高杉晋助


苦しいっていうのは、息が出来ない状態を言う。身体に、肺に、酸素が行き渡らない状態を言う。
高杉は自分の上に乗っている女の喉元を見やった。安くて古い皮のソファに女の腕が食い込んでいる。細かく割れた皮の生地だ。

「好きよセンセイ。アタシあなたが好き過ぎて死にそうなの」
「そうかい。そりゃあ難儀だな」

(勝手に、)

勝手に死ねよ。

皮膚を切り裂いた先、肉を掻き分けた中にある出来損ないの臓器を修理する仕事は、およそ人間を治すこととは思いにくい。こんなことで尊敬され、高い給料を貰えるなら何度だって腹を裂いてやる。人間が自然の摂理に逆らいながら無様にも生きながらえようとする姿はあまりに哀れだ。あんなグロテスクなことをされてまでも生きつづけたい理由ってのはなんなんだろう。俺なら誰にも腹を裂かせたりしない。誰にも見せたりしない。
一度目を伏せて、女の胸元を見た。香水と煙草の混じった匂いがする。白衣の天使なんてよく言ったものだ。これじゃただの娼婦じゃねえか。

「お前見回りは?」
「ちゃんとしたわ」
「どうだかな」
「ね?先生。いいでしょ」
「俺ァ仕事が残ってんだよ」

哀れだ。とても。彼女を見ても、その感情しか生まれない。だけどお前には依存出来るものがある。美貌と、それと煙草。それらに狂ったようにしがみつくのだから。最後だってちゃんと願うだろう。見苦しく足掻いて救われようとするはずだ。その感覚はとても健全だ。どうやったって痛々しい様に俺は嘘の笑みを浮かべてやる。それを彼女は希望に思うだろうか、絶望を感じるだろうか。女の手首を掴んだ。勢いよく引いて、そのままソファに押し付ける。体勢が逆になって、挑戦的な瞳は一瞬の出来事に戸惑いを隠せない。組み敷くと、古いソファのスプリングが鳴った。

「せん…」
「早く終わらせてやるよ」
「あ…、」

首筋に噛みついたら、今度は女が鳴いた。煙草と香水の、相変わらず酷い匂いだ。だけどしょうがない。

「ん…先生…」

しょうがない。とても可哀想だから。悲惨で目も当てられないから。

「ねえ、私の検査結果…見たんでしょ」
「ああ。」
「教えて、わたし…」

医学の進歩ってのは良い事ばかりではない。内臓の調子なんか知ることが出来てはいけないのだ。そうすれば恐怖を感じることもない。醜く命乞いをすることもない。腹を裂かれることだってないのだ。

「末期だな」
「え、」

声を受けた瞳がみるみるうちに氷のように固まっていく。

「肺癌だ。春の検診では何も引っかからなかったんだろ?若いってのはよ、癌細胞すら早く増殖していくんだよな。残酷なくらいに」

喉に口付けるとどくどく脈打つ感覚がした。これもいつかは途絶える。途絶えて冷たく固まる。

「ああ、でも大丈夫だよ。今はいろんな治療法があるからな。看護師なんだからわかるだろ」

わかるだろう。
若く健やかな人間が朽ちていく様を。見てきただろう。自分を蝕んだ煙に最後の最後まで縋り付く哀れさを。

「きっと治るさ」

思ってもいない言葉を優しくかけてその胸元を開ける。彼女はきっと祈るだろう。自分では諦めたと、覚悟を決めたと思っていても深層心理では祈り続ける。死にたくない死にたくない殺さないでどうか助けて。だけどニコチン依存は治らないから。禁煙に成功したとしても、他の何かに依存できるから。健全な彼女はそれが出来るのだ。それを思うととても不憫で泣けて来る。自分以外の何かに縋って、しがみついていないと生きていけない。それが自分を滅することになろうとも。口元に微笑を浮かべて女を見下ろす。お前は死ぬその直前まできっと息が、酸素が、壊れた哀れな肺に行く。形ばかりの煙草の吸い殻に目をやった。俺のこの肺にはきっと空気は届かない。じゃあ俺はどうやって生きているのだろう。何にも縋らず、依存もできず、空気の入る余地のない肺臓。昔からずっと息苦しいままだ。この上なく優しく微笑んでやる。本当に哀れなのは、そうだよ、この俺だ。


灰色の肺


ニーナ(2014/10/19)


back
[TOP]












×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -