其の十六 明け方、銀時たちは奇襲を仕掛ける為に用意をしていた。牙狼族は山を越えたところの廃集落に本陣を構えているため、日が暮れない内に山へ入り、かたをつける。それが桂と高杉が考えた作戦である。 「銀時、くれぐれも無茶するんじゃないぞ!貴様は昔っから突っ走って行動することが多いからな!いいか、押さない駆けない喋らないだぞ!」 「いや、なにその避難訓練。戦で押さない駆けない守ったら死ぬだろーが」 「ちゃんとおやつは持ったか?ハンカチは?お弁当は持ちましたか?」 「遠足じゃねーんだよ!だぁってろ!」 「銀時!そんないい加減だから、いつも怪我をするのだぞ!マキロンと絆創膏も持っていきなさいよ、あと正露丸も!貴様はすぐ拾い食いするからな、お腹壊したらこれを飲むのだぞ!」 「うるっせぇぇ!おめーは母ちゃんか!いー加減、黙っててくれない!?お前が正露丸飲め!」 銀時は横からごちゃごちゃ言ってくる桂の頭を叩いた。 朝っぱらから電波なことを口にする幼なじみの相手をしていると無駄に疲れる。 こちとら寝不足だってぇのに。 元来、早起きは苦手な質だ。大きな欠伸をしながら手や足に防具を巻き付け、胴丸を身に付ける。愛刀を差して身支度は完了だ。 銀時と行動を共にする部下たちは既に門の前に集まっていた。銀時が登場するやいなや、おはようございます!と野太い声が揃う。 「はぁい、おはよーさん。誰も寝坊してねぇな。おめぇら、えらいぞ〜」 「銀時さんが一番最後っすよ」 「トップは最後に出勤するもんなんだよ」 「銀さんっ、待って!」 小走りでやってきた千草の姿を見た途端、銀時の胸が跳ね挙がる。千草へ抱く感情の意味を漸く知ったのだから、まだ気持ちの整理がついていなかった。昨夜もそれで殆んど眠れなかったのだから。 千草は銀時の元へ駆け寄ると 「あの、これ。お握り。急いで握ったから形が歪だけど……。行きに皆と食べて」 竹皮に巻かれた小さな包みを銀時に差し出した。その傍らでは三太が部下たちに握り飯を配っていた。 銀時はむず痒くなった鼻の先を掻く。 「ありがとな」 「無事に帰ってきてね。約束だよ?」 「……おう」 差し出された千草の小指に指を絡める。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」 鈴のような声で口ずさむ千草の丸い頭を見つめ、銀時の口許は自然と綻んだ。 胸の中いっぱい、春の陽射しのような暖かな気持ちが満ちていく。 ああ、抱きしめてぇなぁ……。 なんて溢れてくる衝動をぐっと堪える。 変わりに、千草の頭を撫でてやった。 「うまい飯炊いて、待ってて。あと、なにか甘いもんも。そうさなぁ、おはぎが食いてぇな」 「ふふ。ちょうどね、坂本さんたちが仕入れてきた小豆があるらしいの。美味しいご飯炊と、それからおはぎを作って待ってるね」 「ん」 「あとそれから」 火打ち石を出した千草が銀時の右肩口で二、三度石をカチカチ打ち鳴らした。切り火だ。 「どうか、ご武運を」 切り火とは、厄除けのためのまじないである。妻が出かける夫を送り出す光景は珍しいことではない。 ――切り火をする夫婦は円満らしいですよ。銀時もいつかかわいい奥さんに切り火して貰う日が来るんでしょうねぇ。 なんて松陽が言っていたのを思い出して、銀時の鼻の先がまたむず痒くなった。 「切り火で見送られるたぁ縁起がいいっすね、銀時さん」 「千草ちゃん、俺たちにもしてくれよ」 「だめだめ。あれは銀時さんの特権だからね。三太宜しく頼むよ」 「しゃーないお人らですね」 横にいた三太もまた袂から火打ち石を取り出して、切り火をする。 千草や三太に見送られて銀時たちは本陣を発った。 ◎ 牙狼族の拠点を目指し、銀時たちは山道をえっちら、おっちら歩いた。 