ピアノのおけいこ9 | ナノ


Lesson9 マイペース女子、キレる
 


 休憩を終え、少ししんみりした空気を一層するように二人で楽譜に向かう。
 じゃ、これやろっか、と楽譜に指番号をふる五十嵐くんの左手を見てふと思った。

「そういえば、五十嵐くんて左利きだよね。あれ? 左利きってピアノ弾くのってどうなの? 鍵盤ハーモニカって弾くの右手だけだよね。左手用ってあるのかな……」
「ピアノ、というか鍵盤楽器は両手奏だから右利きとか左利きとか関係ないよ。他にも、ゲームのコントローラも両手で操作するし、パソコンのキーボードだって両手で打つだろ。あれと同じ」

 だから鍵ハも右手で弾いたよ、と手振りでマネをする。エア鍵ハ。
 言われてみてパソコンを思い浮かべる。うん確かに右と左にそんな差はないか? ゲームは家にないからわからないけど。

「まあ左を強く弾いてしまう傾向はあるけどね。あとはバッハのインヴェンションは得意だったな」
「バッハ?」
「バッハって人、知ってる?」
「知ってるよさすがに。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンぐらいは」

 おー、すごいすごい、と拍手される。バカにしてるのか。モーツァルトの別名がアマデウスっていうのも知っているぞ(※注1)。アユと『アマデウス』のDVD観たことあるからね。ほとんど寝たけど。

「前に、バイエルって右手メロディー、左手伴奏が基本って話したよね。ところがバッハの、インヴェンションっていう作品集は右も左も旋律、つまりメロディーなんだ」

「はあ」とよくわからない相槌を打つ。五十嵐くんはピアノうんちくを語りだすと案外止まらない人だと最近思うようになった。

「うーんと、例えばバイエルの右手と左手が、一人の歌手とバックバンドだとしたら、インヴェンションはそれが二人組の歌手みたいな」
「聖子チャンとピンクレディーみたいなもの?」

 うちの母親が好きで、よく歌っていた。あとジュリーとかね。

「もっと若いの出てこないのか……」
「今の若い人の音楽、あんまりわかんないんだよね」
「その言いぐさどこの年寄りなわけ?」
「年寄りいうな。うちの母にシツレイだぞ。ジュリーなんかすごくかっこいいんだから」
「ジュリー? 誰? 洋楽?」
「ジュリー知らないの? ププ」
「ププって。なんか腹立つな。ていうか、あれ? なんか話がずれてきたような……何の話してたんだっけ」

 知らんがな。さっさと次の曲やろうぜ。


***


 学食に行くと、案の定後藤くんが待っていた。
「席取っといてやったよーん」と手をひらひらとこちらに振る。五十嵐くんは、テーブルに自分のバッグを置きつつも「頼んでないけど」と冷たい。

「ひっどーい! てかなんか俺最近『ひどい』ばっか言ってる気がしない? おっすー、よっちゃん」
「それイカみたいなんでほんとやめてもらえます?」
「じゃあことりん」
「ほんとにやめてください」

 後藤くんの軽いノリも慣れてきた。並んで座る彼らの向かいの場所に、私もいつものようにバッグを置き、先週はカレーだったので今日はラーメンにしようかな、などと考えながら椅子に座ってバッグの中の財布を探していると五十嵐くんがそれを制した。

「今日、俺おごるよ、昼」
「え?」
「さっきの話。お礼」
「お礼? 謝罪じゃなくて? 私を年寄り扱いしたことの」
「違うよ! その前の話」

 え? その前のって、えっと、感謝してると言っていた、あれのこと?

「いや、おごられるようなことじゃないし。むしろ本来なら私が毎回毎回おごるべきところなのに、おごられちゃったら今後ピアノ教えてもらいづらいし。でもどうしようカツカレーが食べたいかも」

 あ、つい本音が。

「ラーメンかただのカレーじゃないんだ。さすが」

 五十嵐くんが笑った。
 えーなんでー俺も俺もーと、その横で後藤くんが五十嵐くんに寄りかかって、拳骨を喰らう。


 すると、私の隣の椅子がいきなり引かれ、誰かが座った。

「ここ空いてる?」

 一瞬驚いて、横を見ると、座ったのは先週五十嵐くんの元彼女の栗原さんと一緒にいた女の子だ。
「潤、後藤、久しぶりだね。元気?」と笑顔で話しかけるところを見ると、彼女もフットサル同好会とやらなんだろうか。

「小野ちゃん、久しぶりだね」

 後藤くんがにっこり話しかける。彼女はそれに頷いて応え、テーブルに肘をつきながら顔は私の方へ向けた。顔は笑顔なんだけど、なんか怖い。

「ねえ、あなた潤と付き合う気?」
「は?」
「潤のことよく知らないで一緒にいてもいいことないと思うけど」
「え?」
「え? 何? 潤と四谷ちゃんて付き合ってんの?」
「小野、お前何の話……」

 突然の話の切り出しに、後藤くんと五十嵐くんが驚いたように何やら言い出すが、小野さんとやらの顔はニコニコと私に向けられたままだ。笑顔だ。笑顔なんだけど。

「先週仁美と話したよね? 仁美と潤は……」
「ちょっと夕子、待って、ねえ」

 そこに栗原さんが慌てたようにやってきた。小野さんの袖を引っ張って立たせようとするが、彼女はそれには従わない。
 私以外の面々が「ちょっと夕子」「仁美はいいから、ちょっと話すだけだから」「お前ら一体なに、何の話してるんだよ」「え? 何?」とうるさい。

 なんだろう、この置いてきぼり感。そしていたたまれない感。これか、アユが危惧していたのは。先週の牽制に引き続き、再び経験するリア充の修羅場(?)。登場人物増えてるし。それにおかしい、私は無関係なのに。いや考えてみたら先週私はほとんど喋らなかったから、私は関係ないということがそもそも彼女らに伝わっていないのか。そりゃ喋れないよ、だって私人見知りだし!

 何これ私はどうすればいいんだ、と思っていたら小野さんが私に向かって言った。

「潤、マザコンだと思うけど、いいの?」
「は?」
「いつまでもお母さんお母さんって言ってる男なんだから、やめた方がいいよ」
「夕子!」
「小野ちゃん」

 思わず五十嵐くんを見る。五十嵐くんも私を見てる。彼の顔がちょっと悲しく笑った。

 私は、他人の恋路を邪魔する気もないし、友人の恋を応援しようと恋敵(実際は違うにしてもこの場合は私)を牽制するのも別に悪いこととは思わない。当事者ともなれば鬱陶しいことこの上ないのはわかったけれど。
 でも。
 マザコンてなんだよ。亡くなった親を思うことが悪いのか。いいや、生きている親だって、親を好きで悪いことなんかない。
 それでも、彼は自分で気持ちに整理をつけた。彼は彼で頑張っている。だったら彼女だってもっと気持ちに寄り添ったっていいのではないか。お母さんより自分を見てほしいとかさ、なんだそれ。
 五十嵐くんは、お母さんと、ピアノが好きだ。それの何が悪いのだ。いいじゃないか。そしてそこに自分も並べてもらえば、いいじゃないか。
 
 座ったまま「はーっ」と、大きな長い息をつく。周りのみんながぴくっと黙る。
 私は、小野さんの方を振り向いて、にっこり笑った。


「私は重度のファザコンだから、五十嵐くんとはお似合いだと思いますよ。ご心配なく」


 そこにいる一同がみんなポカンとした顔をする。構わずに私は続けた。

「私はファザコンをこじらせたあげく、父と同じ大学に入り、父が教えてくれた特技でアルバイトをして生活し、父と同じ職業に就こうとしています。父を尊敬しているし、今でも大好きですよ」

 そう、水泳の得意だった父は、小学校の教員だった。
 


「もう8年も前に亡くなってますけどね」



 五十嵐くんが息を飲んだのがわかった。

「ついでに言えば、弟も妹もそろってマザコンでシスコン。一家揃って見事なものです。だからこんな私は五十嵐くんとお似合いでしょう?」

 私は席を立ってバッグを掴む。

「じゃあ私、バイトがあるからこれで失礼します。五十嵐くん、また来週」

 彼に軽く手をあげて、4人を残してテーブルから去った。

 カツカレー食べそこなったじゃないか。くそ。





(after word)
※注1 モーツァルトの別名がアマデウスなのではなく、ミドルネームがアマデウス。本名はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトというんですね。ことりは勘違いしております。



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