其の十八



腕の中に閉じ込めた千草の身体が強張った。嫌だったのだろうか、と銀時は思ったが腕を解くことはしなかった。逃げてしまわないように、腕に力を込める。それでも千草は半透明のままだ。

「ぎ、さん?どし、の?」

まるでノイズが入ったように断片的に聞こえる声。温もりのない身体。安らぎを与えてくれる匂いさえ感じ取れなくなって銀時は動揺した。千草が本当にいなくなってしまう。

だめだ、だめだ。いかないでくれ。俺を置いていかないで。

「行くな」

ようやく振り絞るように声を出した。

「でも、久坂さんところにいくだけだよ?」

変な銀さんね、と千草は笑う。
違う、そうじゃない。
真実を打ち明ければ、彼女はどうするだろうか。帰れるチャンスを逃がしはしないだろう。
だから、千草が彼女が元の世界に帰ることを選んでしまったことを考えると、怖くてとても言えなかった。卑怯な手を使ってでも、この世界に引き留めたかった。
どうすればいい。俺は。
自分の気持ちさえまともに伝えれなくて、千草を傷つけて泣かせて。今更、好きだのなんだの言えた立場ではない。
千草を抱きしめたまま、銀時は己の気持ちと葛藤する。はやくどうにかしないと手遅れになってしまう。



銀時の逞しい腕に抱かれながら千草は胸の高鳴りを押さえるのに必死だった。好きなひとに背後から抱きしめられて、平気でいられるわけがない。銀時の様子に違和感を感じていなければ今頃頭から湯気が出てショートしていたに違いない。銀時がどうしてこんなことをしたのか千草には分からなかったが、心なしか銀時が震えている気がして、千草は銀時の腕にそっと触れた。何に怯えているのか知らないが、銀時はひどく動揺しているようだった。

「銀さん、大丈夫だよ」

なにが大丈夫か分からなかったが、銀時の腕を軽く擦りながら言った。穏やかな声でゆっくりと。銀時の腕の力が緩んだ隙に、銀時の腕の中でもぞりと身を返し、銀時に向き合う。銀時はひどく不安げな顔をしていた。まるで捨てられた子犬のような目で千草を見ていた。

「どーしたの?」

尋ねるが銀時は答えない。一度拒絶されただけに触れてもいいものか戸惑った千草だが、様子のおかしい銀時を放っておくことができず、躊躇いながらも手を伸ばし頬に触れる。

「私はここにいるよ?」

安心させるつもりで言った言葉だったが、次の瞬間には息も出来ないほど強く抱きしめられた。



千草の言葉を聞いた瞬間、銀時は衝動を止めることができなかった。変わらず半透明のままの彼女を今度は正面から抱きしめて、背中に回した手に力を込める。

「違う。違うんだ。お前にいったこと全部。ありゃ嘘だ。千草が俺を好きだと言ってくれたとき、嬉しかった。俺ぁ情けねぇ男だからよ、自分の気持ちに蓋してた。怖かったんだよ。お前を失ってしまうことが。だけど、今はお前が俺のそばからいなくなってしまうことがもっと怖い」

そこまで言って銀時は千草の肩を掴み、彼女の顔を、潤んだ黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。覚悟はもう出来ている。

「千草が好きだ」

仲間としてではなく、恋人として共に生きたい。

「ずっとそばにいて欲しいと思ってる。だから、どこにもいかないでくれ」

半透明だった千草が徐々に色を取り戻していく。匂いが、体温が戻っていく。
千草の双眼から涙が落ちるのを見て、銀時はこらえきれなくなり再び千草を抱きしめた。
傷付けるかもしれない。危険な目に合わせるかもしれない。失うことへの恐怖が完全に拭えたわけではない。だが、もうそんなことどうだっていい。千草がそばにいない日常を選ぶぐらいなら、千草を護り抜く日常を選ぶ。
この命にかえても護ってみせる。

「護るよ、俺が。どんなことがあっても千草を護ってみせるから。だから、頼む。俺と一緒にいてくれ」

それはまるですがるような想いだった。銀時の声は震えていた。

「うん。私、銀さんのそばにいるよ」

銀時の広い背中を優しく撫でる千草の小さな手。胸の内がじんわりと暖まっていく。

「なにがあっても、絶対にそばにいる」

穏やかな、それでいて芯のある声。それは銀時を安心させ、同時に臆病な気持ちに勇気を与えてくれる。
瞼が燃えるように熱くなり、視界が滲む。銀時はそれを悟られないように千草を抱きしめる腕に力を込める。二度と離すまいと強く。優しく。


千草は夢見心地のような気分だった。
銀時が自分を好いていてくれた。そばにいることを望んでくれた。嬉しくて舞い上がってしまいそうだった。
非力で、何の力もない。銀時たちのように刀を握れるわけでもなく、何か秀でた才能があるわけでもない。だけど、銀時を護りたいと思った。この世界で銀時と生きたいと。
銀時の力になれることを少しずつ見つけていけばいい。

ーこの命にかけて。銀さんを護るよ。

「銀さん」

返事はない。だが、気にせずに千草は続けた。とびきりの笑顔を携える変わりに、柔らかな声で。

「まだ、言ってなかったね。お帰りなさい」
「……おう。ただいま」

少しぶっきらぼうな返事が返ってきて、千草はくすくす笑った。
甘えるように厚い胸板に頬を擦り寄せる。
すると、背中に回っていた手が後頭部に添えられ、優しい手付きで頭を撫でてくれた。
とくとくと、静かに脈打つ心臓の音が心地よく千草は目を閉じた。
ずっと、この時が永遠に続けばいいのにと思った。


暫く抱きあっていた二人。銀時は瞼の熱が引いた頃合いに千草の肩に手を置いて、身体を離す。千草は頬を紅く染めていた。つられて銀時も顔を火照らせる。

「あ、あのよぅ……ス……いいか?」

銀時はもにょもにょと口を動かした。小さすぎて声が聞こえなかったのか、千草が「なあに?」と聞き返してくる。

「き、キスしてもいいか?」

千草が更に顔を真っ赤にさせて、目をあちらこちらに泳がせた後、顔を隠すように俯いた。

「そ、それは聞くことじゃないよ」
「……うん」
「ふつう、キスしていいかだなんて聞かないよ。銀さん、女の子の気持ち全然わかってないよ」
「はい。……じゃあ、どうすればよかったんですか」
「し、知らない。そういうのは自分で考えてよ」
「うん」

返事をうやむやにされた気もするが、千草が抵抗する様子も無かったので、同意を示したと取ることにした。
周囲の気配を探り、誰もいないことを確認する。どんどこどんどこ太鼓を打つような煩い鼓動。たかがキスひとつに柄にもなく緊張していた。
キスってどうやるんだっけ。マウスツーマウス?舌は入れていいんだっけ。
頭の中であれこれ考えながら、緊張をほぐすように小さく息を吐いて意を決したように、千草の頬にそっと触れる。
指先に感じるしっとりとした肌の感触が心地よく、ずっと触れていたいと思った。

「千草」

名前を呼んで、頬に触れる手とは反対の手で顎を摘まんで持ち上げる。
千草が瞼を閉じたのを合図に、銀時はそっと触れるだけのキスをした。随分と子供じみた口付けだが、砂糖菓子のような甘さに、銀時の心は満たされていく。
ずっと触れたかったものにようやく触れることが出来て、銀時はタガが外れそうになった。
だが、ここでもっと先に進んでしまったら嫌われるに決まっている。理性を総動員させ、溢れ出る衝動を堪えて、名残惜し気に唇を離した。
睫毛を揺らして、千草が瞼を持ち上げた。が、どことなく照れた様子ですぐに視線を逸らした。
そのかわいらしい仕草に、愛しさが込み上げて銀時はぐぅっと唇を噛み締めた。
きっと場所が違えば、彼女を押し倒してしまっていたに違いない。台所でよかった、と銀時は安堵する。
「キス、おわり?」
「なに、足りなかった?もっと凄いやつして欲しかったってか」
「ち、ちがう……そーじゃないの。嬉しくて、ドキドキして、るから……これ以上ドキドキしたら、死んじゃう」

死んじゃうのは俺!

銀時は思わず叫びそうになった。
頬を染めて、もじもじする千草のあまりのかわいさに猛る衝動。

「キスぐれぇで大袈裟な。ガキじゃあるめぇし」
「どーせガキですよーだっ」

にたにた笑い千草をからかう銀時だが、自分で言った言葉が自分に突き刺さる。余裕ぶってはいるが、気を抜いたら目の前の愛しい存在に殺されてしまいそうだ。色んな意味で。
唇を尖らせて拗ねる千草の髪を掬って指先で弄び、指の背で頬を撫でる。本人は自覚がないが、銀時の千草に向ける目は愛しげに細められていた。

「この続きは、また今度な」

耳許で甘く囁いて額同士をくっつけてやれば、全身を真っ赤にさせた千草がポンッと小気味いい音を立てて頭から煙を出した。




暗転。

銀時と千草のぎくしゃくした雰囲気がなくなったことに気付いた面々。
なにか進展があったのかと、銀時に悟られぬようこっそり観察してみれば、二人を包む甘い空気に秒で察した。
「銀時さんと千草ちゃんついにくっついたみてぇだよ!」
「まじでか!ようやくか!」
「いやぁ〜あの甘酸っぱい感じみてるのも面白かったけど……二人がくっついたならなによりだわ」
などと銀時と千草の知らないところで口々に囁かれ、噂は直ぐに広まり本拠地内が細やかな祝杯ムードになったのは、また別の話。





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