名前を呼ぶことに躊躇っていた事を思う。出席をとる時は弟と区別するために、いつも苗字にプラスして姉と呼んでいた。先生は私の名前を知っていますか。ある時彼女が言った。私の名前を呼んでください。ひとり言みたいにか細い声で言った。おれは卑怯にも眠ったふりを続けるしか出来なかった。どうして躊躇っていたのか。その理由もわかっていたのに。




chap7.
さよならまたあした。





『わたしね、懐かしいって思うんです』
「…懐かしい?」
『季節が移り変わるのとか、年を一つずつとるのとか。時間が流れるのが、懐かしい。』
「ああ」
『懐かしいって、それってつまり、もう失くしたって事ですよね。もう戻れないってこと。わたし、ぜんぶ失くした。先生にとっては何年も前なんでしょうけど、私は、私の時間はもう動かない。生きる煩わしさとか、時の残酷さとか、何にもわからない』

話しながらゆっくりと歩いて、妙が立ち止まったのは鏡の前だった。

『もう何も見えないよ。何も聞こえないし何も感じない。暑さも寒さも、先生の顔も声もわからない。』
「…喋ってるじゃん。おれのこと見てるだろ」
『見えてるフリしてるだけですよ。聞こえてるフリしてるだけ。この部屋を歩いてるフリして、そこのソファに座るフリしてる』
「…志村」
『未練なら、後悔なら、数えきれない。買うの迷ってた服とか読み切れなかった本とか新しくしたかった携帯とか、いっぱい、いっぱいある。死ぬって、そういうことですよ。新ちゃんを残していきたくなかった。神楽ちゃんにもっと色々教えてあげたかった。九ちゃんともっと遊びたかったし、りょうや花子ちゃんともいっぱい喋りたかった。猿飛さんと馬鹿みたいな喧嘩して、近藤くん吹っ飛ばして、土方くんと沖田くんにそれ押し付けて、先生に』

彼女がこちらを向く。うるさいくらいの賑やかな教室。確実に変わる季節。笑い声。古い木の匂い。

『先生の、だらしないとこ怒って仕事を手伝って文句言って、でも不安な事あったら一番に相談して、あの教室で、もっと、みんなと、先生と』

やさしい声。盗み見した横顔。大人気ない口実でいつも手伝わせていた。

『先生、ねえ先生。未練も後悔も数えきれないよ。わたし、あなたに好きだって言いたかった』

はにかんで笑った顔。俯いた前髪が隠した瞳。細い肩。成長途中の少女。そのすべて。

『届かなくても叶わなくてもはぐらかされても、言えば良かった。もう、ぜったいに出来ない』

ああ、そうか。と、気づく。

そうだったんだな。ずっと間違えていたんだ、俺は。気づいてしまった。それがとても悲しい。

「わかった。志村、俺もうわかったよ」
『せんせ…』
「お前が幽霊なのは、お前がこの世に未練や後悔があるからじゃない」
『せんせい』
「おれが、お前に未練があるんだ」
『先生…っ』
「後悔があるんだ」

縛られていたのではなく、おれが縛っていたのだ。成仏もしないまま、俺だけの幽霊は何年もずっとこの部屋に閉じ込められ続けてくれた。彼女を呼び寄せたのは他ならぬ自分じゃないか。
彼女に近づき、頬に触れようとする。生前、怖くて触れられなかった頬。死後、物理的に触れられなくなってしまった頬。触るフリをした。それから、だきしめるフリをした。感触は、やはりない。

「あいしてる」

もう彼女には届かない。想っていたこと。気持ちに気づきながらはぐらかしていたこと。明確に突き放せなかったこと。今もずっと忘れられないこと。届かない。だけど、やっと自分の中で認めることが出来た。

「信じるよ。おれ、輪廻転生も天国も信じる」
『うん』
「生まれ変わったら、また会えるだろ」
『はい』
「それまで待っててよ」

顔をあげて彼女を見る。それまで、多分おれはちゃんと進まなければいけない。あの陳腐な歌みたいに。安っぽいドラマのように。
そっとくちびるを寄せる。そして、幽霊の彼女にキスをするフリをした。

『先生』

志村がまぶたをひらく。にっこりと笑った。あの日と変わらない笑顔で。

『先生さようなら。また、あした』

ガラガラ。彼女が姿が消えると同時に、国語準備室の戸が開く音がした。

「ああ。また明日な。」

そっと目をつむった。浅く息を吸い込む。

「…たえ」

次に目を開けたとき、窓から桜がひとつ部屋の中に入り込んだ。

(ああ、)

まばたきをする。堰を切ったように涙が流れた。それを拭う余裕すらなく想っていた。今、この瞬間はたった一人のことだけを想っていたのだ。桜が舞って、雨のように散る。悲しい程の鮮やかな薄紅色だった。別れの季節だった。

(やっと冬が開けた)

それから、二度と志村妙の幽霊が現れることはなかった。神々しく光が差すわけでもなく、抱えこんでいた秘密が明らかになったわけでもない。大きな変化はひとつもなく、ただ自分のなかでそっと彼女は生きつづけた。甘いものもタバコもやめられないけど、あのクラスの生徒たちと会う機会は増えたように思う。そうして何度も季節が変わり、確実に年をとっていくおれは、相も変わらずだらしなく毎日を過ごしている。

あのとき最後に呼びかけた声は聞こえただろうか。最初で最後に面と向かって呼んだ名前。聞こえただろうか。 そのことだけが、人生のなかで時折胸をかすめ続けた。





ニーナ(2014/11/13)



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