たとえば次々生産される歌に、少しの絶望を感じる。表現が陳腐なものから言葉遣いが巧みなもの、暗にメッセージを含むもの。そのほとんどが前進を促すものだ。希望を信じろ。夢を諦めるな。たまには立ち止まり、だけど前へ進め。歌ばかりではない。テレビドラマや映画や小説。スポーツ選手や偉い先生やタレントのエッセイ。訴えかけるのだ。色々な過程を経ても、結局最後は少しずつでも進むことをやめてはいけないと。
だけど、本当にそうなのだろうか。止まったままではいけないのだろうか。どれだけ抵抗しても時間は進む。ならば、おれぐらいが止まったって、誰も困らないだろう。そういうことを考えては、嘲るように笑う。かなり危ないよな、おれは。



chap6.
未練も後悔もない人生。






『あら、先生。どうしたんです?手が赤いわ』

志村妙が首を傾けて言う。手の甲の赤くなった皮膚を見つめていた。ずっと体育館から生徒たちの歌声が聞こえていた。卒業式を明日に控えて最後の予行演習をしているのだ。

「あー、ウン。ちょっとヤケドした」
『ふうん』
「ぼーっとしててなァ。湯のみ倒して茶かかった」
『まあ、先生らしい』

彼女はおかしそうに笑った。火傷は少しだけ水ぶくれになっていたが大したことはない。近づいて、俺の手の甲に半透明の指を添わせる。揺らぐ感情に平静を装った。案の定、そこには何も感触がない。

『痛いですか?』
「痛くない」
『ほんと?』
「本当」
『痩せ我慢』
「違えよ。先生はこんなことじゃ痛くないの」
『じゃあ、どういうとき痛いんですか?』
「んなモン教えねえよ。男はね、弱み見せたくない生き物なの」
『小さいプライド』
「うっせ」
『じゃあね、先生』
「なに」
『わたしがいなくなった時は痛かった?』

何も言えず妙の顔を見る。彼女は答えを待たずに次の言葉を言った。

『ねえ、先生。わたし本当にいたのかしら』

重なったはずの手はいつまでも感触がない。瞳をふせたまま、赤い皮膚を見つめる。

『本当に生きてたのかしら』
「当たり前、だろ。何言ってんだよ」
『じゃあ、』

妙がこちらを見据える。
窓の外に桜の木がある。その花びらが、ずっと灰色にしか見えないんだ。

『本当に、死んだの?』

静寂が部屋の中に充満していた。いつもなら煩い時計の針の音も聞こえない。本当に死んだの?
ああ、そんなことはこっちが聞きたい。なあ、志村、痛いよ。どこもかしこも痛い。お前を想うといつもだ。

『ねえ先生。もしもの話よ?この街が大火事になってね、みんなが記憶喪失になって、誰も私が生きてたこと覚えてる人がいなくなるとするでしょ。役所も全部燃えちゃって記録もなくなるとするじゃない。写真も全部なくなって、わたしの生きた跡がすべて消えたら』
「…馬鹿か」
『わたしがいた事もまるごとなくなりますよね。その事実がなくなる。』

人間の生きた証なんて、とてもおぼろげだ。どれだけ記録しても、写真に収めても、そんなものは証拠になりえない。すべては夢だったと言われればそこまでだ。だけど、彼女は、志村妙は、確かにいた。少なくとも俺の世界にはいたんだ。

『どうやったら成仏できるのかしら』
「…は、なに、急に」
『だって、いけないでしょう?いつまでもこのままは』
「知らねーよ。なんか、やり残したことでもあるんじゃないの」
『やり残したこと?』
「あと未練とか後悔とか」
『未練と後悔ね』
「ないの?そういうの」
『どうですかね』
「は?」
『わかんないな』

彼女がつぶやいた。忘れるくらい軽傷の火傷がひりひり痛む。心臓の奥がじりじりする。もう、いい。一生この痛みは居着いたままでいいから。

「いーじゃん、もう」
『え?』
「成仏、しないまんまでいい」
『…』
「生徒がさ、面白い噂してんだよ。おれがお化けに取り憑かれてるんだってさ」
『先生』
「もうそれでいーじゃん。取り憑いてよ。そのまま呪い殺してくれ」
『せんせ…』
「それが無理なら、ずっと幽霊のままおれが死ぬまでいてくれよ。おれが定年なったらうちに住み着けばいいだろ」

なあ、痛いよ志村。お前が死んでからずっと。放っておいても明日は来る。嫌でも時間は過ぎる。おれがわざわざ進まなくてもいいじゃないか。なあ、そうだろう。俺は。

「頼むよ」

前進なんか望んでいない。





ニーナ(2014/11/8)



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