道中、休憩がてらに千草が握ってくれた握り飯を食べた。形は歪だったが、塩の効いた握り飯は旨かった。 「銀時さん、千草さんとは仲直りされたんですか?」 「んぐっ、」 黒子野の唐突な質問に、口の中に含んでいた握り飯を危うく詰まらせそうになった。 黒子野はなに食わぬ顔で竹水筒を差し出す。 「うぇっ……げほっ……なんで、てめぇにそこまで教えなきゃなんねぇんだよ」 「朝のやり取りからして仲直りしたのかなとは思ってはいたんですが……ああ、よかった」 「おい、人の話聞いてるぅ?」 「銀時さん。僕達は貴方に惹かれてこの隊にいるんです。貴方が幸せだと僕らも嬉しい。みんな、そうです」 「そうですよ、銀時さん。俺たちはあんたと千草ちゃんの仲を応援してるんですからね!」 「いや、おいおいおい。ちみたちぃ?なにを勘違いしてるんですかぁ?別にあいつとはそんなんじゃねぇからね!」 必死に否定する銀時だが、真っ赤な顔で言われたって説得性はない。 無敵を誇る白夜叉も所詮はひとのこ。恋煩いには敵わない。 「銀時さんがいれば、こんなのちょんのまに終わるっすね!はやく帰って、千草ちゃんを安心させましょう!」 「楽勝っすよ!千草さんが待ってますからね、銀時さんだってはやく会いたいでしょ」 武神白夜叉がいれば百人力。 牙狼族の拠点は抑えてある。そこにいって、敵を潰し、大将首を取って終わり。いつもの奇襲となんら変わりはない。 「いや、だからなんであいつの名前が出てくんだよ!関係ねぇじゃん!」 朝からあんな甘酸っぱい場面みせつけられちゃあ隠しきれないってものっすよ、銀時さん。 喚く銀時に、暖かな眼差しを向けて部下達は思った。口に出したら殺されそうなので言わないが……。 ◎ 「ひいー、ふぅー……ざっと2、三人ってとこっすかね。桂さんの読みは当たってましたね」 鬼兵隊のからくり技師お手製の双眼鏡を覗きながら、部下のひとりが言った。 今回の作戦は崖から攻めるものだ。 比較的緩やかな偶配なので、気配を隠しながら降りるのは造作もない。まさか、崖から攻めてくるとは思ってもいないのか、護りは浅い。 ふいをついての、攻撃。 義経の逆落としならぬ、桂の逆落としだ。 ぷぉ〜ん ラッパが鳴った。漂う香ばしい匂い。飯の時間を知らせる合図のようだった。 「銀時さん、攻めるなら今しかねぇっすよ」 「奴さんが飯に気を取られている隙に仕掛けてしまえばいいんっすよ。やつら、きっと今頃油断してますよ」 「まぁ、待て」 早く奇襲を仕掛けたい血気盛んな部下達を制して、銀時は唇をぺろりと舐めた。 「最後の飯くれぇゆっくり食わせてやりぁいーんだ。こっちも気長に待とうぜ」 銀時は薄く笑った。呑気なことを言っているわりに、赤い瞳は瞳孔が開いている。戦前の夜叉の昂りに、部下たちはごくりと生唾を飲み込んだ。先ほどまで、顔を真っ赤にしていた人間と同一人物とは思えないほど、銀時の雰囲気はがらりと変わる。 張り詰める空気に、誰一人として声を発する者はいなかった。 「飯、終わったみてぇっすよ」 双眼鏡で様子を窺っていた部下が言う。 と、それまで胡坐を掻いて鼻をほじっていた銀時がゆるりと立ち上がった。 「さぁて。わんこと戯れる時間だ」 刀で肩を叩きながら銀時は部下たちに告げる。 「てめぇら、俺に続け。遅れはとんじゃあねーぞ」 気だるげに言うや否や、銀時は駆け出した。並外れた脚力を持っている故に、崖を駆けることなど朝飯前だ。その部下達もだ。元は飛脚をしていたとか、とび職をしていたとか、足に自信のある男たちばかりが集っていた。部下たちも銀時に続いて、駆けた。 地面に近づくタイミングで銀時がぽんっと跳ねた。鯉口を切り、崖の下で立ち小便をしていた天人が突然降ってきた白い塊にぎょっと目を見開いた瞬間、抜刀し、真芯から斬りつける。叫ぶ暇も、刀を抜く暇も与えなかった。 陣営の周りで見張りをしていた天人に音もなく近づき、斬る。立ち小便をしていた天人を斬った。 「敵襲〜!敵襲〜!」 事態に気づいたものが叫び、天人たちが群れを成す。剣先の殆どは銀時に向けられていた。 「白夜叉の首をとれ!」 「白夜叉の首を取ったら昇格も間違いねぇぞ!」 「みんな大好き白夜叉さんのおでましですよぉ〜。お兄さんとおいかけっこしたいワンコはだぁーれだ」 鼻息を荒く吐き、にたりと嗤った。耳許まで口が裂けているようにも錯覚させるその鬼気迫る姿。凡そ目の前の天人よりも牙を生やした獣らしい。 「ひぃっ」 青ざめた誰かが情けない声を出した。 「怯むな、数で押せばいくら白夜叉とて勝てるはずがない!」 喚いて、硬い光が銀時に向かって一斉に振り下ろされる。 銀時は地を蹴り、跳躍すると、落ち様に天人の頭上から切りつけた。 刀を弾き、交わし、踊るように、跳ねるように、刀を振り、肉を斬る。銀時の斬撃を止められるものはいなかった。 敵のひとりが黒く光るなにかを手にしていたのを見逃さなかった。 銃だ。 攘夷志士の間で銃などの飛び道具を使用することはまずない。刀を握ってこそ侍。そんな考えを持つ輩が多かったからだ。 珍しい物が好きな辰馬が、南蛮から取り寄せたという武器を見せて貰ったことがある。 ――こいつぁ、拳銃じゃあ。すみすあんどうぇっそんちゅう名前らしい。こん穴に、弾を詰めてのぉ、こん穴、銃口を相手に向かってずどんと一発ぶち込んでしまいらしい。西洋じゃあ刀の変わりに銃でどんぱちしよるらしいがよ。 掌に収まる程度の小さな黒い塊だが、殺傷能力は刀よりも高い。 銃口が、部下のひとりに向けられている。天人の指が引き金に掛かった。 その瞬間、考えるより先に身体が動いた。男を突き飛ばす。 「銀時さん!」 がんっ、鈍い銃声と共に焼き付くような痛みが土手っ腹に走る。痛みに苦しみ藻掻く暇なく、堪え、踏ん張り、刀を握る手に力を込め、目の前の天人を斬る。 「俺なんか放っておいてもよかったのに!あんたに死なれちゃ、俺たちは」 庇った部下が青ざめた顔で言った。 部下たちに悟られるわけにはいかない。ここで倒れたりでもしたら、それこそ士気が下がり、全滅し兼ねない。 戦場において、銀時は光だった。 尋常ならざる強さで敵を倒し、道を切り開いていく。決して折れることのない標。 銀時自身も分かっていた。自分が標となっていることを。 だから、激痛に襲われても決して顔には出さず、いつものように不敵に笑って 「たいしたぁこたぁねーよ。こんなのかすり傷だっての。痛くも痒くもねぇわ。」 胴丸を叩いて、何でもない風を装う。敵の数は報告以上に多い。しかも、相手は体力が人間以上といわれている牙狼族だ。持久戦に持ち込まれてしまえば、こちらが振りになる。 「誰ひとりとして死んでいいわけあるか。誰も死なせやしねぇよ。……おい、黒子野。そいつらをつれて、とっとと逃げろ」 「ですが、銀時さん……あなたは」 「殿を務めんのは俺の役目だ。絶対に追いつく。そうでなかったら、援軍を呼んでくれ」 「……必ず戻ってきますから。あなたを死なせはしませんから」 そう言って黒子野は他の物達に指示を出した。それでも戸惑う部下たちに銀時は「いいからいけ!」と怒鳴りつける。後ろ髪引かれる顔を浮かべていたが、やがて背を向けて走り出した。 「逃がすな、追え!」 「おいおい。目の前におめぇらのだぁいすきな白夜叉様がいるってぇのに無視ですか?躾のなってねぇわんこどもにやぁたっぷりとお仕置きが必要だなぁ」 追いかけようとする天人たちの前に立ちふさがり、三郎お手製の手榴弾を投げた。 手榴弾と言っても、実際爆発するわけでもなく、煙で相手を目眩ましするというだけのその場しのぎの武器だ。 「なんだ、これ!」 「前が見えん!」 「くっさ!」 煙の中で叫ぶ声が聞こえる。 三郎が、「犬は人間の何倍も鼻が効きますからね。ちょっと細工しておきました」と言っていたのを思い出す。 銀時がすん、と鼻を鳴らすと、微かに香るくさやの匂い。 三郎君よぉ、やるじゃねぇか。効果てきめんじゃん。 にやりと笑って、身を低くし、つむじ風を巻き起こしながら、銀時は煙の塊の中に突っ込んだ。 視界は煙で霞んでよく見えないが、気配を探り、斬る。尋常ならざる速さで敵陣を駆け抜けた。 銀時が煙の先に出た瞬間、振り降ろされる硬い光。銀時は反射的に受け止めた。強い衝撃が腕を伝って傷口に響く。襲いくる猛烈な痛みに顔を歪め、ぐぅっと歯を食い縛った。 強さも、扱う武器も今まで斬ってきた天人とはまるで格が違う。大柄な体躯の狼の頭を持った天人。恐らく、これが大将のホロだと銀時は確信する。 「やはりな。仲間の前で強がってはいたが、貴様相当な怪我をしているな。ふん。丁度、食後のデザートが欲しかったところよ。貴様の首を我らの星に持って帰って、旨い酒と旨い飯で宴会ぞ」 「おたくがホロさん?大将直々にお出ましたぁ、探す手間が省けたぜ。こちとら、はやく帰らなきゃなんねぇんだわ。遅くなるとおまんま食いっぱぐれちまう」 「軽口をたたけるのも今の内だぞ、白夜叉」 振り下ろされる大太刀。交わし、時には受け止める。五感という五感を振るに稼働させ、痛みも忘れ、我武者羅に刀を振るった。 「ちょこまかとよく動きおって。だが、怪我を庇って逃げるのにはちときついだろ、白夜叉」 「てめぇこそ、息があがってんぜ、ホロさんよぉ」 「ぬかせ。息があがっているのは貴様のほうだろ。俺の剣を交わした地球人は貴様ぐらいだ。誉めてやろう」 ぶんっと空を切る音と共に斜め上から振り下ろされる太刀を受け止めるのに気を取られていたのが不味かった。正面からの蹴りは流石に交わせなかった。 銀時は簡単に吹き飛ぶ。吐血し、凄まじい衝撃が身体中を襲った。それでも、地面に落ちる寸前、咄嗟に受け身を取ったのは本能的とでも言っていいだろう。 息をするたびに痛む肺。あばらが数本折れたのだと悟る。 こいつぁ、まずい。 よろよろと立ち上がり、再び手榴弾を投げた。天人が煙と匂いに気を取られている隙に逃げる。 大将首を取って帰るつもりだったが、怪我を負った身体で自分の何倍もの体躯の敵を捩じ伏せるのは無理がある。 ――出来ないことはないが、危険は犯したくなかった。―― もつれる足。身体中が悲鳴を上げていたが、止まるわけにはいかなかった。 絶対に生きて帰る。 千草にただいまと言って、千草の作った飯を食べて、千草の笑った顔をみるまで、死ねるものか。 敵を撒いて、銀時は森の中へ入る。身を隠せる場所がたくさんあるぶん、見つかり難い。 適当な大木を見つけて、どっと腰を降ろした。呼吸を整え、一息ついた銀時は胴丸を脱ぎ捨てた。白い着物の半分が真っ赤に染まているのをみると、相当な出血量なのだろう。鉄で出来た胴丸をも貫通して、銃弾は銀時の腹の肉を抉ったのだ。早いとこ処置をしないと、このまま出血死しかねない。 だが、足に力が入らなかった。次第に痛みが戻りだし、激痛に犯される。 だぁめだわ。やっぱしんどいわ。 生きて帰ると千草に約束しておいて、約束を破るはめになってしまう。 ――銀さん、お帰りなさい。 朦朧とする意識の中、千草が笑いかけているのを見た。 「……さん、ぎんときさん!」 誰かに呼ばれている。聞き覚えのある声だった。 重い瞼を持ち上げると、短髪の男がそこにいた。 「黒子野か……みんなは」 「安心して下さい。他の方たちはみな本陣へ戻られました。時期に援軍も来るはずです」 「……そうかい」 「それから、銀時さんを追っていたあの大きな犬はもういませんから……安心して下さい」 どこか含みのある物言いだった。 「黒子野、おめぇ」 まさかこいつ。大将首を取ったというのか。 銀時は目の前の男をあんぐりと見つめた。 銀時よりも背が低く、周りの屈強な男たちに比べて線も細い。顔も覚えられないほど存在の薄い男。だが、銀時たちと肩を並べて戦えるほど剣の腕前は一流だった。影が薄いからこそ、相手の死角に回り込んで首を取ることなど造作もないはず。 もしかしたら、この男は本物のオニなのかもしれない。目立たないだけで、内にはとんでもない化け物を飼い慣らしているのか。 「さぁ、銀時さん。帰りますよ。千草さんが、みんなが貴方の帰りを待っているんです」 そう言って、黒子野は笑った。 丁度、夕陽が差し込んで顔がよく見えなかったが、肩に回された腕はしっかりと銀時を支え歩く力強いものだった。 ◎ 戦場に立っていた。 立ち込める硝煙と血の匂い。地面に転がる死屍累々。雄叫びをあげて白刃を振り下ろす天人を斬る。血潮に染まる視界。いつもの見慣れた光景。 『白夜叉』 足元に立ち込める黒い靄がゆらりと動き、やがて人の形を成す。 『楽しいか?斬って、斬って、斬りまくって。己の身を真っ赤に染めて、楽しいか?』 「楽しい分けねぇだろ」 『そう言い切れるか?目の前の敵を斬っているときのお前の表情は楽しんでいる』 「だまれ」 『おれたち天人だってお前たちの命となんら変わりはしないんだぜ。それをお前は何千、何百と、その手で殺してきたくせに』 『そんなお前にヒトが護れるのか』 『お前は誰も護れやしない』 「誰も死ななかった。みんな無事に帰ってきた」 『今回は、だろ?たまたま、運が良かっただけのことさ。お前は今までどれだけの仲間を見殺しにしてきた』 『ひとを斬るのが楽しいんだろう』 『松陽との約束を護っているふりをして、刀に血を吸わせて楽しんでいるのだろう』 「違う、そうじゃない。誰が楽しいもんか」 伸びて来る影は、銀時にまとわりつく。 「化け物が」 影は絡み付いて、離れない。やめろ、離せ。離してくれ。 声に成らない叫びをあげ、刀を抜いて影を斬る。斬って、斬って、斬って。 『お前には誰も護れやしないのさ。仲間も愛するものですら護れやしない』 影が、千草に変わった。 『お前の護れるものなんてなにひとつありゃしないんだよ』 気づいた瞬間には遅かった。銀時の振り下ろした刃は千草を斬っていた。 「――っ!」 ひゅうっと息をのんで、銀時は目を覚ました 煤けた天井が視界に入る。見覚えのある天井だった。 ――あー、これ、たしかおれのへや。……じゃあ、今のは夢か……良かった。 銀時は胸の内で盛大なため息を溢した。 「銀さん?」 次に視界に入ったのは千草の顔だった。黒い瞳と視線が合った瞬間 「銀さん、良かった!目を覚ましたのね!」 彼女は安堵したように笑った。 「あー。俺、生きてんのね。すげぇな、俺。自分でも吃驚だわ」 呑気なことを口にしながら、起き上がる。身体中に激痛が走った。相当な怪我を負ったらしい。 「わわ、まだ安静にしなきゃダメだよ」 千草が慌てて銀時を支える。ふわり、漂う石鹸と薬品の匂い。血の匂いしかしない戦場において、千草の匂いは銀時に安らぎを与えてくれる。 もっと堪能したくて、千草の支えに頼るふりをして、首筋に鼻を埋めそっと匂いを嗅いだ。 「ねぇ、俺どうやって帰りついたの?全然記憶にねぇんだけど」 「黒子野さんが抱えてきてくれたのよ」 千草の話曰く、本拠地に戻る道中、意識を失った銀時は黒子野に抱えられて帰陣。そこから三日三晩目を覚まさなかったそうだ。 「それじゃあ三日ぶりに甘いもの食いてぇなぁ……。出発前によぉ、おはぎ作っとくって、千草言ってたじゃん。あれ、あのおはぎどーなった?俺の分ちゃんとある?……おい聞いてる?」 黙りこくっていた彼女の顔を覗き込むと、彼女は黒い瞳からほろほろと涙を零し泣いていた。 「……あんな怪我して無茶ばかりするなんて、銀さんは大馬鹿野郎よっ……!どれだけ心配したか……」 泣いている千草をどう扱ったらいいか分からず、狼狽える。 手を伸ばし、彼女の肩に触れようとした所で躊躇った。 この血濡れた手で、夢とはいえ千草を斬ってしまった手で、彼女に触れていいのか分からなかった。 「心配かけちまってすまねぇ……だから泣くなよ。ガキじゃあるめぇし」 「今度こそ、銀さん死んじゃうかと……!」 「悪かったって」 「銀さんのバカ」 「うん。俺は大馬鹿野郎ですよ」 いくら謝っても泣き止むことのない千草。 胸が締め付けられて、苦しい。 銀時は遠慮がちに手を伸ばす。ぎこちない指で千草の目許に溜まる透明な滴を拭ってやる。 「泣き止めって。おめーに泣かれると、どーしたらいいのか分からなくなる」 「……ずるいよ、」 千草の小さな呟きは銀時には聞こえない。 「銀さんがね、黒子野さんに抱えられて帰ってきたとき、心臓が止まるかと思ったの。銀さんがいなくなってしまうんじゃないかって怖かった。……私、銀さんが好きなの。離れたくないの。……ずっと、銀さんのそばにいたい」 銀時の胸に、熱風が吹き抜けた。心臓が早鐘を打つ。 千草が自分を好いていてくれている。嬉しかった。 今すぐにでも言いたい。抱き締めて、口づけて、愛してると。 ――お前には誰も護れやしないのさ。仲間も愛するものですら護れやしない。 だけれど、出来なかった。 好きだ、と喉元まで出かけた言葉を呑み込む。布団の中で拳を握り締める。 「悪い。今はそんなの考えられねぇ。……こちとら、どんぱちして命のやり取りしてんだ。そんな甘ったるいのいらねぇ」 銀時自身も驚くほど、ぞっとするような冷めた声だった。 「そ、そっか……ごめんね。急に。なんとなく、思っていたの。銀さんも私と同じなんじゃないかって。自惚れてるって、わかってるけどね」 千草は無理やり笑顔を作っている。今にも泣き出してしまいそうな、傷付いた千草の顔に胸が張り裂けそうだった。ふいと顔を逸らして、銀時は唇を噛み締めた。 渦巻く不安をかなぐり捨て、本音を全部ぶちまることができたらどれほど楽だろうか。 だが、やはり怖かった。 失うことが。傷付けてしまうことが。 白夜叉の女と知れば、もしかすると敵に利用されるかもしれない。危険に晒したくはなかった。 「でも、でもね。これだけは許してくれるかな?銀さんの傍にいれるなら、今はそれだけでいいの。……まだ安静にしていなきゃいけないし、今日はもうゆっくり休んでね。銀さん目を覚ましたよって皆に伝えておくから」 精一杯の笑顔を浮かべ立ち去る千草に声をかけることはおろか、手を伸ばすことすら出来なかった。 千草の足音が完全に聞こえなくなって、銀時は長い舌打ちをした。自分自身にどうしようもない怒りが込み上げてくる。 「くそ……っ」 やり場のない怒りをぶつけるように、力任せに布団を叩いた。 考えてもみれば、彼女は元々生きる世界が違う。傍にいたいと千草は言ってくれていた。だが、いつか彼女が元の世界に帰りたいと願ったときはそれを止められるはずもない。戦場にいるより、平和な世界で暮らして、血の匂いがしない男と恋仲になるほうが幸せであろう。 だが、自分以外の男が千草に触れているのを脳裏に浮かべるだけで嫉妬で気が狂いそうだった。 考えれば考えるほど、胸の中が掻き乱され、様々な感情に押し潰されそうになる。 どうすれば良かったのか若い銀時には分からない。千草への想いを胸に秘めることしか出来なかった。 prev list next |