銀時と妙


赤く染まった遠くの空でひぐらしが鳴いている。もうすぐ日が暮れるというのに男の首筋にはまたひとつ汗が流れていた。夏は夜も暑くていけない。

「よう」

恒道館道場の正門を通り過ぎ、庭へと周って志村邸へ入った。彼女が縁側にいることを知っていた。

「あら、あなたは」

正面に立つ自分とは対照的に、女は汗のひとつもかいていない。まるでどこかに暑さというものを忘れてきたようだ。彼に気付くと読んでいた文庫本をひざにおいて、こちらを見やった。銀時はその姿にほんの少しだけ笑みをこぼす。苦笑いとも愛想笑いともとれるような顔だった。

「おいおい、忘れちゃったんですか?あんたんとこの弟の雇い主だよ」
「ああ、そっか。そうでしたね、ええと」
「坂田銀時」
「そうそう。坂田さん。いつも弟がお世話になっています」
「いえいえ」

にこりと笑い、ひざの本を閉じる。おい、どこまで読んだかわからなくなるじゃねえか。そう思いながら口にすることはなかった。

「どうなさったんですか?新ちゃんならまだ帰ってきてませんけど」
「ああ。…ちょっと近くまできたから寄っただけ」
「そう。じゃあ今お茶出しますね。それともお酒がいいですか?」

一瞬考えたあと、そういや最近ろくに酒も飲んでいないと思い出して無意識に頷いていた。

「ふふ、ちょっと待ってて下さいね。ついでに夕飯も一緒にどうですか」
「ああ、そうさせてもらおうかな」
「それがいいわ」

さっきまで妙が座っていた場所に腰掛ける。空を見上げるとうっすら月が浮かんでいた。

「はい、どうぞ」
「おーさんきゅ」
「汗かいてますよ。これ使ってくださいな」
「ああ、わるい」
「今日はね、冷やし中華なんですよ。新ちゃんの冷やし中華おいしいの。坂田さんはいい日にきましたね。」

嬉しそうな笑い声を聞きながら、手渡されたタオルで額の汗を拭った。

「あ、そうだ。もう一人いい?従業員なんだけど」
「お夕飯ですか?ええ、もちろん。みんなで食べたほうがおいしいわ。」
「わりーな。そいつさぁ、ハンパなく食うんだよね。もう銀さん毎日困っちゃってさあ」
「ああ、だからそんなに疲れてるんですか」
「え、疲れてるように見える?」
「ええ。頭なんかこんなに真っ白になっちゃって」
「ウン言うと思ったよ、うすうす気づいてたよ。オーソドックスに返すけどこれ白髪じゃねえから!」
「まあ。そうだったの?でも頭パーンッなってますよ?」
「切り返してくるなオイ。言っとくけどそこ一番気にしてるとこだからね」
「いいじゃない、ちょっとキツイ天パでも」
「おい!わかってんじゃねえか!」
「わからないわけないでしょう。」

妙は機嫌良さげにくすくすと笑った。まるで花でも咲いたみたいだ、とらしくもないことを思った。ふいに行き場のない感情が生まれる。変に意識してしまうといつも自分がどんなふうに過ごしていたかわからなくなる。所在なげな手は膝の上に置いたがどうもしっくりこない。姿勢はどんな感じだったっけ、座り方は。そこまで考えて、馬鹿かと自嘲した。くだらない。今度は首筋の汗を拭いた。どうだっていいんだ、そんなこと。
ぼやけた月を見上げて、一気に酒を流し込んだ。そういえば、昼もちゃんと取っていなかったな。悪酔いするかもしれない。それでも隣の女に酒を注がれてしまうと、手を止めることは困難だった。まあ、いい。たまには酔うのも悪くない。 そして切なげな声はまたどこかから聞こえてくる。

「ひぐらしが鳴いてますね」
「…ああ」
「わたし、ひぐらしの声ってすきです」
「なんで?」
「なんでって。なんででしょう?なんか、すき。」

庭先を見つめながら女は笑った。はじめの社交辞令のような笑い方ではなく、なにかを慈しむように。
そんな彼女をみて俺は、

「…つき」
「月?」
「うん、出てる」
「ああ…ほんと。もうすぐ暗くなりますからね。夏は日が長いわ。…でも今日はすこし曇ってるからあまりきれいに見えないかもしれませんね」

満月でもないし、今日はいいお月見にはならないですね。
妙は、残念そうに言った。

「んー、でも」
「え?」
「すき、かも」
「何がです?」
「夕方の、曇った空の、曖昧でぼやけた月」
「どうしてですか?」
「さあ。なんかすき」

さっきの彼女の言葉を反芻した。
変なひと。笑いを含んだ声が隣から聞こえてくる。俺はなめるように酒をすすった。

「…月が、きれーだわ」
「…え」
「酒が、うまい」
「…」
「…うまい」

かみしめるような声はちいさくて、この世できっと彼女しか聞き取れていない。彼女にしか聞こえないように言った。自分と、妙しか、この世界にはいない。(ああそんなことはありえないのに)そんな馬鹿なことを思ったのだ。だけどそれでいいんだ、いいだろう。せめて今だけは。

「あれ…。なん、でしょう。…こういうの、前にもあったような」
「え?」
「…変ね。そんなわけないのに。何だか前世の記憶でも思い出した気分だわ」
「…なにそれ。あ、もしかして誘ってんの…ぐはぁっ!」
「ふふ、バカなこと言わないで下さい。殴るわよ」
「殴ってから言うなよ!」
「もう、だから、こういうの。何て言うんでしたっけ。ええと…」

妙は考える素振りをして、眉をひそめる。しばらくすると顔の歪みが急にほどけてこちらを向いた彼女が言った。そうだわ、と笑って。

「デジャヴよ。ああすっきりした」
「デジャヴ…」
「そう、デジャヴ。既視感?経験したことないのに、前に経験したように思うこと。ないですか?そういうの」
「…」
「だって、変ですよねえ。あなたとこうしてお酒を飲むのははじめてなのに」
「…」
「はじめてな気が、まったくしないんですもの。」

女は遠い空を見て微笑んでいる。肌が透きとおるようにしろい。そして俺は動けずにひどく喉が渇いていた。なおも彼女は続ける。

こうして縁側に座って、あいだにお酒と肴を置いてつまらない軽口を叩き合って、あなたは言うの。月がきれいだな、って。酒がうまいな、って。わたしは返すんです。ええ、そうですねって。

「そんなのおかしいですよね。ねえ坂田さん」

「どうかしたんですか?具合でも悪いんです?」

「ね、え…」

おれは耐えきれずに女の腕を掴んで、その細い肩口に自分の頭を押しやった。ぎゅうと握っても女は抗うことはしなかった。

「…っ…、た…え」

彼女の着物に涙が浸み込んでゆくのを、おれは止めることも出来ずにただ名を呼ぶばかりだった。

「なあ…っ…お妙…俺達、ずっとこうしてたんだよ」

「馬鹿な言い合いをして、俺はお前をからかってお前は俺を罵って、やっぱり俺はお前には敵わなくって」

「ずっと…こうして安い酒のんで綺麗でもない月をみて」

「わらうお前のとなりで、ずっと…っ」


「なあ、俺たち、夫婦なんだよ」



何度だってきみを想う
(だからどうか、思い出してくれないか。)



月が綺麗で酒がうまいのは君がとなりにいるからだ。 そんなこと、わかりきっているのに。

「…ぎん…さん?」


ニーナ(2011/11/30)



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