土方と妙


隊服に煙草の匂いがこびりついていた。洗濯してもきっと落ちないのだろうなと妙は思った。彼の隊服は血を重ねたような黒色で、だからこの服で誰かを斬って、その返り血を浴びてもきっと目立たないだろう。物騒なことを考えて俯くと自分の右腕を掴む男の手が視界に入った。骨っぽくて大きいけれど綺麗な手だと思った。離さないでほしいと、そう思った。

「悪いな、巻き込んで」

見上げると土方は古い壁に凭れて通りの様子を窺っていた。細い路地の隙間はどこか湿っぽくて薄暗い。冗談みたいな話だけれど彼は命を狙われているようだ。偶然会った道端で世間話をしていると見知らぬ男が数名襲ってきたのだ。

「わたしがいたから捕まえられなかったのでしょう?」

言うと、黙ったまま土方は妙を見下ろした。

「あの人数じゃ手に負えねえだけだ」
「うそよ」
「何で嘘なんだよ」
「私のせいだもの」
「余計なこと考えるな」

だって、知っている。いつだったか彼が闘う場面を一度見たことがある。土方や部下達は、見たこともないような目をして自分達よりはるかに多い敵をなぎ倒していた。さっきのあの人数くらい彼なら負けるはずはない。だけどその時わたしは怖いと思った。とても怖いと思った。近藤や沖田の姿はなかったけれど、彼らもきっとあんな風に人を斬るのだろう。そしていつもちゃらんぽらんな銀時も。

「あんたに何かあると」

その時感じた恐怖がどこから来るものなのか、妙はずっと考えていた。あの日からずっと。

「おれが、困る」

黒い瞳が妙を見下ろす。彼女の身体に傷がないか確認していた。
いつもの彼とは程遠いその様子だったのか。躊躇いなく斬る冷酷な瞳だったのか。怖かったのはそういった事だろうか。だけど、どこかしっくりこないのだ。

「あなたは人を斬るんですね」
「仕事だ」
「そうね」
「でも」
「え、」
「仕事じゃなくても斬ってたろうな」
「どうして」
「堕ちているんだ。底の方まで」
「どこの?」
「真っ黒い水の底。あんたが一生見ないような世界。」

冷たい手。自分の腕をしっかりと掴んでいるその手に、妙は手を添えた。冷たい手の甲だと思った。彼が人を斬った時に感じた恐怖がまた襲ってくる。こわい。そうか、この恐怖は。

「こわいわ、土方さん」
「怖いなら手を離せ」
「いやよ」
「なぜ」
「手を離すのが怖いの」

腕を強く掴んでいた手の力が緩まったので、妙は泣きそうになった。離さないで。

「見えなくなるのが怖いの」

どうして急ぐの。次から次へ。まるで魚が水を求めるように、人の血を浴びる彼がいた。

「土方さん、あなた、早く死にたいのでしょう」

瞠った目の中に、自分が写っている。何も言わずにいる土方の隊服を掴んだ。

「私が殺してあげましょうか」
「…何言って」
「その代わりあなたも殺してね」
「馬鹿か」
「馬鹿です」

その狂気を隠して、底に堕ちた自分を隠して、彼は生きているのだ。

「うそ。死なないで」
「変な事いわないでくれ」
「すきよ、土方さん」
「…また嘘か」
「ええ、そのとおり」
「からかうな」
「すきです。本当よ」
「おい」
「何ですか」
「なぜ泣く」

はっとして顔を上げると冷たい雫が彼の手に落ちた。

「泣いて、なんか…」

腕を掴んだ左手はそのままにして、土方はもう片方の手を妙の背中に回す。廃れたビルとビルの間。狭い路地裏。湿っぽく薄暗い空気。誰にも見えない。誰にも言えない。

「泣くな」

土方は押さえつけるように妙の唇を塞いだ。煙草でもなく血でもない、彼の匂いがした。必死に隊服を掴むと応えるように背中の手が強く妙を支える。掴まれた腕が痛い。泣くなと言われても涙は流れる。隠して。ねえ隠して。誰にも見えないように、わたしと彼を。


ふたりは隠れてキスをする
(あなたが消えてしまうのが怖いの)


ニーナ(2014/12/18)



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