志村妙


爪が、われた。

その日妙は重苦しい気分を振り払うように明るく振る舞い、狂ったように笑い続けた。いやだ、旦那ったら。またそんなこと言って奥さんが泣きますよ。まあプレゼント?いいんですか?これすごく欲しかったの。うれしい、ありがとうございます。私ほんとうに嬉しいわ。
右の薬指だ。歪に欠けた爪に今は全神経が集まっている気がする。赤いマニュキュアをくれた男の声。思い出したくない。父の古い知り合いだと言う彼に出会ったのは一ヶ月前だ。偶然だった。まさか志村さんの娘さんが働いているとはなあ。お妙ちゃんが生まれた頃に一度だけ抱っこしたこともあるんだよ。低い笑い声が酔いの回った頭に心地よかった。彼はとても紳士的だった。何度か店に来てはわたしを指名し、父や母の話をしてくれた。たまにはネイルでもしたらどう?ある日、金色のリボンの付いた赤いマニュキュアを渡された。どんな高価なプレゼントより輝いている気がして少しだけ見惚れてしまった。そしてその日の夜、私はこっそりとドロドロの液体を爪に塗りつけたのだ。なんてグロテスクなんだろう。だけどあの時の私はまるで恋する少女のように自分の爪を見つめていた。そうだ、それで良かった。何も知らない。誰にも触られていない。どこも汚れていない。夢見る可哀想な少女で、それで良かった。
常連の客に水割りをつぐ。タバコに火をつける。引き攣りそうなほど笑う。だけど、そんな事より爪が、わたしの、爪がわれて。つめ。ねえかえして。

『あぁ、塗ったんだね。とても似合ってる。』

声がやさしく言う。既に酔っぱらっていた私は、今なら何でも出来ると思った。鈍る思考と熱い身体と甘い匂いとそれと赤い爪。店を出て誘導されるままホテルへ入った。何でもいい。離れたくない。おねがい昔の話をして。わたしの愚痴を聞いて。大きな手でなでて。不格好なネイルを褒めて。身体を抱くことで叶えてくれるならそれでいい。シーツを握りしめ、低い声に溺れる。抵抗なんてしなかった。明日になったらこんな事実は全部消えるような気がしてたからだ。こんな非現実的なこと、明日になったらなかったことになってるはずでしょう。事が終わって彼が耳もとで囁く。あたたかい息がかかった。そのあと家に帰ると案外すぐに眠れた。ほら、やっぱり今日のことは夢だったのよ。そう思った。

『また、お店に行くよ。かならず君を指名する』

なのに、次の朝は昨日の延長上にあった。なにも忘れられてない。それどころか頭が冴えたぶん、行為のひとつひとつがより一層生々しく蘇った。なんで。なんで。その時、気づいてしまった。

「…つめ…」

右の薬指のつめが欠けている。昨日だ。きのうのどこかで割れたんだ。何かの拍子に欠けたんだ。わたしの一部がどこかに行った。なくした、いやだ。返して。堰を切ったように後悔と嫌悪感が押し寄せる。わたし何してるの。かえして、返して、わたしを帰して、昨日より前に帰して。朝、新八が出かけたあと洗面所で泣いた。乱暴にネイルをとった。馬鹿だ。

その日妙は重苦しい気分が晴れないことを知りながら明るく笑い続けた。綺麗に切りそろえられた他の九本の中でひとつだけ欠けた爪。私の小さな世界の亀裂。
もう、二度とネイルなんてしない。


赤が欠けた


ニーナ(2013/6/9)


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