02


冷蔵庫から出した麦茶をコップの中に注いだ。茶色の液体がコポコポと音をたててガラスの中を満たしていく。
その途中にお母さんが忙しそうにリビングに入ってきた。
余所行き用の服を着ていて、はて、今日は何か用事でもあるのだろうかと考える。
慌ただしくリビングを行ったり来たりするのを横目にペットボトルの口を上にあげた。

「里香、お婆ちゃんが呼んでるの。お留守番頼んでもいい?」
「はぁい」

間が抜けた返事に不安を持ったのか、こちらを向いたが直ぐに洗面所に姿を消してしまった。
これから化粧でもするのであろう。親族なのだから気合いなんて入れる必要はあるのか。
消えた方を見たままコップを口に運ぶ。はっとするぐらい冷えた水が喉に流れこんだ。

意地なのだろう。
お母さんがこんなにも気合いを入れるのは。
お婆ちゃん、お父さんのお母さんはこの大阪に住んでいる。
以前からお母さんが働いていた事に不満で、大阪に越してきてから何かと呼びつけるのだ。
それで断ったりだらしがない所を見ると、私やご近所さんにウチん所の嫁さんはなぁ、なんて言う。
だからお母さんは意地でも油断は見せない。

けど私は知っている。
それがなければ基本的にはあの二人、気が合う。
お婆ちゃんもお母さんの仕事にもすでに理解を示し始めている。
だから二人共に意地になっているだけ。
人間関係はどんな歳になっても複雑だ。

冷蔵庫にお茶を戻しているといつの間にかお母さんが背後に立っていた。
戦闘準備完了、といった顔をしているのが場違いみたいで少しおもしろい。

「悪いけど、お買い物に行っておいてくれないかしら。
 夕食に間に合うようにするならお買い物に寄る暇がないの。メモとお金を机の上に置いてくから。
 戸締まりはきちんと確認してね。それから、火の元もよ。
 それじゃあ、行ってくるけど大丈夫ね?」

頷くのを確認すると直ぐに出かけて行った。
本当に忙しない。息がつく暇もないのだから。もっとゆっくりとすればいいのに。
充実する為に忙しくするのか、のんびりだけど身の回りに目をやって楽しむか。それは価値観の差なのだろう。

「もう、春なのになぁ……」

春の、眠くなってしまうぐらい穏やかな日和も吹き飛ばしている。私はこんなにも眠いのに。
欠伸をかみ殺しながら机の上のメモを手にとった。メニューを見るかぎり今日はどうやらカレーだ。
疲れた後にこった料理は嫌だという事か。
外をうかがうと朗らかな青色が見える。
うん。せっかくだから買い物は散歩のついでという事で。
時間はあるから少し遠回りをして。訪れ始めた春を探す探検に出かけよう。

カバンの中に財布とメモを入れ。しっかりと玄関の鍵を閉めたのを確認したら、春の空の下に飛び出す。
ふわりとそよぐ風を孕んでワンピースの裾が膨らむ。風も、柔らかくなった。
スーパーとは遠回りな道をあえて選んで通った。桜並木があるのだ。
去年の秋に見つけた場所だから、春になったら絶対に来ようと思っていた。
ひらり、ひらり、と舞い散る様はどこか神聖さを帯びている気がする。
本当は桜の花びらの色はもっと濃かった、という話を聞いた事がある。
けれど私は今の色の方が好き。
だって。

「雪みたい……」

白に限りなく近い色をした花びらは雪みたい。雪は、彼を連想させるから。
目の前をよぎる花びらを両手で掴もうとしたが、失敗した。空中で取るのはなかなかに難しい。
もう一度、と手をのばしたけれど、するりと手の間を抜けていってしまった。と思ったら。
横から手が伸びて両手で包むように桜の花びらを捕まえてしまった。
振り返る。
視界に映る銀の色。
見透かすような琥珀の瞳が私を捉える。
うそ、と唇から漏れた。
だって、なんで。
でも間違えるわけない。
私の体が。心が。
彼だと。
そう叫んでいるのだ。

「幻だと思うか?」

昔より低くなった声。落ち着いた印象を受ける。
桜の花びらを持っていない方の手を差し出された。恐る恐る、というふうに手を重ねる。

「……あったかい」

握られた感触、伝わってくる体温が、ここにきちんといると主張している。
その温もりに体が瞬間湯沸かし器みたいに熱がともった。
涙がこみあげるような感情の波に襲わたけれど、あぁ、けれどそんな事になったら彼をきちんと見られない。
涙をこらえながら彼をしっかりと捉えて笑顔を作った。

「久しぶり、仁王くん」

久しぶり。
今までどんな生活を送ってた?
今はどこに住んでいるの?
色々、思う事はある。それでもこの一言が言えただけで十分に幸せになれる。
少なくとも手を離した時に温もりがなくなった寂しさが気にならないぐらいには。
 
「久しぶりやの、白川」
「五年ぶりだね」
「遅くなってすまんの」
「大人になるまで会えないかと思ってたから、別に、いいの」
「なら、よかった。……白川はこれから、何か用事でもあるんか?」
「買い物があるけど、急いでないよ」
「確かに、ここで遊んでたら忙しいわけないか」

