04


さらさらと雨が降っていた。春の雨はしっとりとしていて、情の細やかな艶がある。
仁王くんの許しを得て、練習を見に行くのが日課になっていたからか。
雨が降ってもコートに来てしまったのだ。
毎日、教室に足を運んでくれるから申し訳なくて、コートの近い所にいると言っても仁王くんが首を縦に振らなかった。
理由は聞いてもはぐらかされてしまったけれど、結局は教室にいることになり。
それでも、今日は教室に行く必要なんてないのではないか。テニスコートは、驚くほどの静寂を保っている。

これの様子だと桜も全部散ってしまう。
桜が散ったら春も終わりになってしまう気がして、桜が散るのは美しいのに見るのに躊躇いを覚える。
そして、春を置いていってしまうのか。家で作っている桜の花びらの押し花をそうと思う。
違う。日課、だなんてただの口実なのだ。まだ春が終わってないと思いたかった。それを確かめたかっただけ。
いないとわかっていたけれど、いたたまれなくなって。……春はまだ終わらないで欲しい。

初めて近づいたテニスコート。鮮やかな緑色のフェンスに雫が伝っていく。
雨の音が、聞こえる。
力なく佇んでいると思いがけない突風に力を入れる間もなく傘を攫ってしまった。雨が私に降り注ぐ。
春雨だ濡れていこう、と言う。雨が軽いから少しなら濡れても嫌悪感はなく、むしろどこか清々しい。
けれどきっと長くいると風邪をひく。そう思いながらも足は動かず、テニスコートから視線をはずさなかった。

どのぐらい、そのままでいただろう。服が重みを持ち始めた頃。
水が跳ねる音に驚いて、上半身だけ向きを変える。
ばしゃばしゃと水を飛ばしながら駆け寄ってきた、銀色に、目を丸くした。
その手には鉄紺色の傘を持っていて。
なんでいるのだろう。
なんて考えている合間にあっという間に側来て、やっぱり運動部は違うなぁと呑気に考える。

「……傘も持ってないで何しとるんじゃ!!」

だからいきなり怒鳴られて肩が竦んでしまった。仁王くんの持っていた藍の傘の中へと引っ張っられる。

「白川、傘は?」

短く問われて、それが怒っていると伝わって。
あっち、とおずおずと飛ばされた傘を指すと私に傘を押し付けて取りに行こうとする。
それだと仁王くんが濡れてしまう。慌てて袖を引っ張って引き止めると、眉間に皺を寄せて私をみる。

「なん」
「濡れちゃう」
「もう濡れてる白川の台詞じゃなかよ」
「……ごめん」

謝ると、困った顔をされた。

「なんで白川は傘を拾わなっかたん?風邪、ひくじゃろ」

諭すような口調で、責めるわけでもなく。困った子だと思われただろうか。
けれどなんで、と問われてもそんなのは自分でもよくわからない。

「……春雨だから」
「濡れて行こうって?」

頷くと、そうか、とだけ返事があった。見え見えの嘘なのに付き合ってくれている。
昔からこういう時に仁王くん無理に聞き出そうとしない。
言葉に促されて、一緒に傘を取りに行く。少し藤色がかかった綺麗な青色は私のお気に入りだ。
傘を拾って渡されたのをお礼をいいながら、受け取って、仁王くんの傘から出た。
改めて仁王くんを見ると全身をしげしげと見られて首をかしげた。何か変な所でもあるだろうか。

「よう濡れとるの。そんなに気持ちよかったんか?」
「あ……うん。雨に打たれるのも、なかなか気持ちいいよ」
「そか、ならええなり。でもそのまま家には帰れないじゃろ」

意地悪く言った言葉にあ、と言葉を漏らす。このまま帰ったらお母さんに怪訝な顔をされてしまう。
なんでそんなに濡れてるのかと怒こる声がアリアリと浮かぶ。
けれど、自業自得だ。大人しく怒られるしかない。

「来んしゃい」

言って、そのまま歩き出す。
言葉の真意が掴めずにそのまま立ちすくんでいると、数歩、歩いてから振り返る仁王くん。
何をしているのだという顔に慌てて側によるとまた歩きだして行く。

「どこに行くの?」
「宿。俺がそのまま帰れていうような奴だと白川は思っとうと?」
「そ、そんな事ない!仁王くん、優しい人だよ!」
「そんなに力説せんでも」

力一杯、否定したのが面白かったのかクツクツと笑う仁王くん。遊ばれてる。
唸りながら仁王くんを睨んでも効果なし。むしろ笑みを深める一方で。
文句を言おうとしたら見計らったようにお礼を言ってくるものだから、敵わない。
仁王くんに口で勝った事なんて数えるぐらいしかないのではないか。もっと強くならなければ。
でも口で強くなるといっても、どうやったらいいのだろう。練習するようなものではないし。
どちらにせよ、とろい私対頭の回転が速い仁王くん。
仁王くんに促されるままに、ついて歩きながら考えるがどうやら解決策は見つからないようだ。
ならばこれ以上考えても仕方無い。思考を切り替える。

「ねぇ、宿って、部外者なのに、平気?怒られたり、しない?」
「平気なり」

本人が平気と言うなら、信じるけど。規則で駄目って言っても仁王くんなら相手を丸めこんでしまうだろうし。
第一、迷惑かけてしまった私が深く追究すべき立場でもない。大人しくついて行くべきなのだ。

宿は思ったよりこじんまりしていた。
雨のせいなのかひっそりとしていたが、しかし比較的最近建てられたのか、古いという印象は受けない。
そのまま中に。廊下はだれもいないく静かだ。
だから遠く、「あかやぁぁ!!」なんて怒鳴り声がよく響いて、驚きより可笑しさが勝る。
忍び笑いしていると仁王くんもあーあー、という顔をしていて。その顔は柔らかい。
仁王くんにも友人がたくさん出来たのか。それはとてもいい事だ。
小学校の頃の仁王くんは友達は作りたがらなかったから。

「俺の部屋は、ここなり……っと、柳生」

仁王くんが部屋を開けると、一瞬固まって、それで私を素早く部屋の中にいれて扉をしめた。
部屋にいたのは、見覚えのある。そう、たしか仁王くんのダブルスペアだ。
視線が合ったから目礼すると彼も軽く頭を下げた。それから説明を求めるように仁王くんを見る。

「柳生は何も見ていない。よか?」

無言の会話の後に、彼はわかりました頷いた。どんな会話がなされたのだろう。
何も言わずとも、なんて以心伝心だ。

「体調には、気をつけて下さいね」
「あ、ありがとう。それから、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず」

すれ違い際に言葉をかけられて驚いた。
そのまま彼が部屋から出て行くのを見ていると上から何かをかけられて変な声が出た。
慌てて置かれたものを手にとると、それはタオルで。

「部屋にシャワーだけじゃけど、あるから、浴びんしゃい。
 体も冷えとるじゃろうし。着替えはTシャツかなんかを貸してやるから」
「ありがとう。そうさせてもらうね」

制服が濡れているから乾かさなければいけないし、結局は借りる事になる。
仁王くんの気遣いを無下にもする気はないのでタオルを持ったまま浴室へ。
体は思ったより冷えていたみたいで。じんわりと手足の先から暖まっていく感覚にほうと溜め息をつく。
途中、Tシャツを浴室に入れる為に腕が延びてきた時には声にならないぐらい驚いた。
入ってきたのは腕だけだったけど。
着替えて、ぶかぶかの服に体格の差を感じる。
……あ、仁王くんの匂いがする。わずかにする男物の香水の香りにドキドキする。
なんだか変態みたいな思考に頭を振って追い出した。

それでも仁王くんって昔から大人びてたけど、ますます子供離れしてしまった気がする。
見た目だけでもなく、ちょっとした事でも、だ。
というかあの艶はない。本気でない。色気あり過ぎで、時々、直視できない。
なんだか、離れてしまったと感じる。
好きな人に釣り合うようになりたいと思うのは、間違った思いなのだろうか。
それでも親しくしてくれるから側にいても苦痛ではない。
むしろ側にいたいというから、恋心というのは、一筋縄ではない。

髪をタオルで乾かしながら浴室から出ると仁王くんの姿がなくて、首をかしげる。どうしたのだろう。
どこに行ったにせよ、私はここで待っているしかない。
ダブルスのパートナーさんが座っていた椅子に腰を降ろす。
時計の音しかしない部屋。窓の外を見るとまだ雨はやんでいないみたいだ。
制服はハンガーにかけて干してある。
包み込むような空気にうとうとしてきて、目を閉じる。

「仁王」

だから、ノックもなしに、いきなり赤い髪の少年が入ってきたのに咄嗟に判断できなかった。
相手もまさかチームメイトがいるはずの部屋に見ず知らずの女がいるのに驚きからか、目を開いた。
それで、見つめ合ったまま数秒。
それから険しい顔で近づいてきて、私の腕を掴む。その力はかなり強くて正直、痛い。
まんまるの瞳が憤怒の色を宿していて、何も言えずに言葉を飲む。

