追憶


静寂の中一人で居続けるとまるで自分が生きていないかのような錯覚に陥る。
自分自身と取り巻く空気の境界が曖昧になり、溶け出し、消滅してしまう。そんな感覚。
成熟した木の中程の枝に腰かけ幹に背をもたれかかったまま、ゆっくりと天を仰ぎ見た。
瑞々しい青葉から零れ落ちれる木漏れ日。無意識の内に手を伸ばす。
輝く日は確かにここにあるのに掴めない。
私達を照らす光はいつもそこにあり恵みをもたらすというのに、その存在は意識の隅にしか存在しなく。
わかっているのに空を掴み取れない事に落胆してだらんと腕を落とした。
こんなに清々しい天気だというのに私はそれに比例するかのように落ち込んでいる。

「桜さん」

そんな時、小さく控えめな声が鼓膜を震わせた。声量の割に凜として芯がある、落ち着きのある低い声。
ずっと耳を傾けたくなるような安心感がある声の持ち主を長い間生きていて私は一人しか知らない。
菊さん、と唇だけ動く。
どうやら長い間話してないせいで簡単に声帯は起動してくれないみたいだ。
それでも菊さんは気分を損ねた素振りもなくこんにちは、とのんびりと挨拶をした。

「こんにちは」

今度はしっかりとした意識で息を吸い言葉を紡ぐ。
予想外、しかし嬉しい訪問に少し気分も持ち直し、軽やかに木から飛び降りる私を菊さんが受け止めた。

「相変わらず怖いぐらいに軽いですね。風に攫われてしまいそうなほどに」
「花びらみたいに?」
「ええ。いつ飛んでいってしまうのかと危なっかしくてハラハラしますよ」
「怪我なんてしません」

口先をとがらす。静かに私を降ろす菊さんは苦笑混じりだ。
桜の権化である私が自身の木から落ちるなんて滑稽なだけ。だいいち人間より身軽なのに怪我するわけがない。
それでも菊さんは毎回心配して私を受け止めるから今では直接菊さんへ飛び降りるようになった。
心配性だと思うけれどそっとした気遣いは鬱陶しくはなく。
菊さんの気配りはいつだって空気のように自然でさり気ない。
それから、不思議な事に私が気分が滅入るとどこからともなく現れるのも思わず凄いと思う物の一つだ。
ちょうど今みたいに。

「どうしたので……ってポチ君」

足元に何かぶつかる感覚がすると思ったらたら、白い塊がそこにあって。
屈み込むと嬉しそうに飛びかかってくる。受け止めると体をなすりつけて甘える仕草は大変愛らしい。

「ポチ君、相変わらずふわふわです。気持ちいー」
「毎日欠かさずブラッシングしているかいがありました」

あ、と思わず声が出かけた。ポチ君の乱入で菊さんの事を一瞬忘れていた。
気がつかれていないと思うけれど恥ずかしくなって、毛並みを堪能するかのようにポチ君に顔を押し付けてる。

「……ポチ君の、お散歩の途中ですか?」
「だったのですがふと桜さんにお会いたくなりまして。宜しければ散歩に付き合って下さいませんか?」
「お邪魔じゃなければ」
「ぜひに」

ポチ君を離して菊さんと並び私がいた古びた社から出る。
のんびりとした歩みと共に交わす言葉はぽつりぽつりとした程度でどれも他愛もないものばかり。
けれど二人を包む和やかな雰囲気を私は気に入っていた。
おまけにここ辺りは都心からさほど離れていないにも関わらず昔ながらの風景が残っていて。
喧騒もない町の様子が相まり凪いだような心地になる。
悠久の時を生きる私達には時間を感じさせない場所が必要なのだ。そう、改めて実感する。

「それにしても……」

しみじみと感じ入るようなため息を菊さんがつく。

「ここ連日カラリとした晴天が続いて、もう夏の入り口のようですね。
 いつもの事ながら季節の移り変わりは早くて……桜さん?どうかしましたか?」
「あ、いえ、なんでもないです」

せっかく忘れかけていた憂鬱を思い出してしまった。一度思い出すとたちまち滅入ってくる。
けれどそれは菊さんのせいではない。曖昧に笑い誤魔化す。
人の心に敏感な菊さんを騙せるとは思えないけれど。
追求はないけれど心配そうな視線をよこすのがいたたまれなくて顔を反らす。

「お陰様でみんな元気に葉をつけて」

近くにあった木に触れる。触れて、直ぐ後悔した。

「どうかしました?」
「この子……」

立派に成長しどっしりとした幹から伸びる枝に葉を茂らせている。一瞬見ただけでは何ら問題ない。
だが、わかってしまった。私には、わかってしまう。この子の状態を。
私の分身、だから余計。
俯く私にやっぱり菊さんは何も言わない。
けれどポチ君が急に止まった事を不信そうに、前に進みたがる仕草をするのが急かされているようで。
するとふいに菊さんが隣に並んだ気配がした。そのまま私が触れたように幹に手を添える。
白くほっそりとている。けれど昔はその手に刀を握りしめていた。
何時だってそうだ。細くて頼りなさげなのに驚く程の強さ垣間見せる。
きっと、心が強いのだ。

