エンドレス・サマー
無性に海に行きたいという衝動にここ数日間、かられていた。
寄せては返す波際。塩を含んだ風。空をそのまま落としたのではないかと思うような青。光を反射して、水面が銀に輝く。
海の深い所は瑠璃色の深く包み込むような色をしているらしい。きっと一番奥底は静かで落ち着いていて、悲しくなるぐらい優しいに違いない。
あぁ、けれど今なお人がそこまで辿り着く事はできないでいるのだ。
それでも、海に行きたいと願う。
帰りたいのだろうか。けれど、どこに?何でそう思う?
侑士と手を繋いだまま、電車に揺られる。この時間だと人はほとんどいない。電車の中は柔らかい橙色の陽光が差し込んでいる。
海に行きたい、なんて我が侭を急に言ったけれど、その日のうちに叶えてくれるとは思わなかった。
侑士は忙しいしから大分先になると思ってた。それに海に行きたいなんていうわけのわからない衝動。その内に消えると思ってた。
海水浴をする季節じゃないし、今から行ったら遅くなるとか、家まで送るからって言われても家は反対だし、とか。色々言ったけれど。
「折角の夏希からのデートのお誘いを断るわけないやろ」
と、ぽんと頭に手を乗せて微笑まれたら、ええ、何も言えませんとも。
電車の中で手をつないだままというのは始めてでなんだか恥ずかしい。べたべたするのは好きじゃないから、手とか普段は繋がない。
けれど、あまりにも自然に繋いでいるから違和感がなくて、それが逆に緊張して、心臓が暴れているのが気づかれませんようにと必死に祈る。
まともに顔を見れなくて黙り、俯く。何分そうやっていたか解らないけれど侑士がついたで、と声をかけられ始めて顔をあげた。
「ずっと緊張してて、耳まで真っ赤だったで。なんや、新鮮で可愛いい」
耳元でささやかれて、バッと、手を離す。気づかれてた。しかもずっと見てたなんて。それに、可愛い、とか。私には似合わない。
「う、うっさい!このエロテロリスト!!」
意味不明な罵倒をして、プシュ、と炭酸が抜けたような音がして開いたドアを走って出て行く。
海までひたすら全力疾走。その後ろをクツクツと笑いながら余裕な面持ちで付いてくる。
なんだか悔しくて、さらに速度を上げたけれど海にたどり着いたら自然、足が止まった。
夕日が水の中に沈もうとしている。空も、海も茜に染まっていて、綺麗で、無性に泣きたくなった。
「……どうしたんや?」
急に足を止まった私に不審感を抱いたのか聞いて来たけれど、無視して鞄を放り投げ、靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、海の中にザブザブと入っていく。
泳がないと言ってもこれくらいはいいだろう。走って来たぶん、体が火照っていて海水が異様に冷たい。
侑士は私の好きにさせてくれるようで何も言わない。侑士のそんな所が好きだ。
海に来れば、何か変わるかとかなんで行きたいとかわかるかと思ったけれど、ますます解らない。ただ無性に悲しい気持ちに一杯になる。
「行き過ぎると急に深くなるから気をつけるんやで」
声が、間近でしたのに驚いて体ごと振り返って、バランスを崩した。
「危な……!」
侑士が咄嗟に腕を掴んでくれたけれど、そのまま二人して倒れてしまった。どぼん、と音。冷たい膜に覆われ、一瞬、息が出来なかった。
瞑った目を恐る恐る開くと私を覆いかぶさるかのような体制をした侑士が、視界一杯。
やってしまった、という感情と、心配が入れ混じっている表情に笑う。
「ゆ、しが本気で水も滴るいい男に……アハハハ」
「……そりゃあんがとさん」
ゆっくり体を起こして、立ち上がると私も立たせてくれる。
「制服、びしょ濡れになってしもうたな」
「ごめん」
「ええって、これも青春の一ページちゅーことで」
侑士は冗談めかして言ったのだけど、何故か涙が零れお落ちてしまった。侑士が驚いてるのに、泣きやまないと。
「どないしたん?本当に。夏希、なんか悩み事でもあるんか?」
「悩み事は、ないけど」
優しく涙を拭ってくれるから、ますます、涙は止まらない。
「なんでもええ。思うとる事、言うて」
「……夏って、一番、色々な思い出を作れる時期で」
夏祭り。花火。皆と遠方に出かけるのも夏が多い。合宿だってある。そして、テニスの大会。毎年、その熱気に当てられている。
夏休みという学生にとって一番長い休みがあるだろうからだろうか。
一番、生命力に溢れている時期だかだろうか。
「毎年、忘れられない、一杯一杯に夏を過ごしているって思うのに、気づけば、昔の記憶が薄れてるの」
それが、恐い。
いつの間にこんな早く、月日が流れていったのだろう。
「こうやってまた、忘れてくのかな?侑士とも、こうした事も。日常を忘れてく。全部、大切なはずなのに」
そう、だから戻りたいって思ったんだ。昔に。忘れたくないから、過ぎてく時間をたぐり寄せようとして。
海なのは、そう。きっと侑士と付き合う事になったのが海辺だったから。
テニス部のみんなが遊び回っている中、そっと交わされた愛の言葉は、大切な思い出だから。
「……また、来ような」
「え?」
「毎年、この日に、この場所に。そうしたら絶対に今日という日は忘れへん」
「毎年、なんて。そんな不確定な」
「不確定なんてあらへん。俺ら、まだ中学生やけど夏希と別れようなんて絶対に思わへんし、思わさせん。
どんな用事があろうとも、毎年、二人で来るんや。せやけど、夏希」
そっと頬を包み込まれる。侑士の手は濡れたから冷たかったけど、ほんのり伝わってくる体温がすごく暖かかい。
「忘れても、それを悲しんじゃあかん。向かって来る日々を一杯一杯に生きて、それでええんや」
「でも」
「俺らは何度でも夏を迎える。夏だけやなく、春も、秋も、冬も。けど、毎年違う。同じ夏やけど、違う。
毎年、違うから、毎年を楽しめるんや。同じなんてつまらへん。
やから、毎年ここに来て、一年の思い出を振り返った時に忘れた事を悲しむんやなくて、あぁ、楽しかった、って思うんや。
今までだって楽しかったやろ?これからの一杯を、迎えたいやろ?」
「……うん」
「なら、恐れちゃあかん。大丈夫、俺も一緒にいたるから」
「わか、った」
今が、過去になっていく。私はその全てを覚えていられるほど、記憶力は良くない。
忘却は悲しいけれど、それでも私達は進んでいて、せっかくなら楽しい日々を過ごしたい。
悲しんでいたら、それに気づけないまま、過ぎてしまう。
その方が、とても、悲しい。
本当は悲しむのではなくて、懐かしいって時々思い返してあったかい気持ちになれるようになりたい。
できるのだろうか。
そんな事。
だって未来は誰にもわからなくて辛い事もたくさんある。
でも。
それでも侑士と共に行けたら。
「海、満足した?」
「満足。ありがとう」
すべてを抱擁してくれるような温かい接吻。
愛されているんだと、すべてを出していいのだと言ってくれるそんなふうにそっと唇を重ねられた。
「帰ろか」
「うん」
どちらともなく自然に手を繋いだ。
服は、侑士が友人の銀髪君を呼んで、貸してくれた。お姉さんがいるらしく、女物も持って。
貸し一つとかなんとか言っていてなんだか悪い気分になる、まぁ、これも青春故の過ちって事にしておこう。
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