銀時と妙
彼が急に立ち止まるから。じゃあな、と軽い別れの言葉を告げて背を向けたはずの彼が目の前で立ち止まるから。わたしは少し戸惑って、その白い頭を見やった。どうして急に立ち止まるの?
(…あ)
違った。彼が立ち止まったんじゃない。
私は自分の左手を見た。それが掴んでいるのは紛れもなく男の腕だった。
(何やってるんだろう)
(なんで掴んでしまったんだろう)
いつもみたいに銀さんがうちにお茶を飲みに来て、いつもみたいに新ちゃんや神楽ちゃんの話をして、いつもみたいにストーカーの悪口を言って、いつもみたいに彼が私に失礼な事を言うから、そうよいつもみたいにちゃんと殴り飛ばした。それだけ。
そして、大きな仕事をする前のあの目をして、じゃあなって言って出て行こうとするから。だから、思わず。掴んで、しまった?
(どうしようどうしよう。なんて言って誤魔化そう。どうして手を伸ばしてしまったんだろう。この人を困らせてはいけない。どうせ止めても無駄なんだから。そもそも私にその権利はないのだから)
泣いて縋るような、面倒で可愛い女にはなれなかった。いつも理解のある風を装って、何でもないような顔をして、待つしかなかった。だけど、わたし。
「あのさァ」
ぼうっと考えているうちに銀さんが背を向けたまま声を発した。わたしの手を振り払うわけでもなく。
「あ…の、違うの。これは…」
「あーのーさァ」
呆れてるだろうか。失望しただろうか。わたしは、いつでも物分りのよい女でいないといけないのに。じゃないと困ってしまうのに。銀さんも、新ちゃんも、母上も父上も。だけど、でも、ねえ怖いよ。どうしてこんなに怯えているのだろうか。それを抑えるのも隠すのも得意だったはずなのに。どうして今日はできないのだろうか。ゆるゆると左手を彼の腕から離した。
「いいよ。掴んでて」
「…は?」
「ずっと掴んでていい。俺、これからたぶんどっか行きたくなるかもしんないけどさ、そん時は掴んで引っ張って止めていい。」
「…」
「巻き込みたくないとか傷つけたくないとかさ、たぶん勝手に思って離れようとするかもしんないから」
「な…んの、」
「つか、ウン。たぶんそういう衝動が来るんだよね。自分がいたら不幸になるだろうなー、みたいな被害妄想?銀さん結構ナイーブなわけよ。んで、まァ女々しいからさ。その後すっげ後悔すんの」
「なんの、話をしてるの?」
振り返って微笑む彼が、泣き出しそうに見えた。
「わかんねェ?」
とても悲しそうだった。だから、思わず私は引っ込めかけた左手でまた彼の腕を掴む。
「わかるでしょ」
その手を、今度は彼が掴んだ。
「わかってよ」
少し不安げな表情に、わたしは矛盾を感じる。命を投げ出すような戦いにはなんの恐怖も持ち得ないのに、こんな時にだけ彼の臆病さは顔を出すのだ。
「は…なしてって、言ったって」
ずるい、そんな顔をするのは。私は恐る恐る彼の手を握る。
「離してあげませんから」
そこでやっと彼が嬉しそうに笑った。ホッとして泣きそうになってしまったことは絶対に言わない。お願い、わたしを置いて行かないでね。こんな事を思うわたしを、どうか嫌いにならないでね。
「おう。んじゃ行ってくるわ」
彼は私の手を一度強く握って出て行く。その時、恐怖心はふしぎと消えていた。
ニーナ(2014/12/18)
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