銀時と妙


血だらけの銀時が志村邸になだれ込むように入ってきたのは、夜が明けはじめようとする藍色の時間帯で、ちょうど妙が仕事から帰ってきた頃だった。玄関の戸を引こうと手を掛けると、後ろで何かがぶつかるような音がした。反射的に振り向くと彼が門に凭れるように倒れていたのだ。辺りが暗くてもわかる。赤黒い血が着流しを染め上げていた。

「銀さん!」

夜と早朝の間で、皆が寝静まっていることも忘れて彼の名を呼んだ。駆け寄って身体を支える。ぶわっ、と悪寒が走る感覚がした。どこからともなく生まれた不安が一気に背骨を這い上がってきたような感覚。慌てて私は周りを見渡す。あの子たちは。もしかしたら二人もこんな大怪我を負っているのでは。だけど藍色の暗闇には私たち以外はいない。二人のことについて、とりあえず安心するとわたしは深く深く息を吸った。しっかりしなきゃ。大丈夫、いつものこと。大丈夫、すぐに治る。吸った息をゆっくりと吐く。私が取り乱してはいけない。妙は銀時を支えて立ち上がり、やっとのことで家の中へ入れた。
それからは案外冷静だった。身体を拭いて、止血をして、包帯を巻いて、その間何度も名前を呼んだ。しかし彼は苦しそうに唸っているだけだった。やっと日が登りはじめたので、万事屋に電話をかける。今日は新八もあちらへ泊まると連絡があった。

「新ちゃん、すぐに帰ってきますから。あなたまた一人で馬鹿なことして怒られますよ。本当いくら命があっても足りないわ」

返事のないまま彼に語りかけた。何とか銀時の呼吸も安定しだしたが、それでも歪む表情が痛々しい。妙は銀時の傍らに座り、ゆっくりと登る朝日を見た。あたたかい光が部屋の中を照らす。

「あ、気がつきました?」

その時、銀時の瞳が薄く開いた。顔を横向けて、眩しそうに空を見る。そしてどこか満足げに微笑んで口を開いた。今日初めての唸り声でない彼の声が空気を振動させる。



「             」



銀時のその言葉を聞いた瞬間、妙は世界が止まるような気がしていた。いいや、ちがう。止まってなんかいない。時間がものすごいスピードで巻き戻されるような感覚。めまいがした。びゅんびゅんと引っ張られて遠くへ連れてかれるみたい。不自然な程の極彩色が目の前を覆い尽くす。それは私の脳みそが勝手に加工した思い出なのだろうか。横たわる男の人。赤い太陽。膝の上で握りしめた手のひら。低い、かすれた声がする。とても鮮やかな、まるで作り物のような赤と橙のグラデーションが全てのものを染め上げて、わたしはとっても不気味だと思った。気持ち悪いって思った。なのに、なのに貴方はーーー。



妙はすっと立ち上がった。






目が覚めた時、遠くのほうで子どものはしゃぐ声が聞こえていた。瞬きを幾つか繰り返すと、見慣れた天井のしみが視界に入り込む。銀時は自分のいる場所がどこであるかを理解して、そして安堵した。そうだ、また厄介事に首つっこんじまって酷い傷を負ったんだ。やっとのことで志村邸に辿り着いた頃には、家主の女に声をかける力も残っちゃいなかった。見慣れたポニーテールを確認した途端力が抜けてしまったのだ。ああ良かった。やっと終わった。たしかそう思った事を覚えている。

「あ、銀さん起きたんですか」

声のほうへ視線をやると、新八が顔を覗かせていた。後から派手な足音が聞こえる。神楽だ。

「嫌な予感はしていたんですよ。三日も帰ってこないし」
「まったくどこほっつき歩いてたアルか!マダオに聞いてもズラに聞いても見てないって言うし」
「知らねえ間に巻き込まれてたんだよ」
「僕ずっと万事屋で泊まってたんですからね、心配だったから」
「そうヨ。寝ずに待ってたアル」
「神楽ちゃん銀さんの分までご飯食べてぐっすり寝てたよね」
「でもどうして万事屋に帰らなかったアルか?」

新八の指摘を無視して、神楽が好物の酢こんぶをしがみながら訊ねる。銀時は何でもないようにひとつ欠伸をした。

「いや、こっちのが近かったから」
「ふーん。で、傷の具合はどうなのヨ」
「ん?ああ、まあ大丈夫…だろ」

指摘されて、思い出したように脇腹に鈍痛が走る。大丈夫だろうとは言ったがやはり痛いものは痛い。自分の身体を見下ろすと、腹や肩や腕にはきっちりと包帯を巻かれ的確な処置が為されている。悲しいかな、覚えのある締め付けの感覚だった。

「一応病院行ってくださいよ」
「おお。明日にでも行く」
「ほんとかなあ」
「なあ、新八」
「はい?あ、ご飯ですか?雑炊かおかゆでも作りますね」
「ああ、うん。つーか、あいつは?」

歩いても歩いても目的地には辿り着かないのではないかと本気で思った帰り道。霞む視界に見た黒髪のポニーテールに、張っていた気が急に抜けた。
あいつ?一度頭を傾げた後、ああ、と思いついたように新八が言う。姉上のことですね。

「なんか用事があるって、出て行きましたよ。」
「ふうん」
「昨日も夜中まで仕事だったはずなのに、朝早く出ていくなんて何の用事だろうなあ」
「…は?朝?」
「ええ、万事屋で寝てたら電話があったんですよ。銀さんが大怪我してうちに来てるって。それで急いで帰ってきたら丁度姉上が入れ違いで出てってしまって」

なんだ、それ。銀時は無意識に眉根を歪めていた。露骨に不機嫌になるような積極性はない。だけど怪我の手当てをするだけして出て行った女の後ろ姿を想像すると何故か面白くない。看病とセットになっている説教も鉄拳制裁もなかった。小言のひとつだってなかった。歓迎すべき事実なのに、引っかかって仕方ないのはおかしいだろう。

「わり、俺も用事あったんだわ。ちょっと出てくる」
「はああ!?あんたアホですか?そんな身体で用事もクソもないでしょ!」
「いや案外大丈夫なんだって。すぐ帰るからよ」
「姉上に叱られますよ!」
「おい神楽。ちょっと、あいつ。いる?」
「あいつって誰ヨ?」


きょとん。神楽が酢こんぶをくわえながら首を傾げる。


ーー


「おねーさん。酒、一杯ちょーだい」

女はすでにぴかぴかにされているテーブルをひたすらに磨いていた。ドアが開いたことにも気づいていない様子で、しばらくその背中に声をかけることが出来なかった。あまりにも寂しい後ろ姿だった。
彼女がようやく立ち上がったタイミングで声をかける。大袈裟に肩が揺れ、勢い良く振り向いた。

「あなた…」
「よう」

信じられないといったふうに目を見開いている。片手を上げると、妙は気まずそうに目をそらした。そのことも、やはり面白くない。

「どういうつもりですか?そんな身体で出歩いて」

布巾を洗い場へ持って行き、水道の蛇口をひねった。水がシンクを叩く音がする。
この身体で街中探し回るのはさすがにキツイ。神楽に頼んで定春を連れてきて、その嗅覚で妙の居場所を探させた。スナックすまいるには彼女の他には誰もいない。いつもの賑やかさを知っているからこそ余計に感じる静けさがあった。夕暮れのスナックは冷たい。

「悪かったな。迷惑かけて」
「別に、いつものことですから。それに私は簡単な処置をしただけで、後は新ちゃんと神楽ちゃんが看てくれてたんでしょ」
「お前さ」
「今日はうちに泊まりますか?それなら神楽ちゃんのお布団も用意しなくちゃね」
「聞けよ」
「今日は臨時休業よ。女の子たちが流行病になっちゃって。だから」

一度も目を見ずに言う。拒絶を感じさせる硬い声だった。

「お酒は飲ませられません」

強い水圧がシンクを叩き続ける。静かすぎる部屋の中を誤魔化そうと必死だ。キュッ。彼女が締める事が出来ない蛇口を、銀時が代わりに締める。やっと止まった水音に、妙は泣きそうな顔をして見上げた。

「臨時休業のくせにお前は何で出勤してんの」
「掃除を」
「ナンバーワンのキャバ嬢が?」
「関係ないわ」
「わざわざ明け方に出てった用事が、これか?」

妙は言葉に詰まり、しおれた花のように目をふせる。背中の傷が痛む。心臓が痒い。面白くない。だけど何が?そして何故?新八のいった言葉を思い出す。姉上に叱られますよ。ああ、自分はおそらく。

「大丈夫なんですか。あなた、傷」
「いつも通り完璧な処置してもらったんでね」
「覚えてます?うちに来たときのこと」
「あんまり」
「やっぱりね」
「でも、」
「え?」

まばたきをする。暗闇の中に浮かぶ後ろ姿を思い出す。それまでの孤独な道がすべて忘れ去ってしまえるほどの、それは。

「お前を見たとき死ぬほど安心した」

彼女の目がまた見開いた。

「…死んだら、意味ないじゃない」
「うん」
「留守だったり、寝てたりしたらどうするつもりだったんですか」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「ごめん」
「ごめんって」
「怒ってんのか、悲しんでんのか。わかんねーけど、店で一人で掃除しねえといけない訳が俺のせいなら謝る」

こんな、冷たく静かな部屋の中。楽しそうな声が飛び交う賑やかな場所であるはずのスナックで、たったひとりで掃除をしなければいけなかった理由。家を出てしまいたくなった訳。それが自分のせいであるなら。そうだよ。おれは、叱ってほしかった。目覚めたときにお前の怒った顔が見たかった。それがなくて、馬鹿だよな、拗ねていたんだ。彼女の孤独も知らないままに。

「…銀さん」

違うの。

妙は哀しくなっていた。この人が本当は優しいことを知ってるからだ。
何も言ってはいけないと思った。だから怪我をしたこの人の目覚めも待たずに家を出た。用事もないのにここへ来た。言ってはいけない。優しいこの人に、わたしの鉛のような感情を押し付けてはいけない。
だけど声は勝手に語りはじめていて、今朝から続く自分の混乱を、吐き出してしまいたいのだと知って苦笑する。オレンジの光が、小さな窓から侵入していた。

「むかし、父上が風邪を引いた日のことが蘇ったんです。今まで思い出すことなんかなかった。本当に突然で、フラッシュバックみたいに蘇ったの。死に至らしめた病じゃなく、ただの風邪を引いた日のことです。だけどきっとそれから始まったのよ。体調の変化はきっとあの風邪からなんです」

乾いた咳が聞こえる。側に座りながら一丁前に看病をしていた幼い自分。

「子供なりにね、看病をしたんです。汗を拭いて着替えを手伝ってって。父は笑ってた。夕日を見て笑ってた」

極彩色の夕日。熟れた、腐りかけの柿のような色。その景色が朝から妙を支配していることを銀時は知らない。あれは実際の映像なのだろうか。それとも自分が脳内加工したのだろうか。気持ち悪い色だった。

「私は不気味な夕日だって思っていたんです。なんだか今日の夕日は変だって。だけど、父はそれを見て笑ってた見惚れてた。綺麗な夕日だなぁって、とても満足そうに」

どうしてそっちを見るの。嬉しそうに笑うの。全然、ぜんぜん綺麗なんかじゃない。幼い妙はそう思った。わたしはこっちだよ。ねえ、父上。身体を拭いたのは私。薬を持ってきてお水を汲んで布団を掛け直して着替えを手伝ったのは。

「どうしてそっちに行ってしまうのか。どうして連れて行こうとするのか。おかしいでしょう?わたし、」

妙は頬を引きつらせながら笑った。下手くそな笑顔だった。

「夕日に父を盗られると思った」

夜が常であるスナックに、橙の光が差し込んで初めて、ここにも窓があることに気づく。銀時は自分の手が彷徨いながら彼女の腕をつかむところをぼんやり見ていた。妙の瞳から涙が落ちないことが余計に悔しい。

「ねえ、おねがいよ。銀さん」

誰かを抱きしめたいと、こんなに強く思ったのもまた初めてだった。

「こっちを向いて」

悲痛な声は掠れて消えた。妙の願いを叶える事が出来ない。だって、俺はとうの昔からお前を見ている。今朝、自分が言った残酷なうわ言が、きっと彼女の幼い日の心を呼び覚ましたのだろう。銀時はついに妙を抱きしめた。窓から侵入する日の光を浴びないように。あの色を遮断するように、つよく。

夕日、どうか早く沈んでくれ。あしたはきっと元通りになるから。





夕やけこやけで途方に暮れる




ニーナ(2015/8/14)


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