果てに見える蒼
空気がゆらりと歪んだ。蜃気楼だ。幻を見るような感覚になって、一瞬、気が遠くなるように思うのは私だけだろうか。
蝉の鳴き声が四面楚歌のように空間を取り囲み、夏だ、夏だ、と主張している。
蝉が鳴くだけで体感温度は一度は上がる。まったく、なんであんなにけたたましく鳴くのだろう。
日陰のベンチに体を投げ出してコートを見つめる。ようやる。慣れだろうか。
慣れは大切だ。恐くもあるけれど。感覚が麻痺しているようなものだから。
だいたいこんな外で待ってろなんて拷問か。光は私に死ねと言っているのだろうか。
文句を言ってもきっと聞かないのだろう。
しかたなしに木漏れ日が落ち、ざわめく影をそれとなしに見つめる。
ゆっくりと目を閉じる。ボールを打つ音に耳を傾ける。
ずっと聞いていると気がつく。上手い人だと、音も違う。本気の試合じゃなくてラリーでもテンポもいい。
そう、ちょうど今みたいに。
暑いと寝るに寝れないけれど、それでも一定の感覚で聞こえてくる澄んだ音に意識がふわふわしてくる。
微睡みの中にいるかのような、そんな凪いだ心地。
汗が額から頬へ、そして落ちて行くのを感じる。
「こんな所で寝てたら確実に熱中症になるわ、あほ」
声が上から降ってくるのに、寝返りをうって目を開ける。
耳のところで反射してくる日差しの眩しさに目を細めた。
「寝てないわ」
でも弱々しいので説得力に欠ける。光もそう思ったのか、はっ、と笑う。
「夏希がそろそろ溶ける頃かと思うたらその様か。予想どうりすぎてつまらん」
「そりゃー悪うございましたー。あと人間は溶けんわ」
「せやけど、ベンチで潰れとる」
たしかにそうだけど。溶けてしまいそうだけど。
相手しているのも疲れる。再び目を閉じると蹴られた。
「いったぁ!」
「起きろや」
「だけど、蹴る事ないやろ、あほ!」
がばっと起き上がって半ば涙目で睨む。と、光が両手に茶碗を持っている事に気がつく。
「なん?それ」
無言でずいっ差し出されたものを受け取る。
黒い液体。
「善哉やん」
無造作にどさりと隣に座った光を見る。なんでこんな変に甘ったるいのを。
もっと爽やかなのがよかった。甘いのは好きだけど、暑い中で食べられない甘さって存在しているのに。
レモンとかこう言う時さっぱりしていいんだけど。
というかこの善哉どうした。
「なぁ」
「監督が用意したんや俺に文句言うな」
「オサムちゃんが?」
流し素麺してみたり発想がいつも突飛だよなあの人。
オサムちゃんならシ仕方無いって思わせるあたり凄い。ある意味。
しぶしぶお箸を受け取って口に運ぶ。
と、善哉の冷たさに思わずびっくりした。冷たい。キンキンとしている。
「おいしー!」
冷たい。甘い。暑いから冷たいのが余計においしさを増している気がしている。
「うっさいわ」
「旨いんやもん、仕方ないわ」
あー、うま。無我夢中で善哉を食べる。で、あっという間になくなる。
案外食べるのがゆっくりな光を見る。
光は見た目が不良なくせにお箸の使いかたとか、とても綺麗だ。あと、食べるのも。
不良になりきれてないだよなー、とかお家でしっかりしつけられれるんだよなーとか。
見た目のギャップに忍び笑いすると変な物を見る目で見てくる。
「なん、気持ち悪い」
「なーんも。ねぇ、ちょーだい」
「いやや」
「けち。いいやん。ほら、あーん」
「それ、普通は逆なんとちゃう……?」
と言いつつくれるあたりが光だ。うん、冷たい。
これ以上ねだると悪いので正面に座り直し、そのままずるずると落ちてお行儀悪い体制に。だって座りやすい。
ぼーと、雲ひとつない空を見る。夏の空は近くて、透明だ。露をたっぷりに含んでいる。泳げてしまいそうな。
「もう少ししたらちゃんと働けや」
「んー」
「夏希が働かんとちゃんと練習できひんって泣きつかれんのは俺なんや」
「あー、うん。大丈夫」
バンドで全体練習できる日は少ない。軽音部って弱小でなかなか場所が取れないのだ。
「けど、こうやっているのも悪くなんよなーって思ったり、思わなかったりぃ!?」
光の手が延びてきてのけぞる。殴られるかと思って過剰反応。いや、手加減は勿論してくれてるみたいだけど。
と思ったらぐいと肩を引っ張られて顔が急接近。
「あとで新曲見せてやるから大人しく行けや」
近い顔に目眩がしそうで言葉を理解した時には時には既に立ち上がって、気だるそうに二人分の茶碗を持っていて。
「返事」
「お、おん」
すたすたと大股で歩きだす。すぐ動く気になれず背中を見ていると振り返った。
「早よ行け」
「わかっとるわ」
それでも動かない私。
「……夏希が弾くギターの音が聞こえんと調子でんやけど」
ぼそりと、ぶっきらぼうに、小さい声。
光の珍しい発言に弾かれるように立ち上がった。嬉しい事言ってくれるじゃないか。
「あんがと!光、好き!」
「阿呆」
いやー、照れ隠しにしか聞こえませんぜ旦那。というかどんなキャラだ、私。
こう言われて動かなきゃ女じゃない!光に背を向けて走り出す。
善哉、わざわざお裾分けしてくれた事だし。
ご所望どうりになるよう頑張ろう。
この空いっぱいに音が満ちるようによっし、とガッツをしながら眩しい夏の空を見上げた。
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