『もういいです。もう知りません』
恐ろしいほど静かにそう言い放った妻は、声に反して大きな足音を立てながら廊下へ出た。怒っている。めちゃくちゃ怒ってる。全然よくない。喧嘩などいくつもしてきたので直感としてわかる。こういう時はすぐに謝らなければいけない。うやむやにしたり、はぐらかしたり、つまらない意地を張ったり、ましてや言い返したりなど絶対にしてはいけない。
銀時は慌ててその背中を追い、妻の腕に手を伸ばした。
「待てって、妙」
その手を掴んで、目を開ける。…あれ、目?
「え?」
気づくと誰かの手を握っていた。白い、小さな手。ああ、なんだ。と銀時は思った。なんだ、夢か。ほっと息をつく。すげえ焦った。
銀時はその白い手の持ち主を見上げた。夢の中と同じ人物だった。
妙はやや驚いた顔をして瞬きを繰り返している。ひとつ咳をして、あー、と無意味に声を出す。頭がぼうっとしていた。まだ半分眠っているようだ。何やら最近よくない夢ばかり見るのだ。
不安や焦りの残骸を吐き出したくて銀時は口を開いた。
「…変な夢見た」
「夢?」
「離婚する夢」
「…リコン」
「ん。お前がガチでキレて今にも出ていくところで目ェ覚めたからさ、めっちゃ焦ってさぁ、おれ…」
鼻にかかった低い声で、覚醒しきっていないままむにゃむにゃと夢の説明をする。白い手は握りっぱなしなので、妙は動きを制限されてしまっていた。
「速攻で追いかけて止めようとしたのよ…だってマジであれはヤバかったからね。最終形態だったね。つーか何で喧嘩してたんだっけな…えーと、…あーそうだ。結婚記念日忘れた?とか何とか…」
我ながら実につまらない理由だ。リアリティがない。現実であればそれだけで妙があんなに怒る訳がない。もちろん怒るだろうが、グーパンで終わるレベルだ。そういう雑さが夢の変なところだ。よく考えればおかしい事はわかるのにそれを疑わないのだ。そもそも俺は結婚記念日を忘れるなど、そんなヘマはしない。ほら、結婚記念日は、ええと…。
考えながら眉間にシワを寄せていた銀時の表情が止まる。ん?ケッコンキネンビ?
「…は?」
「銀さん」
「えっ?」
「ねえ、さっきから何の話を…」
「や、ちょっ…待て。待って?待って待ってお願い!マジ何も言うな!」
ガバッと起き上がる。嘘だろ。あり得ない。最悪だ。信じられない事をしてしまった。胸ぐらを掴まれたように一気に覚醒し、しかしいっそのこと気絶でもしたい気分だった。サアッと血の気が引き、冷や汗が浮かぶ。完全にパニック状態だ。
「い…」
「え?」
「痛い、銀さん」
「え、あ…」
視線を落とす。未だ掴んだ妙の手を、混乱したまま握りしめていた。加減せずに、力を込めて。慌てて離そうとすると、今度は妙がそっと手を重ねる。
「ねえ」
「…っ」
やばい。シャレになんねえ。マジでやばい。何がヤバいとかじゃない。全部ヤバい。まともに見つめ合ってしまった。どうしよう。
よくない夢ばかり、最近見るから。よりによって志村邸で居眠りなんかしてる時に。マジで最悪すぎる。
「銀さん」
「ちょ、頼むからこっち見んな」
「あなた、わたしと結婚している夢を見てたの?」
ガクッと項垂れ、手で顔を覆う。なんでそうストレートに言うんだよ。笑って流してくれよ。知らんふりしてくれよ。そういうの得意だろ、お前。つーか夢の中で夢見てるって何なの。何で二重に夢見てんだよ。何のトラップだよ。バカなの?
「ねえねえ」
「…」
「初めてですか?」
「…は?」
妙は沈黙を肯定としたらしく、そのまま話を進めてくる。驚いて思わず彼女のほうを見てしまった。何なんだこの女。悪魔か。鬼か。
「初めて見たんですか?それとも、よく見るの?わたしと夫婦になる夢」
「な…っ」
「ねえ教えてください」
「…っ」
しかしその目は少し潤み、心なしか頬は赤く、どこか期待の含んだ声音は、すべて自分の願望が見せているのか。それともこれもまた夢なのか。銀時は頭を抱えた。
近頃、よくない夢ばかり見るのだ。
夫婦だったり恋人だったり子どもがいたり孫までいたり。何がよくないって、相手はいつもこの女であることだった。いつだって妙しかなかった。実にまずい話だった。
よくない。こんな夢ばかり見ていたら、ああ、クソ。認めざるを得ないじゃないか。
「銀さん」
「…」
「本当にする?」
じりじりと妙は銀時へ近寄った。
「現実にしてしまいましょうか」
ねえだってそうしたら、と微笑むので銀時は血の気が引くのを感じた。手足は冷たくなっていくのに、顔が熱くてたまらない。どういう症状なんだコレは。
「そうしたら夢と現実が混ざって混乱することもないわ」
本気か冗談かわからない。機嫌良さそうに細める瞳が輝いていた。まぶたの端が赤い。そうだ。酒を飲んでいたのだ。きっと酔っぱらいの戯れ言だ。今のことだって明日になれば忘れている。絶対そうだ。
「ねえ私と夫婦になる?」
でたらめに笑いながら指を絡ませる。
「きっと上手くいきますよ」
指のはらで手の甲を撫でられ、ぞくぞくと鳥肌がたった。銀時は力を入れ、その手を握る。ちょっと引いてみると呆気なく彼女の上半身はこちらへ倒れた。耳元で甘い声が囁いた。
「わたしが幸せにしてあげる」
夢を見ているのかもしれない。今もまだ、眠りの底にいるのかもしれない。ならば覚めないでくれなどとそんな陳腐なセリフを思うことになるなんて考えもしなかった。
「…うん」
やっと出たのは弱々しい声だった。震えていて、余裕がない。全然男らしくない。大人らしくもない。全く情けない話だ。それでも頷いて抱きしめるしかできなかった。
お前が何もしなくたって俺はたぶん勝手に幸せになるんだよ。何度も何度も夢に見るほど、俺はずっとお前が好きだったのだから。
ニーナ(2020/10/24)
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