伊武君と目があって、すぐにまた下を向いた。
「あー、あの、うん、」
「え?」
伊武君が珍しく言いにくそうに話すから、驚いて思わずまた顔をあげた。
「違うから、そういうことが、言いたくて、神崎を呼んだんじゃなくて、」
神尾君じゃなくて伊武君が私を呼んだということにも驚いたけど、それよりも、いつもとは違う口調で言葉を紡ぐ伊武君に、なんだか驚いてしまった。
眉を寄せて、一つ一つ区切りながら話す伊武君は、不機嫌というよりなんだか戸惑っているみたいで、だんだんとこわい気持ちが消えていった。
「…うん。」
「別に神崎を泣かせたいわけじゃなくて、困らせたいわけでもなくて、」
伊武君はもっと眉にしわを寄せた。
「ただ、笑ってる顔が、もっと見たいだけ、なんだけど、…って、何してるの!」
「あ、ごめんなさい。」
伊武君があまりに眉間にしわを寄せるから、痛くないのかな、とつい伊武君の額に指を置いてしまった。
「いきなり触らないでよね。びっくりするから。」
「いきなりじゃなかったらいいの?」
揚げ足取らないでくれる?って言われるかなと思いながら聞くと、伊武君は一緒ポカンとしてから、ふいっと横を向いた。
「伊武君の髪、綺麗だから触りたいなー、ってずっと思ってたんだ。」
もう今を逃したらこんな機会ないだろうと思ってそう言うと、伊武君は横を向いたまま、勝手にしたら、と呟いた。
「ありがとう。…わあ、サラサラ。」
髪の毛を一房すくって櫛でとくと、伊武君の髪は何のひっかかりもなくサラサラと私の手から滑り落ちた。
伊武君の髪を触れるなんて、もしかしてこれは夢なんじゃないかなんて思って、思わず笑みがこぼれた。なんか幸せ。
そんな私を見て、伊武君はなんだか呆れたみたいに眉を下げて少しだけ微笑んだ。
「…髪触らせたくらいで笑ってくれるなら、いつでも触っていいのに。」
「本当に?じゃあこれから毎日伊武君の髪の毛をといてもいい?」
伊武君はまた、勝手にしたら、とだけ言った。でもその口元は少しだけ優しげだったから、なんだか嬉しくなった。
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