濡れぬ雨


彼は一陣の涼風のごとくさえて鮮やかにそこにいた。顎先から落ちる汗すら露零たる風情。
その控えめに伏せられた瞳に何を映しているだろうかと、始めて見た時から目を奪われた。
柔らかで強靭な、その名の通りの姿に頭がくらりとする。
これは恋だろうか。憧れだろうか。
愛。
そんなのは知らない。

正体のわからないまま、私はラケットを翻し、しなやかにコートを走る姿を誰もいない教室で見続ける。
この教室は秘密の特等席なのだ。
元々はヴァイオリンの練習をする為に見つけた教室なのだけど。
毎週火曜日にある稽古。稽古場までは学校から直接行ったほうが楽。けれど終礼のすぐ後に行くと早すぎ。だから稽古前の練習をここでしていた。
そっとヴァイオリンに触れる。ヴァイオリンは好きだ。華やかで、種類の富んだ声を持っている。時に一人で堂々と。時にそっと優しく寄り添う。
ヴァイオリンはどの楽器より繊細で気まぐれなのだと思う。
防音設備がないから人が居なくなるまで待つ間の、つかぬ間な時間。テニスコートがよく見えるこの教室から彼の姿を追う。
話しかけはしない。きっと、彼と話しても緊張して、上手く話せない。それで後から恥ずかしくなる。この距離が関の山。
ほうと息を吐いて空をあおぐ。雨が降るかもしれない。曇天の空は憂鬱そうだ。
雨は苦手である。靴先に染み込む雨水が、気分を滅入らせる。傘を差していても背中に滴る水滴に、うんざりする。
ヴァイオリンのケースだってどうしても濡れる事は免れないのだ。
そんな事を思う間もなく地面にぽつぽつと雨の染みが落ちていた。
部員も慌てて、部室に向かっている。彼はどうなのだろうと、伺えば、空を見上げ、さして慌てた様子もなく歩きさっている。
今日は練習は終わりだろう。けれど私もそろそろ始めなければいけない。かえって、丁度良かったのかもしれない。

ヴァイオリンを構えて、弦の上で弓を滑らす。
快活で、明るい曲だが、その分、指の回転も早くて大変だ。おまけに先生は練習だとか言って色々な技法が入っている曲を選んだからなおさら。
いくらか弾いて、つっかえる。いつもなら普通にできる事も。出来ない所に引きずられているのだ。そしてそれがまたミスを作る、悪循環。
スランプなのだと励まされた。けれど、内心、その言葉を拒絶していた。認めると、もっと出来なくなりそうで。その言葉に甘えてしまいそうで。
ひたすら練習するしかないとはわかっているけれど、気が重くなる。それは、そう。この空の機嫌と似ている。
できない。やらなければもっとできない。けど、やるのは苦しい。どうしたらいいのだろう。

「――体を固くするとできる事もできないぞ」

半ば投げやりに弾き出そうとして、しなやかな声がそれを遮った。
教室の外から聞こえる声にぎょっとする。うそ。まさか。でも、この声は。凪のように穏やかなこの音声は。
カラリと扉が開かれるその先をまじまじと見る。

柳蓮二、その人が立っていた。

流れるような所作で教室へと入ってきた柳君のその身のこなしには乱雑なところが微塵もない。
もしかして。もしかしなくとも。……聞かれてた?恥ずかしさに、首筋が熱を持つの感じて俯く。
でも、なんで。柳君はさっきまで部活をしていたではないか。なのにもう制服を着て、先程まで汗を流していたとは思えぬたたずまいだ。

「なん、で」

やっとの事で呟くと、そう聞かれるだろうと思っていたと、何故か得意げに言った。

「知らなかっただろうがテニスコートの裏手からだと、少しだけ聞こえるんだ」

そこは、この校舎の真下あたりに位置してるのに気づく。

「始めは水を飲みに行った時に気づいた。以来、毎週火曜は楽しませてもらっていたのだが……」

最近はなんだか調子が悪いな、と指摘されてすごく恥ずかしかった。毎週聞かれてただけではなく、不調だと言われてしまった。
それは、そう、なのだけれど。無様な所を見せた。今すぐ穴に入りたい。あったらではなくもう自ら掘って入りたい。
力なくヴァイオリンを降ろす。