「お前、なんなんだよ!どっから入って来た!!
 というか、それ仁王の服だろ、なんで着てるんだよぃ!
 本当、迷惑なんだよ。ミーハーって節操無しだな!!どこからでも湧いてくるしよ」

一気に怒鳴り声で捲し立てられて、頭の中がグワングワンする。腕も痛いし。
何か言わないと、と思うと言葉が頭の中で空回りをする。悪い癖がまた出た。
俯いたのが肯定かと思ったのか、腕の力がさらに強まる。骨が悲鳴を上げるんじゃないのか、というぐらい。

「どうした、何か言えよぃ!!」
「はい、そこまでじゃ、丸井」

求めていた声に顔を上げる。赤髪君の肩に手を乗せている仁王くんは笑っているけれど、目が笑ってない。
いつも私が見ている仁王くんは優しいし、怒っても、こんなに怒った事はない。
知らない人を見ているようで、恐怖を覚えた。
仁王くんのそんな様子に赤髪君の顔が引きつる。

「だってコイツ勝手にこんな所にいるし、服だって」
「そいつは俺が招き入れたんし、服は俺が貸した。これで文句なかろ。
 ほれ、腕、離せ。今直ぐ出て行って何も言わなきゃ許してやるからさっさと出てけ」
「……お、オウ」

仁王くんの剣幕押されて腕を離して、部屋を出て行く赤髪くん。
部屋を出て行く特に扉を強くしめて大きな音がして体を竦める。

「悪いな、白川。腕、痛むか?」
「大丈夫」
「そか……。ほれ」

渡されたマグカップ。仁王くんはこれを取りに行ってたのか。
お礼を言って受け取り、湯気が立っているそれを口に含むと甘い。ココアだ。甘いものは好きだし、落ち着く。
近くのベットに座った仁王くんを飲みながら伺うと、ん?と柔らかな笑みを浮かべていて。
それはいつもの仁王くんで。
私に怒ったわけではないのだから、私に怒気を見せるほど子供な人ではないのはわかっている。
それでも何を言っていいのかわからない。

「悪い奴じゃないんじゃ。後で言って聞かせるから許してやってくれんかの?」
「怒ってないよ」

仁王くんは優しい。
私も始めのうちは拒絶されたけれど、仁王くんの身の内に入れば仁王くんはどこまでも優しく包んでくれる。
そういう人だ。
なのにそんな仁王くんに恐怖を感じるなんて。私の為に怒ってくれたのに。

「白川」

呼んで、私の側にくる。流れるような形で、私の乾いたばかりの髪を一房、取ってキスをした。
一連の動作があまりにも綺麗で。恥ずかしいと思う前に見惚れてしまった。
なんでこんな行動が様になるのだろう。他の人だったらきっとキザな人、で終わってしまう。
それに嫌味にも感じないから、凄い。

「何かあったらすぐに言いんしゃい。すぐに駆けつけちゃる」

嬉しいのだけど、それは迷惑だと思ってきっと出来ないだろう。

「そんな事なか。白川は、特別」

今度は、耳元で低くささやかれる。
心は見透かされるし、声が甘くて体が溶けるんじゃないかってぐらいだし。

「ありがとう」

やっとの事、それだけ紡いだ。

「会いたいって思ってくれたんじゃろ?そんだけ思われてるん、当然ぜよ」
「……!!仁王くんってずるい!」

最初っから全部わかってたのか。今まで言わなかった癖にこのタイミングで言うなんて。
ふいと仁王くんにそっぽを向くと自然に目に入る外。
雨があがっている。輝かしい太陽が顔を出した。
緑の葉に残った露が白い陽に輝き、水たまりには青空が映り込んでいる。
雨上がりの、世界から切り取ってしまいたいぐらい美しい情景に心を奪われた。

「雨、あがったみたいじゃが……まだ、いるじゃろう?」

当然、という声色にコクンと頷いた。
こんな美しいものを誰かと共有したい。
美しい物を見た時に、誰かに伝えたいと思うのは何故なのだろう。
感動を共有したいのだろうか。
いや、それも少し違って、綺麗なものを発見する。
それは僥倖で貴重なことだから、知ってもらいたい、分け合いたいと、そう思うのだ。
そして、その時にいるのが仁王くんであったなら。

感動を伝えたい人がいる。美しい光景を見た時、ああこれを伝えたいと、真っ先に思い浮かぶ人がいる。

それは、ひどく幸福なことではないだろうか。
ただ静かな、幸福ではないだろうか。

これからも、何があっても、仁王くんの側にいて、こうやって同じ景色を見ていたいと、強く、強く願う。

仁王くんと共にいる、この一瞬一瞬が、愛おしい。



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