あの匂いが今も鮮明によみがえる。

むりやり嗅がされた甘く毒々しい花のような匂い。肺に降り胃に入ったときの吐き気。吐きたいのにそれが許されることはなく、行き場のない悪心はまた胸に上る。身体は押さえつけられたように動かなくなり、声は喉が掴まれたように出なくなり、なのに感覚機能は明瞭なまま。抵抗出来ずに自分が殺されていく様子をまざまざと見せつけられるのだ。 泣くことも、顔を背けることも、声を上げることも、死を選ぶことすら出来なかった。

あの匂いが、いまも、よみがえる。

相手が捕まって、それが違法に開発されていた薬だと知ったのは随分後のことだった。あれからの三ヶ月、わたしにははっきりとした記憶がない。ただ銀さんにはもう会えないと思った。間違っても好きだなんて言えるわけがない。思ったのに、足は勝手に彼の家へ向かっていた。最低だ。わたしはとても狡くて、みにくい。

『結婚しよう』

雨の日からしばらくたった後、彼はそれを言うためにわざわざわたしの元へやってきた。わずかに残っていた心が、こなごなに砕ける気がした。ふざけてると思った。馬鹿にしてる。かわいそうだから、見ていられないから、お情けで一緒にいてやろうとでも言いたいの。ぷつんと頭の中で何かが切れた。そのあと、わたしが彼に何を言ったか覚えていない。叫び続けた。でたらめに罵った。訳も分からず憤りをぶつけ続けた。気が付いたとき、辺りはぐちゃぐちゃに荒れ、わたしは部屋の隅にうずくまっていた。ごめん。声が聞こえて顔を上げると、銀さんは泣いていた。彼の涙を見るのは、それが初めてだった。

『おれ、おまえのことが好きなんだ』

うずくまったわたしの両手はお腹を守るように抱えていた。このなかには、わたしのなかには。

『その子、おれにもくれないか』

当然のごとく堕そうと思っていた。そうすべきだと思っていたし、それをしても誰も責めないだろうと思っていた。ちがうよ、もうわたしにはこの子しかいない。銀さんは、そうっとわたしを抱きしめた。わたしと、この中にいる子どもごと抱え込んだ。その手を掴んで、縋って、わたしはやっとのことで今日まで歩いてきたのだ。


「ははうえ」

ぎゅっと左手が下に引っ張られる。呼ばれて息子を見下ろすと、しかし当の本人は真っ直ぐに前を向いていた。遠い夕空をみているように思えた。
もう一度、小さな手がわたしの手を握る。わたしを母と認めて呼ぶ。その時の幸福感が、あの頃の選択を間違っていなかったのだと強く肯定してくれる。

「ぼく、きょうだいがほしいよ」

欲しいものや遊び相手をせがむのではなく、何かを決心したようなそんな瞳がそこにあった。わたしもまた、彼の手を握る。掴んでいたい手が、離したくない手が、わたしにはある。

繋がっていたいなら、きちんと前に進まなければいけない。


ーー


「銀さん」

夜、息子が寝た後、わたしは夫の部屋の襖を引いた。私達夫婦はずっと違う部屋で寝ている。結婚当初に彼が決めたことだった。

「んあ?」
「今日、一緒に寝てもいい?」

彼は一度こちらを見て、やさしく笑った。こんなふうに笑う人だっただろうか。結婚して何年も経つのに、こうやって向き合う度いつも胸が鳴り、じんわりと暖かくなる。

「なんだァ?寒いのか?ゼンは?」
「寝ました。お友達と遊んで疲れたみたいで、今はぐっすり」
「んじゃあ、久しぶりに三人で寝るか」

息子の部屋に移ろうと思ったのだろう。よっ、と立ち上がろうとする銀さんをわたしは制した。

「…違うの。今日は銀さんと寝たいの。あの、ふたり…で」

部屋に入り、彼の正面に座る。

「ダメ、ですか?」

じっと目を見つめると、彼は随分困ったような表情をした。

「とんだ殺し文句だな」
「わたし、銀さんが好きです」
「なんだよ、急に」
「だから大丈夫です。あなたなら、」

視線を落とした先に見慣れた彼の腕が映って、めまいが起きた。いつもは安心すら覚える腕だ。だけど、男の人の腕だ。あの日のことを脳が断片的に再生する。震えそうになる。息が浅くなる。知ってるのに。わかってるのに。この人のやさしさだとか、自分がどれだけこの人の事が好きだとか。ちゃんとわかってるのに、身体が勝手に強張って、心にまで伝染する。でも、だけど。

「おねがい、銀さん」

ぎゅっと目をつむった。あなたなら大丈夫。あなたしか、わたしにはいない。だから、お願い。わたしに触れて。

「…わかった」

無骨な手が頬に触れると、びくりと肩が上がった。どんどん近づいてくる気配がしてつむった瞼の裏が暗くなる。やさしく唇を重ねられて、そのあたたかさに心が落ち着いた。ゆっくりと目を開ける。まるで泣く子をあやすような顔でわたしを覗き込む彼がいた。

「誰に言われた?」
「…え?」
「何か言われたんだろ」
「ちが…」
「怒らねえから言ってみ?」
「本当に何もないですよ。ただ、わたしが…」
「妙」
「…」
「ちゃんと言って」
「…ちがうのよ」
「近所の奴が二人目作らねえのか詮索してきたとか、あ、ご無沙汰だと浮気されるって言われたとか」
「ち、ちが…」
「じゃあ、」

彼はまたさっきみたいな困ったような、でもこれ以上ない優しい顔で笑った。

「善か?」
「…っ」
「やっぱりなァ。兄弟がほしいとかなんとか言ったんだろ?」
「…それ、だけじゃないの。だって私たち夫婦だし、その…」

本当だ。いつまでもこのままじゃいけないって思っている。ちゃんと夫婦でいたい。私の手を、そっと大きな手が覆う。指と指をからめて握った。じわり、と涙が浮かぶ。離したくない、繋いでいたい手だ。

「今日はこれだけで勘弁してよ、奥さん」
「ぎんさ…」
「だって無理だもん。今日仕事キツくててさ、マジですっげえ筋肉痛なんだって」

な?と、わたしの顔を覗き込んで笑う。俯いたわたしは大きな手を握り返すしか出来なかった。

「…ごめん、なさい」
「なんでお前が謝んだよ」

髪の毛をやさしく撫でられる。それにひどく安心している自分がいて、そしてそんな自分に嫌気がさした。

「わたし、銀さんが好きよ」
「なに。今日は素直じゃん」
「だって、本当なの」
「…わかってるよ。それに、」

彼が私の頭を上げさせる。なおも髪の毛を撫でていた。

「俺もだ」
「…」
「ゆっくりでいいじゃん。焦るとロクなことねえよ。急がば回れって知ってる?お前」

宥めるように言う彼は、いつも私を甘やかす。結局その日は電気の灯りをひとつだけ残して、手をつないだまま二人で眠った。


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