神楽


目蓋を閉じると目がしみた。いたい。そこで初めて自分が泣きそうになっていることに気づく。視覚を失うと聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされた。街の音。風が過ぎる音。鳥の飛ぶ音。誰かの声。誰かの笑い声。目蓋の裏に浮かぶのは今さっき見た光景。ぐちゃぐちゃになってしまったきれいな朱色。皮がやぶれて中身が飛び出ていた。散った汁がコンクリートを濡らす。つぶれたオレンジが幾つかそこに横たわっていたのだ。執拗に誰かが踏み潰したような形跡がある。子どもの仕業だろうか。

『君は少し、人との距離を取るのが苦手なだけなんだよ』

大人が言う。なぐさめるように言う。人としての何かが欠如していること。普通の子と違うこと。オブラートに包んで伝える。だけど、普通ってなんだろう。どうして大多数の意見が大切にされるのだろう。 小学生のとき教室にいたクモをつかまえて机の中に入れてたことを思い出す。クラスメートに言われた。神楽ちゃんって変わってるよね。先生たちが言っていた。あの子はちょっと難しい。ムズカシイ。 濃い柑橘系のにおいがする。じわり、汗が額にうかんだ。今日は曇り空だった。この梅雨が終われば夏はすぐに来る。べたべたと暑い季節。 中学の時にやった解剖の授業。ぶざまなカエル。みんなが一歩引く中でわたしだけそれを切る手を止めなかった。泣き出す子がいた。あのね、何が怖いのかわからないの。神楽ちゃんおかしいよ。気持悪い。やめて。殺さないで。狂ってるよ。半ば叫ぶような声がわたしを糾弾した。ごめん、みんな何が怖いのかわからないの。先生すら顔が引き攣ってた。だって先生、あなたがこれを強要した。何がおかしいの。落ちたメスに血がついていた。どんな色だったっけ。

『先生はね、あの授業で命の大切さも知って欲しかったのよ』
『…』
『あんなふうに内臓掴んじゃ、みんな驚くわ』

苦笑いした先生。つまりは怖がって欲しかったんだ。私はいつも相手が期待する反応を用意出来ない。だけど、解らないよ。
蚊は手で潰して良くて、ゴキブリやクモは叩き殺さなきゃダメで、犬や猫には首輪をつけて愛情を押し付け、カエルやモルモットはヒトの医学に使用し、牛や鶏や豚を食べる。何処からの命を奪って良くて、何処までの命を奪うと可哀想なんだろう。残酷なんだろう。罪なんだろう。
あの場所に、学校に行かなくなったのは異物が自分だと気づいたからだ。私はあそこで何を身につけ、何を失ったのだろう。
視覚を失うと聴覚と嗅覚が敏感になる。風の音。車の音。誰かの声。笑い声。オレンジの濃い匂い。死んでしまった健やかな果実。魂に匂いがあったなら、こんなふうに空に広がっていく様子を知れるのに。そうすれば世界は匂いが混濁して何が何だかわからなくなる。目蓋を薄く開ける。涙は流れなかった。オレンジをぐちゃぐちゃに踏み潰した足。ローカットのスニーカー。ああ、そうだ。思い出した。オレンジを殺したのはわたしだ。曇り空の下、柑橘の甘酸っぱい匂いが充満する午後。遠くで誰かの笑い声がきこえた。


つぶれたオレンジの笑い声


ニーナ(2013/6/9)


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