妙とあやめ(高校生)
この女はほんとうに突然あらわれる。まるで忍者のように影を潜めていつの間にやらそこにいるのだ。妙は風呂場の先客に声をかけた。不法侵入。と。
「きょう、泊まってもいい?」
彼女は素知らぬ顔をして勝手に入浴をつづける。父や母には良い顔で接するので彼らは喜んで家に入れたのだろう。昨日から娘や息子の友達の出入りが激しいので何とも思わなかったはずだ。
「いいけど」
ちゃぷん。いつまでも裸で突っ立ってるわけにもいかない。妙は湯船に足を入れて彼女のとなりに膝を抱えて座った。狭い。高校生だなんて身体の成長はほぼ終わっている。大の大人が二人、家庭用の風呂にせせこましく入る必要がどこにあるだろうか。
「きのう」
「え?」
「昨日、来ればよかったのに」
「…」
「誘われたでしょ?神楽ちゃんとかに」
昨日はたくさんの友達がうちに泊まりに来た。彼女も知ってる子たちもいたが、別のクラスの子も来たのできっと怖じけづいたのだろう。
猿飛あやめは案外怖がりだ。無鉄砲に暴走したり意中の相手に盲目になったりと一件怖いもの知らずみたいに思えるけれど妙は知っている。ほんとうは臆病で他人の目に怯えてる。人が自分をどう思うか。人が何を考えているか。わからなさすぎて関わるのを諦めてしまっているのだ。彼女は自ら独りを好むようになった。妙の友達の神楽や九兵衛たちは彼女の事も仲間だと思っているが、それにも慣れずに強がってばかりいる。
「相変わらず貧相な胸ね」
「上品なだけです」
「上品すぎるんじゃない?」
「あなた、メガネかけたまま入ってるの?」
「外すとあなたを銀さんと間違えるかもしれないから」
「曇っているわ」
「ええ、何も見えない」
あやめは膝に顎を乗せて、律儀に上げた髪の後れ毛を触った。
「どれくらい遠いの」
「新幹線で2時間半、それから私鉄で40分」
「たったの3時間10分」
「そうよ」
「銀さんとわたしの結婚式には呼んであげるわ」
「はいはい」
「やっぱりあなたの負けね。転校で失恋なんてよくある話よ。まあライバルがいないと私も張り合いがないけどしょうがないわ」
彼女はいつも私をライバルだという。小学校から一緒だけど幼馴染だとも友達だとも言わない。
「わたし、あなたが嫌いよ」
「知ってるわ」
「頭が良くて優等生で人気者。みーんな妙ちゃん妙ちゃんって。気に入らないもの」
「ねえ、おぼえてる?小学5年生のとき、わたしが一部の女子に嫌われてたこと」
彼女の返答はなかった。一人の男の子に告白された事があって、それが学年で一番派手な権力のある女子の好きな人だった事がある。わたしは一時期その子と周りの子たちにイジメ紛いのことをされていた。靴を隠されたりノートを破かれたり。そういう、他愛なく無邪気に子ども心をえぐる行為を。
「あなた全然泣かなかったわね。あの子たち、悔しがってたわ」
「他の友達は優しかったから」
「あなたは一人で孤立しても泣かないと思うけど」
「人前で泣くのは嫌なの」
「かわいくないわ」
「大きなお世話よ」
「だからあんな事になったのよ」
目をつむると黄色い光に照らされた冷たい木の床が浮かんだ。締め切った体育倉庫っていうのは驚くほど真っ暗で、それからとても寒い。どこか黴くさい空気が漂っていて、マットも跳び箱も硬くて冷たかった。少女たちはついに妙を閉じ込めてしまったのだ。楽しそうに跳ねる高い声は何て残酷なんだろう。さすがの妙もその時は堪えた。
「どうしてわかったの?あの時」
「跳び箱の練習しようと思っただけよ。そしたらたまたまアナタがいて、マヌケに閉じ込められてるんだもん。笑っちゃった」
「わざわざ一人で?」
「そうよ。明日の授業でみんなを驚かそうと思ったの」
ほんとうよ。それだけなのよ。
彼女はその当時もそう言った。時刻は6時でまだ日も沈んでいなかったけれど、私は真夜中に取り残されたような心細さで胸がいっぱいになっていた。
「そう。ラッキーだったわ」
「感謝してよね」
冷たく重い鉄の扉がゆっくり開いて、黄色い光が差し込んだ事をよく覚えている。やっと外に出れるとか、誰かが助けに来てくれたとか、そういう安心感は一瞬だけ忘れていた。ただ光に照らされた彼女が、とにかくきれいだと思ったのだ。二本の足でまっすぐ立って長い紫の髪はキラキラ輝いていた。細い腕で開けた扉はどれほど重かっただろう。どれほど冷たかっただろう。私に伸ばした救いの手は、どれほど力強かっただろう。
「あなた気が強いから向こうの学校で友達できないんじゃない?」
「わたしの社交性を知ってるでしょう?小学校からずっと委員長よ」
「リーダーシップは下手すると孤立の元になるわ」
「だいじょうぶよ。うまくやるから」
「別に、心配なんかじゃないけれど」
「ねえ猿飛さん」
「なに?」
まるで正義の味方みたいだって思ったの。小さい頃に見た戦隊ものの女性ヒーローみたいだって。誰にも負けない強くて優しいヒーローみたいだって、そう思ったの。
わたしは彼女のメガネに手を伸ばした。
「ありがとう」
親指でレンズの曇りを拭う。奥にある瞳からは透明な涙が流れていた。
「来てくれて、ありがとう」
彼女は下唇を噛んで頑なに膝頭を見つめ続けている。
「助けにきてくれて、嬉しかった」
柔らかな後れ毛が首筋に張り付いていた。泣くなんて、あなたらしくないわ。
「手紙なんていらないから」
「ええ」
「メールも電話もいらない」
「ええ」
「でも、」
「なあに」
「忘れたら殺すから」
あやめは水しぶきを上げて妙の首に抱きついてきた。その柔らかな背中に手を置く。高校生にしては大きすぎる胸が当たった。やっぱりあなたなんか嫌いよ。あなたはわたしを人気者だって言ったけど、ライバルだってそう言ったけど。不器用で臆病でまっすぐで人の話なんか聞きもしない。友達だって絶対に言ってくれない。わたしはね、そんなあなたが。
「こっちのセリフだわ」
妙のつむった目から涙がひとつ流れた。ああ、泣くなんて。泣くなんて私らしくない。今日はさむいから、同じベッドに入れてあげてもいい。彼女は体温が高いからちょうどいい湯たんぽ代わりになるわ、きっと。
そんなあなたに憧れていたこと
ニーナ(2014/11/25)
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