01
大気が焦げている。蝉が方向感覚を喪失させるかのごとく四方で鳴き叫ぶ。
連日の残暑にはすっかり参ってしまう。
汗が首筋を伝いぽたりと畳にしみを作り、着物はもはや引っ掛けているだけ、と言えるほどにはだけていて。
動く気力もなく床と同化していると、後ろから紫の髪が引っ張られた。
相手が誰だかわかりきっているから、紫はそのままの体勢を保つ。
「だらしがないぞ」
「暑いから仕方ないじゃない。暑い暑いあつい〜」
抗議するよう足をばたつかせる紫に重い重い溜め息が落ちてきた。
「そんなに暑いなら水でも頭からぶっかけてやろうか」
「できないくせに」
「なら、せめて玄関先に水でもまいておけよ。来るんだろ」
「……そういえば」
「外で待ってるなら、ちょっとはそん時に違うんじゃないか」
黙る紫を了承と取ったようだ。髪を引っ張るのやめ部屋から出て行こうとする気配がする。
「ついでに庭もよろしくな」
それが本音じゃないかと紫が抗議する間もなく、部屋を出て行ってしまった。
こんな暑い中、外には出たくない。けれど茉白の言う事も一理ある。それに無視したら後が怖いのだ。
仕方なく起き上がり、襟を直す。
日が傾き、色だけは柔らかみを帯び始めた光が差し込む廊下を進み玄関へ。下駄を突っかけて外に踏み出した。
その途端に包む熱気の煩わしさと言ったら。
夕刻に差し迫ろうとしているのに和らぐ事は知らないみたいである。
庭の隅にある手桶と柄杓をひっつかみ、水を井戸から汲む。
紫の家は古い。だが立派な日本家屋である。そういう趣味には舌なめずりしてしまうだろう。
不便な面は多々ある。しかし紫にとってその不便さはかえって愛おしい。
懐古趣味というわけではない。ただ、紫みたいな存在にはそういう空間があるべき場所なのだ。
「雨でも降ってくれればいいのに」
自分の手で水を植物に降らしながら紫は呟く。
先日、庭師を呼んで整えてもらったばかりだ。自然ながら均整のとれた木々が潤いを与えられ輝いた。
庭はかくあるべき。満足げに紫は一つ頷いて今度は門へ足を向ける。
終わったら茉白に西瓜を切ってもらおう。恐らく今年最後になる。そういえば彼奴は甜瓜の方が好きだったか。
そんな事をぼうと考えながら水を撒いていく。
やがて紫は暑さで面倒になり水を桶から直接、門の外へとぶちまけて。
「あ」
結果、門の外には涼しげな和風美人が水も滴るいい男ができあがった。
紫は畳に額を擦り付けるように土下座をしていた。水を浴びせてしまったのだ、当然である。
茉白にこってり絞られ若干涙目だが、幸い和風美人には見えていない。
「頭をあげてくれ」
美丈夫の声音は控えめながらも不思議とよく空間に響いた。
しかし何故だろうか。あっというまに霧散してしまうような、そんな掴み所のなさがある。
言葉に、紫は申し訳なさそうに顔を上げた。
今、彼は茉白の浴衣を着ている。常磐色がよく似合う。佇まいから和服を着慣れている事が伺え知れた。
「気にしないで欲しい。荷物も無事だし」
すっと隅に寄せた鞄に目をやる。
それから細い指が白磁の皿の縁を撫でた。その皿には瑞々しい西瓜が鎮座している。
「こうしてもてなして貰っている。これで十分だ」
「当然です。こちらのせいですから」
「それに、こうした縁というのも面白いと思うしな」
わずかに口元が弧を描いた。ただ本当にそう思っているのか、怪しい。
紫にはこの男というものがよくわからなかった。初対面だから、という次元の話ではなく。
人を見る目はあると紫は自負している。にも関わらず男は風のように不透明さだけを残すのだ。
涼しげな顔で表情の変化があまり感じられないからか。
伏し目がちな瞳があまり紫の視線と絡まないからかもしれない。
いけ好かない男だ。騒がしい男は煩わしいが、何を思っているのか表現しようとしない男は厄介だ。
それでも紫はそれを口に出す事はせず本当にと微笑んでみせる。
「けれど、それでは私の気がすみません」
迷惑。というか遊ぶのは紫の生業ではあるが、痛い目にあわせる事とは違う。
ヒトと違い紫のような生き物は在り方の維持というのは重要なのだ。
茉白に言われずともそのぐらいする。天の邪鬼な紫は渋ってみせたが、そのぐらいわかっている。
内心溜め息をついてから、男を真っ直ぐに射抜く。
「貴方の願いを一つ叶えましょう。なんでも、とは言えませんが」
「え、いや……。お気遣いなく」
片手を畳に。もう片方を彼の太腿にのせ顔をずいと近づける。男は背を反らして遠のく。
戸惑いわずかに赤みをさした頬になんだ、存外可愛らしい反応をするではないかと紫はくふと笑った。
「私、こう見えても優秀なの」
青年の喉仏が動く。
囁くように、唄うように。まるで秘め事を告白するかのような調子で紫は言葉を連ねる。
「最近、欲しいものがあるでしょう? 筆ね。高いのは買えないけれど、いいものが欲しい。違う?」
紫は青年を見ながら、しかしもっと違う所を見ているかのような不思議な色を宿した瞳を携えている。
違う?と首を傾げたら突き飛ばされた。
暴挙に彼はっとしたようで咄嗟に謝るのでついに紫は床に転がりながら笑ってしまった。
場の雰囲気を壊す子供のような笑い方に青年は脱力したまま尋ねる。
「お前は一体、なんだ」
紫は床に転がったまま答えた。
「私は座敷童。福の神だよ」
残ったのは、夏を惜しむ蝉の叫びだけだった。
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