逃げ水


竹林広場の木々。
夏、身の内からはち切れそうな生命力に幹や葉を膨らませていた。
それは今はやれやれと力尽きて全てを散らしてしまっている。
あの黄金の葉をぷちりと落として、休息している。
それを眺めては、春が待ちどうしくなってくるのだ。
冬は嫌いではないけれど、それでもあの温かな春を待ってしまう。

木、というのは一番季節を表していいるのではないだろうか。
春の木々はふくふく笑っているように見える。
夏はお腹の空いた赤ん坊みたいに力いっぱい泣いている感じ。
秋は、ほっとしている。
そうして、冬の沈黙を待っている。
冬の木は嘘眠りをしていて、本当は目も覚めて何もかもわかっているのに、知らんぷりしているような。
そんな感じを受けるのだ。

冬というのは春を待っている時間で、準備期間なのだ。
待ってるんだ。
そういう思いが、ふつふつと感じられて、不思議になる。
私は何を待ってるんだろう?

もう一度、窓の外を眺める。
木の表情。
雅治君、とそうっと、呟いてみる。
人気のない竹林広場は、音を吸い込むようで、微かな声はすぐに包みこまれてしまう。
雅治君。
そう声に出しかけても、ま、の音もうまく出せずにはあ、と息を吐いた。
仁王君の名前を呼ぼうと思うと、どうしてもうまく舌は回らず声は喉の奥で詰まって、出て来てくれない。
名前を呼ぼうと思い浮かべるだけ。
それなだけなのに心臓がびっくりしたみたいにぎゅっとなる。
その次にどくどくと暴れて、耳が内側から圧迫されたようにぐううとおかしくなって。

カサリと音がした。
まだ枯れた木の葉を踏みしめる音。
誰か来た。
相手はわかっている。
仁王君。
仁王君はテニス部へ、私は陸上部へ。
予定があったからそのまま外で落ち合おうという話になった。
そこで私は竹林広場の、あの竹の所がいいと言ったのだ。
あの時は見事に咲いていた竹の花も、もうとっくに咲き終えて。
竹が枯れきるまえにもう一度、仁王君と見ておきたかった。

遠くから見える仁王君は周りを見回しながらゆっくり奥に歩いてくる。
きょろきょろしている仁王君は十中八九、私を探してる。
ちょっとした悪戯心。
自分を探している仁王君というのを。
そうしてそれを見られているということを露ほども知らぬ仁王君というのを、観察してみたくなったのだ。
いつも悪戯されているお返しの気持ちもあったかもしれない。

木で体を隠して、仁王君の死角になる場所から仁王君を窺う。
仁王君の表情はいつもと変わらず飄々としている。
いくら目を凝らして見てもその内の感情というものを窺い知ることが出来ない。
仁王君はゆっくり歩き、時折、空を見上げながら歩いていく。
衣ずれの音と、落ち葉を踏みしめるだけがひっそりと響いて時間なんて存在していないようだ。

ゆっくり仁王君が一歩ずつ進む度、そっと木から木へ移る。
永遠に続く遊びのように。
逃げ水のようだ。
追いかても離れて行く蜃気楼の一種のそれは春の季語の一つ。

こんな事をしていると背中あたりがむず痒くなってくる。
いけない、と仁王君の後ろ姿を見つめる。
光が、透き通る冬の橙色の夕日が仁王君の背に落ちてやさしい温かさに包まれている。
仁王君と交流を持つようになったのは秋の中頃。
今は冬。
同じ冬なのに今年と去年の冬は違う。
こんなおだやかな時間はもう、この先ないのではないか。

仁王君が立ち止まり、木に寄りかかって目を閉じた。
いないと探すのを止めてしまったのだろうか。
つまらなく思って、そっと音を立てぬよう、仁王君の近くへと歩み寄った。

「神隠しっちゅーのは妖怪の類の仕業と相場は決まっておる。
 けど人に差す魔の方がよっぽど恐ろしいと思わんか、千尋」

目を閉じたままぽんと、そう言ったのでぎょっとした。
呟きにしては大きくよく通った声だ。

「かくれんぼは終わったん?」

そう言って仁王君は目を開けて私を見ると、ふっと緩やかな笑みを浮かべた。
悪戯っぽい金の瞳が輝いている。

「……わかってたんだ」

観察しているつもりだったから、途端に恥ずかしくなる。
隠れるのを止めて仁王君の側に近づいた。

「本当の所は人のほうが恐いんだって思うのは日本人の傾向らしいよ」
「知らず知らずの内の刷り込みって恐いのぉ」
「けど、それは日本っていう国で生まれ育った立派な証だと私は思うな」

ね、仁王君、と言おうとして口ごもる。
未だ仁王君の名前で呼ぶことが出来きていない。
そうしてそれが彼にとても申し訳ない気がして、苗字を呼ぶことにためらいを覚える。
仁王君の名前はすごく特別で、とてもじゃないけれど簡単に喉から上に上がって来てはくれない。
胸の内でこっそり幾度か呟いてみるのすらどきどきしてして。
わーっと叫んで布団にくるまってしまいたくなるのに。
それでもじゃあ仁王君と呼んでしまうのすら躊躇ってしう。
私の名前を呼んでくれる仁王に対してすごく冷たい仕打ちのようだ。
だから何にも言えなくなる。

心の内の葛藤に気がついたのかどうかしたのか、と問われた。
けれど言うわけにもいかないから首を振って、照れたように笑う。
仁王君は少し考えを巡らすようにじっと顔を動かさなかった。
そしてくるりと体を反転させて、すたすたと歩き出してしまった。
こういう時、仁王君は後ろから私が付いてくるものと疑わないところがある。
それはちょうど、小さな男の子が隣には必ず母親がいるものと信じているのと似ていて。
もし私が自分が付いていかなかったらどうすのだろう。
子供が隣にいたのが実は他人だったと気付いた時みたいに。
仁王君でもひどく驚いて不安な顔をしたりするのだろうかと、たまに試してみたくなる。

「テニス部のみんなとはどう?」
「ん。今じゃすっかりもとどうりなり。
 むしろ赤也とか丸井とかが嫌に絡んできて鬱陶しいくらいじゃ」
「みんな、嬉しいんだよ」
「そうじゃな……。一回、失ってみると気づく事も多い」

辿りついたの例の竹。
そっとその表面を仁王君は撫でる。

「あと数日もすれば完全に死んでしまうな」

仁王君は、そう振り返りもせずにそう言った。
枯れてしまう前に、と思っていた事は伝えなかったのに。

「ど、どうしてわかるの?」

振り返った仁王君は答えずにちょっと口端だけ上げて笑った。

「千尋は、……」

仁王君は竹のてっぺんを目で追う傍らそう何か言いかけ、止める。
勘の鋭い仁王君がその先言おうとした言葉が、わかるような気がした。

仁王君が私の名前を呼ぶ度。
ぎゅうっと肺を潰されて、息が詰まって。
頭の上からすうっと血が引いてくような、逆に、ぐるぐる、
熱い血が頭に流れていくような。
そんな感じがする
どっちかわからない、恥ずかしいような、嬉しいような、苦しいような気持ち。

私が、仁王君の名前を呼んだら仁王君もそんな気持ちになるんだろうか。

不意にそう思って。
気付いて、頬を手で覆う。
仁王君はそれから何もいわずに唇を微かに開けたまま。
仁王君は何かを考えている。
何を?
透明な陽は彼の髪の端を、顔の縁を光らせて、輝かせて。
一瞬、仁王君じゃないみたいに見えた。
私は素直でない仁王君が率直には希望を言わないのを知っている。
そうして、それだから理由になり得る理屈を。
言わせるためのペテンを考えているのだと、知ってる。
だから私はそれを待っていて、ずるい。
私はずるい。
でも、名前を呼ぶのは、とてつもなく恥ずかしい。
多分、言った瞬間、血が逆流して首まで真っ赤になって、心臓は一瞬止まるだろう。
どうしてなんだろう。
彼の、名前を呼ぶだけなのに。
どうしてこんなにどきどき、告白するみたいに、どきどきするんだろう?

あっと、思う。

すきって言うのと、同じなのか。

男の子の名前を、普通、呼んだりしない。
それは、それだから特別なことで。
私にとって、それはとても特別なことで。
仁王君の名前を呼ぶのはだから、好きだとその度言っているのと、同じことなのだ。

仁王君は、理屈を練っている。
うまくいかないようだ。

透明な夕日が眩しくて、目を細めた。
少し、開けた唇が乾いて、幾度か閉じたり開けたりする度、かさかさした。
皮膚のすぐ下に、もうひとつ心臓が出来たみたいに、ちりちりと苦しくなっていく。
両手の指をぎゅっと握って、堪えた。

私は、私はこの時、二度目の告白をするんだ。
そうしてそれは、この先、何度も。

仁王君はじっと、延々理屈を辿ってうつむいて、まるで修行僧のような顔をしている。
理屈の至るのを待っている。
冬、この時期には皆、何かを待っているのだ。

ゆっくり、声が裏返らないよう。
掠れないよう。
慎重に呼吸をして、お腹に、喉に、力をこめた。
指からは、ほっと力を抜いて。

「雅治君」

ぴくりと、仁王君の瞼が揺れた。
この、私達を照らしてくれる夕日を私はきっとこの先何年何十年たっても、忘れない。
この時の、ぎゅううと胸を締め付けられる気持ち。
それを、忘れたりはしないだろう。
そんな確信は、ままごとのような約束に似ているのに、それでもそう信じた。

これから私達はどんな人生を歩んでいくのだろうか。
この一瞬一瞬は過ぎ去っていくけれど、私達はまだまだ先へと進んでいくのだ。
決して終わる事なく。

光は、柔らかく、淡く、水のように、澄んでいる。

end.



戻る
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -