色無き風


ふわりと風が吹き込む。
カーテンが風をはらみゆったりと膨らんだ。
夕日がカーテンの隙間から零れ落ちて黄金に室内を照らしだす。
誰もいない教室内は賑やかな昼間と対照的で取り残された感覚がして見ていられない。

そう漏らすと、なんじゃそれはと苦笑を漏らす仁王君。
仁王君は日直で残っていたらしい。
私は風紀の見回りで、教室に戻ってきた時には教室には仁王君しかいなくて。
顔を伏せて、頬杖をかきながら日誌に書き込んでいる。
その姿は日常のありふれた一コマなのに、さながら一種の芸術のようであった。

彼が持ち合わせている憂いを帯びた雰囲気が悲しい教室に怖いぐらいに溶け込んでいたから。

私は息をするのすら忘れてしまった。
それから屋上にいた彼の表情を思い出してしまって。
私は気付いた時には彼の前の席に座り、彼の名前を紡いでいたのだ。

「祇園精舎の鐘の声……」

そう、そんな感じなのだ。
放課後の学校は。
活気がある場所に今はそれがない。
祇園精舎の鐘の音は聞いた事はないけれどきっと寂しい音がするのではないのだろうか。

「放課後の学校がそうみたい、ということかの?」
「永遠に続く物はないんだよね。いつか終わりはくる」

学校の活気だって。
賑やかな昼間から打って変わって水が打ったように静かだ。

「持っていると、だんだん怖くなってくる。もっともっと、強欲にもなっちゃう」

何もなかった頃には戻れない。
無くなるのは怖い。
けれど、それは知らない方が良かったと言うのとは違う気がする。

また、風がふいた。
カーテンに遮られて外の様子は見えない。
この世界も、ここにいるみんなも、いつか消えてなくなってしまうのだろうか。

「芦屋さん」

名前を呼ばれて視線を戻す。
読めない見透かしたような金色の瞳で私の顔を見つめる。

「何かな、仁王君」
「手、出しんしゃい」

言われたとうりに手を差し出すと、何かを乗せられる。
その物が何か、わかった瞬間に思わず悲鳴を上げて渡されたものを落として、立ち上がった。
ガタン、と椅子が倒れる音が大きく響り渡る。
音が消え去った同時に仁王君の喉で笑う声が教室内に響く。
渡されたのは、虫であった。
しかもゴキブリ。
だいたいの女子が総じてそうあるように私もそれが苦手で。
それを見ないようにぎゅっと目をつぶった。

「おもちゃぜよ」

ひとしきり笑った彼は愉快そうにそう告げた。
ゆっくりと目を開けてそれを見て、何度か瞬きをする。
確かにおもちゃだ。
しかし嫌にリアルでおもちゃだと思っても目を反らしたくなる。
元来、彼は人をからかうのが好きな人だった。
だから詐欺師なんて呼ばれているのだ。
それを、すっかり失念していた。
睨めば悪びれもせずに笑っている。

「も一回、手を出しんしゃい」
「同じ手はひっかからないよ」
「そう連続して同じ手を使わんよ。ほら」

だったら違う手を使うのではないのだろうか。
悪戯のレパートリーは私より遥かにあるのだろうから。
それでも彼の声に促されおずおずと片方の手を差し出す。
置かれたのはチョコレートだった。

「お詫びじゃよ。思ったより良い反応だったからの」
「仁王君に悪戯されて驚かない子の方が少ないと思うよ……詐欺師君?」
「じゃなきゃ名折れなり」
「そうだね。うん、でもありがとう」

倒れた椅子を直して座り直す。
口に入れたチョコレートはビターだったらしくて甘さの中にほろ苦さが広がった。
心が落ち着いた所で何故仁王君が悪戯したのだろうかとふと疑問に思った。

「これでまた一つ終わったわけじゃ」

彼がそう言うからはじかれたように仁王君の顔を見つめた。
私が教室内が取り残された感覚がして見ていられないと。
そう漏らしたから、彼はその事から気をそらそうと思ったのだろう。
確かに、これは一つの終わりだ。物悲しい雰囲気が一気に消え去った。
祇園精舎の鐘の音なんか聞こえてこない。

「終わりが全てじゃないぜよ」
「……うん、本当だね」

仁王君は確かに詐欺師だ。
けれどそれは裏返して人の機微に敏感な人なのではないのだろうか。
日誌に書かれている文字は男の人らしく少しだけ角張っているものの、丁寧な書き方をしている。

「芦屋さんは、話しやすい人ぜよ」
「よく言われる。何か特別な事をしているわけじゃないんだけど」
「そう言う奴っておるよ。何か特別な事をしとるわけでもないけど、それでも隣にいるのが心地いい奴」
「仁王君はそんな人が側にいるんだね。誰?」

そう質問して後悔した。
またあの表情。
迷子になった子供のような。
見てる私まで胸が締め付けられる。
これは、私が聞いちゃいけない事だ。
話題を変えた事に張りつめていた空気を和らげた仁王君は申し訳なさそうに、その話題にのって来た。


日誌を書き終えた仁王君と校門を潜った。
夕日がさして人家が黄金色に縁取る。
遠くでは烏が寝床へ行く所なのか二つ三つ飛んで行くのさえしみじみとした感じがする。
鈴虫がそっと楽を奏でている。
かの有名な清少納言が綴っていた秋の美しい情緒ある世界。
それはきっとこのような風景だったのではないのだろうか。
時を超えて、変わらない美しさもある。

「明日は晴れるだろうね」
「これだけ晴れとるならな。冬とかならええんだけど。夏の晴れは駄目じゃ。あれは死ぬ」
「暑いの、苦手なの?」
「昔はしょっちゅう熱中症になっとた」
「熱中症は怖いよ。気をつけないと」
「昔の」

話だ、と続けようとした仁王君の言葉が消える。
仁王君が視線の先を追うとそこには男の子達がいて。
テニス部だ。逆光だからよく顔は見えなかったけれどそう直感した。

「仁王先輩!!」
「芦屋さん、悪い」

そう告げて仁王君はくるりと体の向きを変えて走りさってしまった。
逃げるように。
後ろからする、悲痛そうに彼の名前を呼ぶ声が虚しく響いた。


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