※アイドルになる前のお話
化学準備室に行けば先生は職員会議から戻ってきたばかりなのか、ふぅ、と大きく息を吐き出しながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「私はミルクティーが飲みたいです」
先生の真正面に座りノートを開きながら言う。
ついでにクッキーもあれば最高だなあ、なんて考えながら。
「残念だけどミルクティーは置いてないしそもそもお茶する場所じゃないからね」
最もな返答に言葉を返せず、唇を尖らせた。
「そんなに何か飲みたいの?それならコーヒーで我慢しときなさいよ」
「ええ、だってコーヒーは苦いから苦手なんですもん」
「苗字もまだまだ子供だねぇ」
もう立派な大人ですよ、なんて受け答えをし少しの雑談を交わした後、すぐに勉強を開始した。
「えっと、Cl2は単体だから酸化数は0で……」
「そう、んじゃ次の問題ね」
私と山下先生しかいない化学準備室に声が響く。
「ん〜〜、難しい…」
「大丈夫、苗字ならできる。だから教えてるんだって」
難しい問題にぶち当たり唸り声をあげながらも山下先生にフォローされて何とか解き進めていく。
「終わった……!!!先生、ありがとうございました」
「はいはい、お疲れさん」
先程解いたばかりの問題集を鞄にしまいながら口を開く。
「明日と明後日、頑張りますね」
「んじゃ、期待して待ってるとしますか」
「それは困ります…」
扉に手を掛けて1度振り返り、「さようなら」と軽く会釈して準備室を出た。
2年に進級したばかりの頃、4年制大学への進学を視野に入れるようになった。しかし私のクラスは普通科で周りの友達は就職や短大、専門学校への進学ばかりでこの授業内容で大学受験をするには無理がある。
私の通う高校には進学クラスもあったのに、中学の頃の自分は何故普通科を希望したのか、と数ヶ月前に後悔したのは記憶に新しい。一応、3年生に上がるときに進学クラスへの編入を考えているし大学受験を考え始めてからは必死に勉強していて分系科目はそれなりになってきているが化学や数学は絶望的で。
また明日、明後日には模試があるためそれに向けて、山下先生には対策講座を開いてもらっていたというわけだった。
そして翌日から始まった模試。
良い結果を残して少しでも自信に繋げたいと思い気合いを入れて挑んだのだが、2日目の数学で思うように解けず、それを化学でも引っ張る形となってしまった。
山下先生に合わせる顔がない…。
あんなにたくさん指導してもらって、時間を割いてもらったのに。
自己採点を終えた私は悩みながらも気づけば化学準備室の前までやってきていた。
"んじゃ、期待して待ってるとしますか"
がっかりされたくない。
やっぱり今日はやめよう。
踵を返して昇降口へ歩き出す。
「苗字」
聞こえてきた声に顔を上げれば化学準備室に向かおうとしている山下先生がいた。
「あ、こんにちは…」
「今から少し時間ある?」
時間はあるけど精神的余裕はない。私は何も言えない代わりに俯く。
「おいで」
山下先生は何やら察したようで私の腕を引っ張って化学準備室まで連れていこうとし結果来た道を引き返すことに。
中に入ると先生は少しだけ席を外していただけだったらしく、ビーカーでお湯を沸かしている最中だった。
座るよう促され静かに腰をおろす。いつもはそれほど悪く感じない沈黙が心に刺さるようで痛く、私はおもむろに口を開いた。
「あの、模試のことなんですけど……失敗しちゃって…。あんなにたくさん教えてもらったのに…すみません」
「なーに言ってるの。苗字は頑張ったんでしょ?失敗しちゃうことだってある。それにそんなすぐ結果出るもんでもないんだからさ。」
コトリ、と目の前に置かれた桃色のマグカップ。そこからは湯気が上がっていてほんのり甘い香りも漂っている。
「これって…」
「ミルクティー。今日だけ特別ね。だから内緒にしておいてくれる?」
そう言って唇に人差し指を当て優しく目尻を下げて笑う先生に私も思わず笑みが零れる。
口に運んだミルクティーはいつも飲むものより何倍も美味しく、甘くて優しい味がして
だから優しさごと全て飲み干した。
口に広がる優しさを
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