30
ふと、蔵と初めて出会った日を思い出した。
右も左もわからない不思議な森の中で出会ったあの日、怯えた態度をとる失礼な私を、蔵は嫌な顔一つ見せず、必死に森から出そうと頑張ってくれた。不安になってあたってしまった時も、あたたかく包みこんでくれた。
目を伏せると、まるで昨日のことのように思い出せるけど、あれからもう2年か。早いな。
相変わらず、蔵とは小屋の中でしか会えていない。小屋から蔵と一緒に出ようとしたことも何度かあるけど、森の中をぐるぐるするだけで、森の外には出られず、なんだか初めて会った時みたいだね、なんて言ってお互いちょっと笑ってしまった。
蔵が言うには、多分、伊織んとこの入口から森に入ったら、伊織んとこの出口からしか出られんくて、俺んとこの入口から入ったら俺んとこの出口からした出られんようになってるんやろうな、だそうだ。
わんちゃんは、二つの世界が一つになるって言ってたけど、時間の流れが同じになったことと、中学校の校庭に増えた木以外は、今のところ大きな変化はない。
小屋でしか会えないことを少し寂しく思うこともある。母校と言えど卒業した中学校に頻繁には行けないから、卒業してからはさらに会いにくくなってしまったし。
それでも、二度と会えないと思ったあの時に比べたら、限られた場所の中だとしても、自由に会える今は、とても幸せ。
「伊織、にやけてるよー。」
「え、やだ、本当?」
友達に笑いながら言われ、咄嗟に頬を掌で覆った。
靴箱のところで友達を待っている間、つい蔵のことを考えてしまっていたみたいだ。
友達は待たせてごめんね、と軽く手をあわせてから、靴を履いて校門へと歩きだした。
「で、さっきのにやけ顔は何ー?好きな人のことでも考えてたの?」
「えっと、へへー。」
「笑ってごまかすなー。」
誰?私が知ってる人?と楽しげに聞いてくる友達は、なんだかとてもワクワクしているみたいだった。今までずっとこういう恋バナさけてたもんな。
知らない人だよ、と首を振ると、友達は、どんな人?見てみたい、と目を輝かせた。
「同じ学校の人?放課後デート誘っちゃいなよ。」
ほら、ファミレスのクレープ割引券あげるから、と笑う友達を見て、ちょっとだけ寂しくなった。
小屋の中で会えるだけでも幸せ。もちろんそれも本当だけど、…それでもやっぱり、普通に外でデートとかもしてみたいな。
私の様子を見て、友達は心配そうに眉を下げた。
「ごめん、遠距離だった?寂しいね。」
こういうのも遠距離っていうのかな、と思いながらも、コクと頷いた。うん、寂しいよ。
「よし、じゃあクレープは二人で行こ!」
ね?と明るく聞いてくる友達の優しさが嬉しくて、私も笑って頷いた。
クヨクヨしてちゃだめだな。しゃんとしなきゃ、と気合いを入れたところに、私の携帯が着信を告げた。
「ごめん、電話みたい。ちょっと待っててもらっていい?」
「いいよー。」
知らない番号だと不思議に思いつつ、通話ボタンを押した。
「はい?」
「伊織?」
「…へ?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、私の大好きな大好きな声だった。
「く、蔵?」
嘘、今まで電話なんて何度かけても通じなかったのに。通じない電話番号を見るのが辛くて電話帳から削除してたんだけど、通じるようになったんだ。
すごく驚いてしまって、なんて言っていいのかわからない私に、蔵が優しく笑うのが電話越しに聞こえた。
「いきなりかけてもて、ごめんな。なあ、伊織今どこおる?」
「え、どこって、学校だけど、」
それを聞いてどうするんだと思いながら告げると、蔵はホッとしたように笑った。
「よかった。校門まで出て来られへん?」
「え、校門?もうすぐそこだけど、」
不思議に思いながら数メートル先の校門を見ると、私の大好きなミルクティー色が見えた。
ミルクティー色はゆっくりと動いてこっちを見た。
「あ、ほんまや。伊織、発見。」
「、っ!」
びっくりして、思わず息が止まりそうになった。
どうしよう、どうしよう、蔵だ、蔵が、私の見えるところに、いる!
携帯を握りしめたまま固まった私を見て、友達は、ほーらっ、と言いながら、ファミレスの割引券を渡した。
「今の電話、さっき言ってた彼だよね?校門で待ってるあの人でしょ?はやく行ってきな。」
「あ、あのっ、見える?校門のとこの、あのミルクティー色の髪の人。」
私にだけ見えるんじゃないよね、ちゃんといるよね、と不安に思いながら聞くと、友達は、何言ってるの?ちゃんと見えてるよ、と笑った。
「ほら、クレープ行ってきなって。明日デートどんなだったか教えてよ。」
にこっと笑った友達の顔を見て、また泣きそうになった。さっきとは、別の意味で。
ちゃんと友達にも蔵が見えてる。蔵が、ちゃんと、ここにいる。
いつまでも動かない私を見て、友達が、トンッと背中を押した。
「ありがとう!」
校門に向かって走り出すと、蔵は両手を広げて笑った。
「蔵っ!」
走った勢いのまま、蔵の胸に飛び込むようにして抱き着いた。周りに人、あんまりいなくてよかった。だって人がたくさんいたとしても、きっと周りなんて見えずに蔵に抱き着いてしまっただろうから。
蔵は、伊織、と優しく言って、強く抱きしめてくれた。
「蔵っ、蔵だよね。」
なんで会えたのかという疑問よりも、会えたという事実が嬉しくて、私はただただ喜んだ。
蔵はそんな私を見て、ほんまもんの蔵やでーと言ってから、笑いながら説明してくれた。
「伊織の学校の名前をな、ネットで地図検索しとったら、出てきて、それで急いで電車乗ってきてん。」
気づかないうちに、世界が大きく変化していたことを知って驚いた。そういえば、わんちゃん、ゆっくりとした変化だから、世界が一つになっても誰も気にしないって言ってたけど、本当に、誰も気づかないんだ。毎日、変化がないか気にしていた私でさえ気づけないだなんて、なんだかびっくり。
「伊織。」
驚いてそんなことを考えていると、優しく名前を呼ばれ、顔をあげて首をかしげた。
「何?」
蔵は、愛しそうに私の頬を優しく撫でてから続けた。
「これからは、どこでも一緒に行けるな。伊織と行きたい場所、したいこと、俺、めっちゃあんねん。」
「ふふっ、私も。」
まずは、このファミレスに行かない?とクレープ割引券を見せると、蔵は、せやな、と笑った。
当たり前のように繋がれた手が嬉しくて、一人で笑ってしまった。なんだかそれが照れくさくて蔵の方を見ると、蔵も同じ顔をしていた。嬉しいのは蔵もきっと同じなんだと思うと、なんだか幸せな気持ちになった。
これからも、きっと寂しいことも幸せなこともたくさんあるんだろう。でもきっと大丈夫。
だって、もう私たちを遮るものは何もないんだから。
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