夏の話 4


「ねえ、お母さん」

肩を優しめに揺さぶると少し唸り声が聞こえた。もう少し強めに揺さぶってみると寝返りをうってぼーっとした目でこちらを見ていた。

「私、あのお箸嫌。嫌いじゃないけど前のが良いの。まだある?」

数秒間の間があって、彼女はふんわりと笑った。

「里恵ちゃんがそんなこというの珍しいね。うん、まだあるよ。食器棚の引き出しにちゃんと入ってる」

ちゃんと残してくれてたのかと、意外だったけど嬉しくて、そんなつもりはないのに鼻がツンとして目が熱くなった。ぽろぽろと人生で一番じゃないかってくらいの涙が出てきた。


「やだ、そんなにあのお箸が好きだったの?知らなかったな、母親失格だね」
「違うの。違うの…捨ててなかったことが嬉しかったの。もう、捨てちゃってたとおもったから、だから、母親失格なんかじゃないよ。だからね、私のことも捨てないで。どんなに素直でいい子でよく笑う可愛い子が現れても、ずっと私を娘でいさせて」

自分でびっくりするくらいにスラスラと言葉が勝手に出てきた。これが自分の本音だとなんとなく分かった。だからこそ恥ずかしくて、さらに泣いてしまった。

「馬鹿だなぁ、里恵ちゃんは。私が里恵ちゃんを捨てるわけがないのに。私にとって一番大事で可愛いのは里恵ちゃんなんだから」

びっくりしたみたいで、一瞬ポカンとした顔を綻ばせ、私を抱き寄せて優しい声色で言われた。この時私は小さな頃以降初めて声をあげて泣いた。


(私は愛されているという証拠が欲しかったんだ。)
言葉が欲しかったのだ。母の愛は分かっていたけど、天邪鬼な私は疑う事しかできなかった。
ミーン、と蝉の声が微かに聞こえる。パトカーの音は遠ざかって行った。それに加えて母の香りに安心して私は眠気に襲われた。母もきっと、そろそろ眠る。

朝起きたらきっとまた蝉が鳴いていて、蒸し暑くて、朝ご飯のお箸は百均のボロボロのが出てくる。そして何年振りかに笑顔でおはようと言えるのだ。





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