05


「……うん。もうちょっと頑張ってみなよ。応援してる」
「せやな。ありがとな、里香」

それで通話ボタンを切った。時計を見ると、もう3時になろうとしている。
これから学校に行っても部活は終わってしまっているだろう。
美羽ちゃんからの電話。
それは彼氏とのデートで二回も失敗してしまって呆れられたとナーバスになっていたのだ。
好きだから心配になる。わからない話しでもない。
本当は今日も仁王くんに会いに行く予定だったけれども、友人をほっとけるほど冷たい人間ではありたくない。けれど仁王くんには何と説明しようか。

悩んでいると、ふと机の脇にある鏡に映る自分の姿が目に入る。
幼い頃はこの現象が不思議で不思議で仕方なかった。
確かに幼い頃は鏡の向こう側に進入不可能な世界が広がっていたのだ。
似たようで似ていない世界。それはいったいどんな世界だったのだろうか。
今はその原理を知っているけれど。
その時はそんな夢幻を信じるほど幼くなかったからただ関心しただけど。
それでも一個世界が壊れた気がして。
その事を仁王くんに話したけれど、仁王くんはどう答えたのだったのか。あぁ、駄目だ思い出せない。

ひたと私を見つめる像は思案顔で難しそうな顔をしている。
顔の作りがまだ幼いせいかその表情がまるで似合わない。
どうせ、仁王くんに嘘をついてもバレるだけ。それに理解してくれる。思い悩むだけ無駄だ。

雑誌を手に取る。雑誌は普段から読まないけれど、しかしその中でも確実に手にしない種類のものだ。
題名は「月刊プロテニス」
ぱらぱらとめくって自然に止まるのは栞が挟まれたページ。
桜の花びらがたった一枚だけあるのはシンプルと言うにはあまりにも味気ない。
けれど、それでいいのだ。重要なのは見た目ではない。
プロテニスとあるのに何故か中学テニスへと力をいれているこの雑誌。今回の特集は、立海大付属中学。
カラー写真の中で映るレギュラーの選手はどれも威厳を持っている。
そして、その中には仁王くんの姿も。王者、と呼ばれる程の強豪校の中で仁王くんはいた。
鋭い眼差しでこちらを見ている。

メンバーの紹介では仁王くんは「詐欺師」なんて言われている。
仁王くんの悪戯はいつもこっていたし、人の裏をかいていたけれど、詐欺師なんて蔑称じゃないか。
仁王くんはどう思っているのだろう。

それでも、仁王くんの凄さという物を痛感した。知らない間にこんなに凄くなっている。
私はどこか成長できたのだろうか。自分の事だから、わからないけれど。
ふぅ、と嘆息して、机に突っ伏す。お母さんが行儀が悪い!なんていいそうだけど今はいないし。
鬼がいない間になんとやらだ。
本来ならまだ学校にいるので思わずできてしまった空白の時間を持て余す。やる事なら、それはなくはない。
真面目なら勉強とかあるけど気が向かない。
いい子、とはよく言われた事はあるがしかし真面目なわけではないのだ。
でも本を読むとか漫画を読むとか、したいわけでもない。
何もしたくない。

「仁王くん欠乏症だ……」

会いたい。毎日会って、毎日を楽しませてもらっているから会えないだけですぐこれだ。
情けない。仁王くんが知ったら呆れる。
目を閉じれば直ぐさま仁王くんの顔が浮かぶとは重傷すぎる。溺れている。仁王くんに思う気持ちの波に。
手に入れれば今度はこぼれるのが怖い。
そんな自分の脅えを、仁王くんはきっと知りもしないであろうと自嘲めいた笑みを浮かべた。

世の中、上手くいかない事ばかりである。身に余る事ばっかりおきてジタバタしているだけだ。
ふいに窓ガラスが振動した音がした。一度目は勘違いかと思ったが、二度、三度とあれば違う。
家の中に人がいないから不気味だ。恐る恐る外を覗いて見ると。

「仁王くん!?」

片手をあげた仁王くんはしてやった顔をしている。驚き。けれど、それ以上になんだか嬉しくなる。
空気が砂糖に浸かったような、そんな感じになる。
肺に甘い空気が溜まって、それが全身に行き渡り体が軽くなるような感覚。
仁王くん、と紡いだその声すら甘く色付いている気がした。
窓を開けると寒い空気が部屋の中に入る。激しく紅が輝く空。春は日中との気温の差が激しい。
こんな時間に何故。

「こんばんは、白川」
「こんばんは、じゃないよ!というか何で!?部活は!?というかチャイム使おうよ!!」
「ハハ、驚いとるの。部活はちゃんと終わってから来たぜよ。
 それに、ほら。チャイム使うと白川の母親が出てくるかもしれんじゃろ。
 まだあの人は俺の事、嫌ってそうだしな」
「あ……ごめん」
「白川が謝る事でもなかろ。――少し、外に出れんか?」


仁王くんに言われ、外に連れ出された。置き手紙で友人に呼ばれて、と書いた。嘘ではない。
いざとなれば美羽ちゃんに口裏合わせを頼もう。
仁王くんの横を歩きながら今日、これなかった理由を話すとさして気にした様子も見せずに頷いただけだった。
こんな夕暮れの時間に外出をするのは始めてだ。
学校の都合で帰りが遅い事はあるが、それとはままた違う。そう、逢瀬という言葉がぴったりとくる。

「私の始めては、いつも仁王くんだなぁ……」
「ん?そうかの?」

独り言じみた小さい呟きを拾われた。うん、と頷く。

「こんな時間に出かけるのは始めて。小学生の時もそう。悪戯だって、遊びだって。
 仁王くんが色々見せてくれた」
「白川に、いろんな物、見せてやるって言ったけんの。約束じゃって」
「あぁ、したした。今も継続されてるの?その約束」
「当然。白川との約束はぜーんぶ覚えてるよ。例えば、ほら」

自然な仕草で私の手をつかんで引き寄せられてしまって、耳まで真っ赤になる。
そして指を絡められて、きゅっと強く握られどきどきするやらうれしいやら。

「これも、始めてじゃろ」

返事なんてする余裕がないから代わりに絡めた指を、きゅっと強くにぎる。

「白川、真っ赤」

そのうえ、この声の甘さ。
私が猫だったら、もうぐるぐるごろごろ盛大に喉を鳴らしてすりすりしまくっているところだ。
からかう仁王くんの言葉をいなしながらも手の方に意識を完全に持っていかれる。
だからどこに行くのすら考えに及ばない。
仁王くんについた、と言われて始終俯いていた顔をようやく上げ、それでうわ、と声をあげた。

高台になっているのだろう。町が一望できる。そして、空も近く星がちらほらと見え始める。
どこを見ても、光の粒がまき散らされて。
こんな場所があるなんて知らなかった。大阪は住んでもう長い。
それなのに仁王くんはあっけなくこういう場所を見つける。
促されるままに腰を降ろした。手は繋がれたままで、冷えている中で嫌に仁王くんの体温を感じてしまう。
スカートをはいているせいで曲げることのできない足の裏から草がちくちくと刺激してくすぐったい。

「この前、夜に散歩してたら見つけたん。したら昔の事を思い出してな」
「昔……?」
「ほら、あれ。一緒に逃げた話」

それは、あの事か。そのせいで仁王くんと別れ離れになってしまった、例の。
その当時、私達はあまりにも幼い恋をした。幼かったからこそ周りを省みずにただひたすらに追い求められた。
小学生の恋なんて遊びだなんて言う人だっていた。
それでも私は幼いなりに真剣だった。幼く、純粋に。