「……済まない、落ち込ませてしまったな」
「そんなことはない、けど。ただ、恥ずかしくて」
「長倉らしい、几帳面で穏やかな音だ。そう恥じる必要はない。
 だが最近、元気がなくて気にしていた。接点がないからいきなり尋ねるのもどうかと思ってな。弾いている時は部活がある。
 歯がゆいと思っていたらこの雨だ。まさに恵みの雨、というべきか」

ふ、と口元だけを上げる柳君。名前を知られていたと内心、驚く。
柳君はかたり、と私の隣の椅子を引いて静かに腰掛けた。

「スランプに陥ると混乱して体が固くなりがちになるんだ。俺はヴァイオリンが出来ないから細かくは言えないが、それは確かだ」

アドバイスだ、と一拍遅れて気づく。

「あ、ありがとう」
「出来ないと思うからできない。上手くいかずとも、そうしようと思う事が重要だ。ようは、心意気だ」
「……心意気?」
「心意気だ」

さも自信ありげに断言するのでおかしくなって肩を揺らした。そう断言されるとなんだかそんな気分になるから不思議だ。

「柳君もそういう時があるの?」
「誰にだってある。ほら、弾いてみろ」

柳君の前で弾くのに、一瞬、躊躇う。けれど既に聞かれている。静かに待ってくれるのに、なんだか安心感を覚える。
いけるかも。そう感じて構え直す。弓を滑らす。
あ、こんな感じだ。漠然とそう思う。そうだ、こんな感じで弾いていたのだ。
滑るように曲が流れ出す。一回軌道に乗ると、調子がいい。
楽しいな、と久しぶりに思う。ずっと苦しいと思っていた。楽しい事を忘れる時が一番苦しいのだと、そう気づいた。
柳君が心意気だ、と言った理由がわかった気がした。
調子はよくとも、一番の難所で結局失敗してしまった。それでも柳君は拍手をくれて。

「良かった。後は練習あるのみだ」
「そうだね。ありがとう。その、色々と。心配もしてくれて」
「どうしたしまして。時間は平気か?」
「え?あ、もう、時間」

慌てて片付けて、一緒に校舎を出る。降り始めた時より雨が強くなっていて、ちょっと困る。傘はあるけれど盛大に濡れそうだ。

「……これを使うといい」

差し出されたのは鉄紺色の傘。

「男物だから少し大きいから多少はマシだと思うが」
「でもそうしたら柳君の傘が」
「長倉の傘を貸してくれ。青で無地だからな。俺がさしていてもさして可笑しくはない」

戸惑う私の手からさっと傘を奪って柳君のを押し付けられる。そのままさして歩き出してしう。

「置いて行くぞ」

そう言われてあわてて肩を並べる。慣れない傘は手になじまない。けれど雫がかかってくることはない。
そっと柳君を見る。
雨は嫌いだ。
でも雨に濡れた緑の、その風情ある佇まいはきっと、柳君は似合う。例えば夏椿のつるりとした葉に雫が落ちて、その緑を一層濃くする、そんな様子はきっと。
雨が、少しだけ好きになれそうだった。これも心意気の問題だろうか。きっと、そうだ。
そう言えば、思ったより上手く話せている事に気づく。緊張を驚きで削がれたからだろうけれど、それでも嬉しい。
今日は助けられてばっかりだ。

「あの、ありがとう。色々と。傘とか、心配とかもしてくれたし。何かお礼、したいのだけど」
「それ程の事をやったつもりはない」
「でも」
「……そうだな、ふむ。長倉は案外、頑固だしな。礼、ではないが時折、側で弾いてくれないか?今みたいに」
「え、でも部活とか」
「開始時間前でも時間は取れる時はある。俺の為に、弾いてくれないか」

言葉に目を丸くした。

「……私なんかの音でよかったら」

そう呟くと、柳君はありがとう、と言って少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
知りたいと思う。
彼のことを、彼の中身を。
憧れから今少し、前に出る。


戻る
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -