坂田銀時



あまり美味くなさそうなりんごを剥いた。冴えない赤色が毒みたいだ。一体いつからあったのだろう。こんなもん食ったらあんな細い女は死んでしまう。それでも剥いた。何ならウサギの形にして。ふたりきりになってしまった白い病室に、手持ち無沙汰になってしまったから。

「ねえ銀さん」

こんな静かな部屋で彼女とふたりでいると、何かバカなことでも言ってしまいそうだったから。

「もう少し近くに座って下さいな」

何かバカなことでも、してしまいそうだったから。

「わたしリンゴは、いらないわ」

その痩せた姿に、涙でも出てしまいそうだったから。

「…んだよ、せっかく切ったのによォ」
「久しぶりなんだから何か喋ってください」
「何かって、なに」
「何でもいいから。あなたいつもくだらないことベラベラ喋ってたじゃない」
「くだらないってヒデェな。つーかさっきから眠そうじゃん。寝ればいーだろ」
「新ちゃんと神楽ちゃんが帰ってくるまで起きていたいの。だから、」

色素のうすい、もう見えないらしい目で視線をこちらにやる。

「それまで、おしゃべりしましょう」

(行かないでくれ)

焦点が合っていない。方向は合っているが、その目線はリンゴにあった。そっちじゃねえよ。おれはこっちだ。なあ、お妙。

「いくなよ」

それはのみ込まなければいけない言葉だった。彼女はなにも言わず、ゆるく笑った。
妙はすべてが薄かった。身体も、肌や瞳や髪の色も。このままどんどん薄くなって、彼女は消える。誰もが知っていることだった。

「あのね、私、依頼があるんです」
「…依頼?」
「そう。だってあなたは万事屋さんでしょう?」
「なんだよ」
「あの子たちを救ってください」

妙は目をつむった。そのまつげまで白い。

「私、幸せですよ。幸せな人生だった。ちょっと短いかも、しれないけれど」
「バカ、縁起でもねえ」
「…そうね。でも、幸せなの」

妙が頭をベッドの背に預ける。目を閉じたまま凭れる。ああこのままでは新八や神楽が戻る前に眠ってしまう。

(行かないでくれ)

「本当に幸せ。だって、こんな優しい嘘、きっと世界のどこを探したって他にないもの」

「…は?」
「ね、万事屋さん。あなたにお願いするのは間違ってるかもしれないけれど」
「お妙…」
「だけどもうあなたしかいない」
「なあ、」
「どうかこの世界を救ってください」
「お前知ってるのか…?」

妙はゆっくり目をひらく。視線をどこにもやらずに笑った。目が細まって、口角がやさしく上がる。

「みんなを護って。あの子たちを救って。もうあなたしかいない。あのね、それから、」

何度か目を瞬く。話す声が小さくなって、頭が少し横にかたむいた。
それから、それからね、と疲労や眠気に抗うように言った。

「あのひとを、たすけて」
「…え?」
「護れないかも、救えないかも、しれないけど、でも、たすけてあげて」
「あの人…?」

瞬きの速度が遅い。口調も子どもみたいで、声がだんだん掠れていく。眠いのだろう。しかしどうにか伝えようと、彼女はくちびるを開いた。

「ねえ、ぎんさん。ひとりに、なってしまわないで」

それを言って、妙はついに眠りについた。胸部が呼吸のために動いていることにおれは安堵する。せめてどうか幸せな夢であればいい。祈って、だけど彼女のその目尻からは涙が流れていた。

「お妙」

泣きたいのはこっちだ、と思った。
お前、何を、どこまで知っているんだ。あの人って誰だよ。

「お妙」

不味そうなリンゴが夕日に焼かれている。身を寄せ合うようなウサギのリンゴは、きっと誰にも食べられないまま変色していく。座ったまま眠る妙の身体を横にした。その軽さに、おれはついに泣いた。

「行かないでくれ。」





  志村妙


目が覚めると夜だった。私の視力はほぼ無くなってしまったけれど、静けさや、そのにおいで夜であることがわかる。それに明暗の識別だってまだ出来るのだ。
目覚めると、とてもとても深い夜だった。

「…」

夢を見た。みんなであの万事屋にいて他愛ない話をしていた。誰がいたかしら。新ちゃんや神楽ちゃんはもちろん、お登勢さんや猿飛さんなんかもいて。それから、そう。みんな何年か前の姿だった。新ちゃんや神楽ちゃんは子供らしさが随分残っていて、私の身体だって元気なまま。そして、あの人。銀さんもいた。ごく当たり前に。私たちもそれが普通であるように。彼はそこにいた。
わらってた。私も、みんなも、そして彼も。

(もういいわ。何にも聞かないから。何にも言わなくていいから、だから)

そのあと急に地震のように世界がゆれて、床がバラバラに崩れた。わたしは落ちて、落ちて、落ちて。やがて目の前に白いドアが現れた。ノブを引くとその中は薄暗い部屋で、誰かがひとりで、ずっと一人で、じっと何かを待っていた。

(あなた、ねえそんなところにいないで、)

私はその人に何度も話しかけようとするのに声が出ない。目が見えるかわりに声が出ないらしい。そのひとはゆっくり振り向いて、言う。呼ぶ。

『お妙』

「…え、」

私が目覚めた深い夜の真ん中で、暗い部屋の端っこで、だれかの音がした。においがした。目が見えなくなると、それ以外の感覚機能が敏感になるらしい。そこにいるのは紛れもなく、あのひとだった。ある日突然姿を消した、寂しがりやで意地っ張りで夢にしか出てこない馬鹿な人。

「ぎんさん…?」

発した声が弱々しくて情けなくなる。これは夢だろうか。まだあの可笑しくて哀しい夢の延長にいるのだろうか。白いドアの向こうの、薄暗い部屋でひとりでいたのは、ねえ、あなたでしょう。たったひとりで待っていた。振り向いて私の名前を呼んだ。ねえ。

「銀さん」

左腕を上げた。宙に彼の手を求めるように上げた。

「おねがい、夢でも、幻でもいいから」

もう一人になってしまわないで。あんな寂しい場所で潜んでいないで。

「わたしの手をとって」

手がふるえる。
いくら精一杯伸ばしても、虚空に触れるだけだった。

「…っぎんさ…」
『もうすぐなんだ』

声だけが響いた。それは初めて聞くような、それでいて紛れもなく彼の声だった。
ああやっぱり。そこにいたのね。

『本当に、あともう少しなんだ』

(銀さん、ぎんさん)

『だからそれまで待ってくれ』

(ぎんさん、わたし)

『…いかないでくれ』




目が覚めると朝だった。日の光が病室に入り込んで、鳥が鳴いている。
あれは夢だったかもしれない。違うかもしれない。わからない。だけど、あのひとはまだこの世にいる。たったひとりで、耐えて潜んで待っている。ああ、はやくあの人を助けてあげなくちゃ。
新ちゃんや神楽ちゃんが"彼"を連れて来るのは、それから少しした頃だった。





  厭魅


暗闇に浮かぶ白い手に、触れずにいることはとても困難だった。すぐ側まで己の手を伸ばし、やはり躊躇して、結局握れなかった。彼女の温度に触れれば、自分はもう帰れなくなる。あの薄暗く冷たい孤独に耐えられなくなってしまう。それは許されるべきではない。暗い病室ではその姿がはっきりと見えなかった。だけど彼女の身体はきっと痩せ細り、他の者と同じように髪は白く、その目は視力を失っているのだろう。思うだけで頭がおかしくなりそうだった。息がつまる。声がとても弱々しかった。あの艶やかで健やかな女。まっすぐに見つめてくる瞳。性格を表したような綺麗な黒髪を持っていた。どうか、どうかどうかどうかどうか。待ってくれ。いかないで、もう少しなんだ。


『ぎんさん』

『わたしの手をとって』


銀さん、と言った。名前を呼んだ。彼女は息のような声で、おれのことをそう呼んだ。
夜明けが来る。なあ。誰もいない空間でひとり呟く。どうかはやく来てくれ。はやくおれを殺してくれ。あの女を、みんなを、救ってくれ。

どうか、どうかはやく助けてくれ。




[TOP]






×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -