short | ナノ


越前君とコーヒー


いつもコーヒーを飲んでいる先輩は、いつだったか、こんなことを言った。


コーヒーは好き。
誘うような香りとか、苦い味とか、深くて暗い色とか。
まるで夜空を飲んでいるような、闇を飲んでいるような、そんな不思議な気持ちになる。


そう言って綺麗に笑った先輩は、歳なんてそんなに違わないくせに、とても大人に見えて、それがなんだか少し、悔しかった。




「あー、越前君。」

「ども。」

一人でベンチに座って休憩していると、先輩がやってきた。

「休憩?何飲んでるの?…あれ、コーヒー好きだったっけ?」

「まあ。」

本当はコーヒーなんて好きじゃない。

先輩が誘うようだと形容した香りは苦さを主張しているようだし、味だって、なんでこんなに苦いのかわけがわからない。色にいたっては、まあ、コーラに見えなくもないけど、それでもやっぱり黒すぎだと思う。

そんな俺の考えなんて知るよしもない先輩は、そっかそっか、好きだったか、と笑って、俺の隣に腰掛けた。手には珍しく炭酸飲料。いつもは決まって缶コーヒーなのに。もちろん、加糖とか微糖とかじゃなくて、ブラックの。

「先輩は、炭酸好きでしたっけ?」

「うーん、」

先輩は珍しく口を濁して、はは、と笑った。

「越前君がよく飲んでるから、飲んでみたくて買ったんだけど、なんか舌ヒリヒリしちゃった。」

先輩は、お互い無理するもんじゃないね、と笑って、俺の手元のコーヒーを指さした。

「…コーヒー、好きじゃないって、気づいてたんすか?」

「だって飲むとき、眉間にシワよってたし。」

先輩はそう言って笑った。

こういう余裕なところが、なんだか、いやだ。

「そうっすか。」

「…うん、なんか、ごめんね。」

「…は?」

何を脈絡もなく謝ってるんだと、顔を見ると、いつもの笑顔は消え、寂しげな顔をしている先輩と目があった。

「何を謝ってるんすか?」

「うん、何をだろうね。わかんないや。」

先輩はとりつくろうように笑みを浮かべ、邪魔しちゃったね、またね、と立ち上がった。

「…待って。」

「どうかしたの?」

手に持っていた缶コーヒーをベンチに置いて、口を開いた。

「伊織さん。」

「…え?」

初めて名前で呼ばれた先輩は、きょとんとして、不思議そうに首を傾げた。

「伊織さん。俺、コーヒー、苦手だけど、コーヒーが好きな伊織さんは、好き。」

「、っ!」

顔を赤くした伊織さんに一歩ずつ近づきながら、続けた。

「無理するもんじゃないねって言ったけど、無理くらいするよ。少しでも近づきたいから。」

いろいろ許容量をオーバーしたのか、逃げ出しそうになった伊織さんの片手を捕まえて引き止めた。捕まえた手は意外にも俺より小さくて、今までちゃんと見ているつもりだったけどあまりよく見えていなかったことに気づいた。

逃げられなくなった伊織さんは、捕まれた手を振りほどこうとしているのか、軽く手を振りながら、どうしたらいいのかわからないといった様子で目を泳がせた。それは、なんだかとっても、

「…可愛いね。」

「え、…えっ?」

うん、伊織さんは可愛い。

今まで、わざと名前で呼ばずに頑なに先輩って呼んだり、綺麗な人だ、大人だと言って、壁を作って遠ざけていたのは、他でもない自分自身だったんだ。

壁を壊して、固定概念を取り払った伊織さんは、こんなにも可愛くて、手が届くくらい近くにいたのに。

ふっ、と口元を緩めると、伊織さんが恐る恐る俺を見てきた。

「伊織さん。」

「は、はい!」

「伊織さんは、俺のこと、嫌い?」

我ながらずるい聞き方だと思う。優しい伊織さんなら、こんな聞かれ方して、嫌いなんて言えるはずないし。

「き、嫌いだったら、わざわざ苦手な炭酸飲料、買わないよ。」

「…へ?」

困ったように眉を下げながら、嫌いじゃないよ、と言われるのを想定していた俺は、思っていなかったことを言われ、ぽかんとした。

「越前君、私と話す時、よく不機嫌…、というかつまらなさそうな顔になるから、越前君が、好きなもの、私も好きになったら、少しは近づけるかなって、」

「不機嫌じゃないよ。つまらなくもない。」

自分のガキさ加減にふて腐れていただけだから。

「…本当?」

「本当。ちょっといろいろ俺が気にしすぎてただけ。でも、もう気にしないことにしたから。難しく考えなくても、好きなものは好きでいいや。ねえ、伊織さん。」

小さく笑ってそう言うと、伊織さんもやっと笑ってくれた。

捕まえていた腕を引っ張ると、あっけないくらい簡単に、伊織さんは俺の腕の中におさまった。

好きだよ、と囁くと、恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに笑いながら、私も好き、と言う伊織さんは、やっぱりとても可愛かった。


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