私の手のひらに桜の花びらを置かれた。
お礼を言いながら潰さないように、壊れやすい宝物を扱うかのように手を握る。

「買い物、嫌じゃなければ付き合うぜよ」
「いいの?」
「元から今日は会いに行くつもりだったん。
 住所は教えてくれとったけど、直接、家に行くのははばかれたしの。ちょうど良かったなり」
「……ありがとう」
「どういたしまして」

約束を守ってわざわざ会いに来てくれた事に対してのお礼。仁王くんはくすぐったそうに言葉を返してくれた。
時間はたくさん過ぎ去ったけれど、会いたいと思ってくれてた。
それがどうしようもなく嬉しいのだ。

「この桜、大切にする。押し花にして栞にするよ」
「一枚だけでか?」
「大切なのは枚数じゃないんだよ」

仁王くんが取ってくれたのが大切なのだ。
桜の花びらをハンカチにくるみしまう。これで大丈夫だとニコリと笑って、歩きだした。
一歩遅れてきたけれどすぐに横に並ばれる。
すぐ歩幅が違うと気がついた時は変な感じがした。昔はそんなに変わらなかったのに。
けれど私の歩幅に合わせてくれる。そこは同じ。
同じ所と違う所。知っているようで知らない、という事が落ち着かなくて体の後ろで手を握りながら歩く。
スーパーに向への道もなんだかいつもと違うように思えた。

「仁王くんはどうして大阪に?」
「なんでだと思う?」
「……彼女さんと旅行、とか?」

別れ際に思いは結ばれたと思っている。
けれどそれは独りよがりな思いかもしれないと、不安だった。時間も立ちすぎている。
それに仁王くんはとても魅力的な人だったから。彼女さんができていても可笑しくないと思う。
けれど、そうじゃないで欲しい。

「そうあって欲しい?」
「え、ヤダ」

思わず口についた否定の言葉。それに仁王くんはクツクツと笑って、私の頭に手をおく。
笑われた理由もわからないし、子供扱いのようでその手を振り払った。
置かれた手の感触がまだ、残っていて、神経がそこにいっきに集中してしているかのよう。
やだ、こんなにも、敏感になるなんて。

「わ、笑わないでよ」
「すまん、すまん。彼女なんておらんよ。安心しんゃい」
「じぁあ、何」

拗ねたような口調になってしまった。からかう仁王くんが悪いのだ。
昔からそんな所があったけど全然、変わらないじゃないか。けれど安心したのも事実。

「部活の合宿。テニス部なり。しかもレギュラー。言っとくが強いぜよ」
「それ自分で言うの?」
「プリ」
「あ、出た。懐かしい。ごまかしの常套手段」
「ピヨ」
「仁王、くん?」
「プピ」
「レパートリー、増えてない?」
「プピーナ」
「やっぱり。って、いつまでも言ってないでよ」
「はは、悪いの。反応が楽しくてな」
「からかわないでよ」

不思議だ。自然に話せている。初対面の時、私はいつも何を言っていいのかわからなくなるのに。
話している間にあっというまに目的地に辿り着いてしまった。
籠を取ろうとしたら、当然のように横からひょいと取ってしまわれた。
あ、と思ったけれど、そのまま歩いて行く仁王くんが不思議そうに振り返った。

「どうしたん?」
「……ううん、なんでもないよ」

お礼を言い過ぎるのはくどくなってしまう。小さな親切には気づかないふり。
それに仁王くんは照れ屋だったから拗ねてしまう。だから笑って仁王くんの横へ。
食材を籠に入れながら近況報告みたいな雑談を交わしていく。
仁王くんは春休みいっぱいは、大阪にいるらしい。
それでも部活で会える時間なんてほんの僅かだろう。そんな事をいったら困らせてしまう。
もうだだをこねられる年齢ではない。年をとる度にだんだん理性が不自由を作る。
昔なら、もっと素直だっただろうに。

「部活、見にくるか?」

ポツリとした声に俯きかけた顔を思わず上げて仁王くんの表情を見る。

「見学、してもいいの?」
「かまわんぜよ」

だって、そんな。そんなの駄目だと思っていたのに。
それに来てもいいという事は、また会っていいと言ってくれている。
そんな些細な事に一喜一憂する自分がいて。

「うれ、しい」
「なんじゃ、相変わらず大げさやの白川は」

ふ、と笑う彼。
控えめなその笑い方が恐ろしく、似合う。
卑怯だ、こんなの。
格好良くなってるだろうと思っていたのに予想を遥かに超えてカッコいいいのだ。
手だって、大きくなって男、になっている。
それを感じる度に神経が揺り動かさせられる。
感情の起伏が少ない方だっただけに今ままで寝ていたのではないかと思ってしまう。
長い間会えなかったから、ただただ気持ちを引きずってるだけか、と思う事もあった。

でも、わかる。
何年たっても。

私は仁王くんが好きなのだ。
長い間、忘れていた。
好きだ、という感情を。
スーパーから出た途端、突風が吹いた。

「春一番じゃの」

ぽつりと呟いた仁王くんが空を見上げた。それにならって私も空を見上げた。
空いっぱい、太陽の光が薄く膜を張ったみたいに白々と明るい。
春の空は、しっとりと、綿を含んだかのように丸く、柔らかい。
揺り動く感情はとても激しい。
けれど、この春の空のように気持ちが柔らかくなって、幸せな気持ちになるのだ。

全てが輝いて見えて、自然、笑みが溢れた。



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