いい子、なんてレッテルを張られて何故か肩身の狭い日常を送っていた中にあった一筋の光だったのだ。
私は、何より、自分自身が一番嫌い。いい子と呼ばれる私も。それでもいい子であろうとする私も。嫌い。
けれど仁王くんの側にいると、不思議と息がしやすかった。少し、自分自身が好きになれた。

「タイムリミットも近いからな。連れてきたかったん」
「……仁王くんが、いないと私、寂しい、よ」

思い切って言った言葉に、ひたと金の瞳が私を捉える。

「なら、また逃げるか?」
「今と昔は違うし、捨てちゃいけないものもあるでしょ。お互いに」
「確かにテニスとあいつらは捨てられない」

それが正解で、昔にはなかった思いで、それでいてとても大切な事。そんな単純な事にも気づけなかった。
やっぱり幼かったから。
もうだいぶ空も更けてきた。春の宵は浅い紺に溶けている。
冬のすべてがとっぷりと沈みこむような漆黒の帳はなく、どこか輪郭も淡い。
それは見守るように、私達を照らし出す。

「昔、って言えば、私、鏡の向こうにもう一つ世界があるのかと思ってたんだよ。
 鏡が映し出す理由を知った時は、とっても寂しかった」
「科学は時に無粋なり。仕方なか。けどの、こう考えてみたらどうじゃ」

キラキラと光るビー玉のような瞳が面白そうに細くなる。唇の先端が持ち上がる。

「俺達のいる、ここが、鏡の中かもってな」
「鏡の中の世界がここって?」
「そう。だれも違うなんて証明なんてできん。思うのは自由ナリ」
「……うん、そうだね」

昔、言った言葉とは違うかもしれない。けれどそれは変わったって事で、生きてるって事なのだ。

「ねぇ、仁王くん。私、平気だよ。仁王くんがいなくても、やっていける。だから……きゃぁ!?」

ゴロンと転がった仁王くんが私の膝の上に落ちてくる。
手は離れたけれどこっちのほうがぎゅっと距離が縮まってしまった。

「な、何?」
「泣いてるんかと、思った」
「私が?」
「おう。白川、いじっぱりやき。辛いのに俺の事を困らせんようこう言ったのかと思うた」
「……泣いてないよ」
「みたいやね」

そう言ってのけたのに、動こうとしない。まだ真っ直ぐと私をみてくる。

「星、みないの」
「このままがええ」
「だって、星、綺麗だよ。まだ四月だもん。冷えるけどいろんな色の星が見えるんだって。
 例えば春の大三角形」

星を探すために空をあおぐ。

「しし座のしっぽのデネボラ、牛飼い座の明るいアークトゥルス。それから、乙女座の……」

ただ「好き」ってだけで、何も見えなくなる。それは本当は今だって同じ。
この空の星は明日のこの時間になればまた一転して平然とここに戻ってこられる。
けれど私は仁王くんがいなくなったら軌道から簡単に外れてその日のうちに隕石になれる。
それでもたった一人で寂しい一晩を超えられるのは。
真っ暗の空の向こうに仁王くんへと繋がっているからで……

「あ……」

ぽとり、と仁王くんの頬に雫が落ちた。こんな夜空に雨なんてふらないのに。
仁王くんはがばりと起き上がり、雫を拭き取りもせずに、私の背に手を回した。仁王くんの温もりが、する。

「白川。我慢せんでええよ。白川はいつも自分を殺し過ぎる。そんな所がお前のいいとこ。
 じゃけど……」

ぐっと力が籠った。

「俺には、そんな事せんでええよ」

仁王くんは、甘すぎる。私は甘やかしたらどんどん甘えてしまう。
いけないと思うのに、けれどその体温の心地よさに全て忘れてしまいたくなる。

我が侭な事を支離滅裂なまま言う私の一言一言に、仁王くんは頷きながらゆっくりと頭を撫でてくれた。

今だけは。全てを忘れてしまおう。
夜が優しく包んでしまうから。

そして終わらない夢を見続ける。



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