「この子ね」

思ったよりスルリと言葉になる。

「今にも、倒れそうなの。外には出てないけど中がもうボロボロで……」

死にそうなの。
とはさすがに口に出来なかったが、菊さんは言わずとも理解してくれる。
手を介して伝わる痛み。体の奥底から蝕む感触。

「樹医に連絡しましょうか」

静かに首を振る。菊さんなら最高の人を呼べるだろう。
でも、この子は望んでなくて。自然があるままにありたいと訴えてくる。
それはもう無理だからと言っているようなものだのだけれど。

「この子は……」

気が遠くなるような年月を生きている私達。
死は慣れるわけないが悲しみの和らげ方、受け入れ方はわかっている。
なのにこんなにも悲しくなるのは。

「私が見つけなければ誰にも気がつかれずに消えていったのでしょうか……」
「それが、貴女の愁いの原因ですか」

思わず菊さんを見た。漆黒の瞳が私を真っ直ぐに捉えいつになく真剣な色を宿している。

「夏になると木々が茂るのに関わらず貴女は時折悲しそうになる」

植物が育つのを見るのは嬉しい。
夏に入る前の水の恵み。それから訪れる眩い光。どれも自然から受ける恩恵。
枝がしなやかに伸び開放感に溢れるこの時期は植物にとって大切だ。

「夏は好きですよ?」
「けれど現に貴女は落ち込んでいました。桜は日本の象徴。貴女が悲しいと私も悲しくなります」
「……だから、私が落ち込むと現れるのですか?」
「感情が影響するわけではありませんよ」

少し笑う。私の心配を気にしなくていいかというように。
化身であるから日本にある喜怒哀楽は彼に伝わる。だが同じような存在の私までそうだとは思っていなかった。
でも、もしそうだったら落ち込んだりはしないように勤めていただろう。

「ただ、無性に貴女に会いたくなる時があります。すると貴女に何かがおきているだけです」
「影響されてるじゃないですか」
「悲しくはなったりはしないんですよ。
 ただ、夏の始めは貴女が愁いが多いのでずっと原因を考えていましたが、ようやくわかりました」

自分自身でも分からない感情だ。敢えてわかろうともしなかった。
たぶん、気がつかなくていい感情だと思ったから。

「桜さんは、寂しいのですよ」
「さびし……?」

長い年月生きていた。一人の時間も多い。なのに寂しいなんて。

「忘れられる事に怯えている」

この子のように?

「そんな事ないです。桜はみんなに愛されてます。毎年春になると花見をして、祭りを開いて」

冬を耐え、朗らかな陽気に命が芽吹き始める季節はみんないつも晴れやかだ。
故に春を告げる桜を楽しみにし、開いた事に感謝する祭りを開く。
なのにどこが寂しいのだ。怯えるのだ。

「祭りの後の虚無感は必然的にありますよね」

その言葉にはっとさせられた。夏は。初夏はそうだと言うのだ。
そして、それはきっと図星で。

「桜は散る時までもが美しいですが葉桜はあまり見ないですからね」

夏の間は私は記憶の隅に追いやられる。だから私の住みかも無意識で寂れた神社などになってしまう。

「桜は季節と同じあり方をするので私は好きです」

顔が赤くなるのを自覚する。私の事を好きと言っているわけではない。でも桜は私自身であるわけで。
純粋に植物として好きだと言ってるだけと理解していても率直な物言いに赤くなった。

「……私はっ」

詰まる言葉。
対面しあうと言葉にしにくくなる。
そう思ったのか痺れを切らしたポチ君に並んで歩きだす菊さん。私はその後ろに。

「私が、私として存在できるのは国花で神にも通じる存在だからです。祀られて初めて存在意義があるんです」

独り言のような音量で紡ぐ言葉。けれどそれでも静かなここではよく響いて。
桜を意識するのは開花前、咲く間。散った後。1ヶ月あるかないか。
他に気にかける人は少ないだろう。

「存在が希薄になる感覚を恐れるのが寂しいという感情なら、私は」

寂しいのだろう。
ただそういう気持ちは酷く幼稚で拙いようで。

「桜さん」

歩きながら少し振り返る菊さん。
着物の袖から少しだけ覗く白く細い指先。手を差し伸べているのだ。
手を繋いで仲良く歩く程若くないのだが、気づけば少しかけてその手を掴んでいて。
そこからお互いに会話はなかった。
必要を感じない。
繋がる手からの体温があれば十分。
ただ。
手を伸ばしたその先。
空虚ではなく、菊さんの細いが大きく固い手があればいいと。
そう思った。

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